第11話 YKセンセイのスキーレッスン

 こんな場合にたいていの人は、どんなやり方を選ぶのだろう。考えてみた。たとえば、こんなふうに?まず、待ち合わせ場所を提案する。市街地の中心部にあって、だれもが知っているような、目立つ場所。JR駅前のステラプレイス、その1階のエレベーター前。それともベタに、三越ライオン前。でなければ、ジュンク堂書店1階入り口横、自由に座れるベンチスペース。


 それらの内の、どれかの場所で待ち合わせ、折よく出会えたら(各自が電話を身に着けているこの時代、行き違いなんてまず起こりっこないけど)、最寄りのカフェにでも、誘うのかしら。


 ありふれた手順だけどね、こういうやり方には、いいところがちゃんとあるわ。

 リツコさんは言った。初対面の相手を、それとなく観察できるでしょ。何気ない会話とか、歩いて移動する間とか、そういうときにこそ、人の本性ってチラ見えするものだから。だからもし、ほんの少しでもイヤな印象を受けたら、迷わずダッシュで逃げ出すのよ。わりと安全に、それができそうなシチュエーションだしね。


「なのに、スキー場だって。一体なんのつもり?ふざけてんのかしら」

リツコさんはさっきからそう言い募り、憤慨していた。

 キーラの精子提供者であるという、YKセンセイからの提案で、面会場所はМ山市民スキー場になったと、段田南海市長から知らされたところだった。


(スキーしますかね?その子は)。

 YKセンセイは、そう言ってのけたらしい。まるで、自分の受け持ったクラスに転入してくる生徒について、尋ねる教師のような口調だったとか。

(それなら、すこぶる有り難いんですがね、こちらのスケジュール的には)


 段田南海市長は確かめもせず、スキーくらいしますよと即答して、面会の日

時を取り決めた。リツコさんからその点を突っ込まれると、(四の五の言って隙を見せたら、逃げられちゃうかもしれないでしょ、スキーの道具ならウチにあったんじゃない?車庫の物置、探してみてよ)と、宣った。


 あたしたち、あたしとキーラにとって目下の大問題は、その日が初スキーの記念日になることだった。めいっぱい能天気に考えてみても、その日を最高に楽しい記念日だと思える気はしなかった。そしてその日は、たったの四日後に迫っているのだ。


 段田南海市長は抜かりなく、YKセンセイにあたしの存在を知らせてあった。曰く、ユリアという子はキーラと一緒に育った、気心の知れた友だちなので、同行させて下されば、キーラのメンタルによい影響をもたらすでしょう、とかなんとか言って。しかしもちろん、自分自身とあたしとの、極めて濃い関わりについては、口を噤んでいた。


 あたしにはもうひとつ、重大な自分だけの忸怩たる思いがあった。それはもちろん、キーラの父親にあたる人物が、あたしの大好きなYKセンセイだったという、トンデモすぎる偶然の一致によってもたらされたものだ。知った途端から、そのことはずっしりと重く、あたしの心と身体にのしかかっている。


 この面会は、いきなり過ぎる接近だと、あたしは感じていた。メディアを通していたからこそ、大好きなYKセンセイだったのだ。実際に会って、キーラに対する彼の振る舞いを目の当たりにしたら、大嫌いになってしまうかも知れない。確率はゼロじゃない。そう思ったら、キーラがYKセンセイと面会するМ山市民スキー場へ、あたしも本当に行きたいのかどうか、わからなくなってくる。


 なんてイジイジしてる間にも、あたしたちの初スキー行の準備は、着々と進んだ。なにしろ、たったの四日後なのだ。立ち止まったり、躊躇ったりグズッたりしているヒマはなかった。否でも応でも、準備しておかなくちゃ間に合わないのだ。


 もちろん、当日の主役はキーラなのだ。ウェアにしてもブーツにしても板にしても、マシなほうをキーラに譲らなくちゃと、あたしは心得ていた。一番肝心なのはウェアだけど、サイズ的に着られそうなのが二枚あったので、結局はどっちかの二択だった。


 そこは数年前まで、段田南海市長の両親が住んでいたという家だった。一階が車庫兼物置になっている、三階建て住宅。この街ではわりと一般的な、積雪対策優先の造りだ。冬の朝、出かけようとしたら、吹き溜まった雪の重みで玄関ドアが開かない、なんて事態を避けるために。


 その代わりに、年中階段の上り下りが必要な家でもあった。そして、その階段の上り下りが困難になった段田南海市長の両親は、多忙な一人娘をあてにせず、自ら介護付き老人ホームへ転居した。


 家は手つかずのまま、維持されてあった。段田南海市長本人が生まれ育った家でもあるので、少女時代の思い出の品々が、そっくりそのまま残っていた。というよりむしろ、ここに暮らした人々の持ち物が長年にわたって詰め込まれ、溢れかえっている家だった。穿れば、なにかイミあるものが出てきそうな期待感を持ったとしても、実際に続々と現れるのは無用のものばかり。そんな家だった。


 あたしはキーラに、一見マシな方のスキーウェアを着るように勧めた。ELLESSEのロゴがついたそのウェアは、シミ汚れとほつれはあまり目立たず、色褪せもそうひどくない。でもキーラは、その色がラメ入りのショッキングパープルだからと渋って、あたしに寄越した。たしかにそのショッキングパープルは、キーラのキャラと似合っていなかった。


 例えるなら前世紀末のバブル期、首都に生息していたという、イケイケギャル的コスプレをした、今世紀の悪ガキ。そんな感じだった。控えめに言っても、品がないこと甚だしかった。

 品がないと言えば、あたしが着ても同じだったけど、ここは譲るしかない。あたしはやむなく、ショッキングパープルのELLESSEを受け取った。


 次にキーラは、テカテカした白エナメル地で、襟と袖口に赤と紺色のアクセントがついた、たったもう一枚の選択肢であるスキーウェアを広げた。胸もとにLibertyBellの文字と、呼び鈴みたいなベルの刺繡があった。


 でも、白エナメルなのだ。よくよく見れば、小さなヒビ割れ傷がたくさんある。シミ汚れもある。全体に、なんとなく黒ずんで見える。いったん気づいてしまったら、もうどうしようもなく、アラが目についた。


 これ着るの?あたしは茶化したつもりだったのに、キーラは大真面目な顔でうなずいた。いーじゃない、アタシもこのウェアも、おんなじくらいポンコツだもん、ぴったりでしょ。なるほど。ポンコツの度合いを競うなら、あたしだって負ける気はしなかった。


 LibertyBellのスキーウェアを羽織ったキーラは、例によって利きすぎる鼻を利かせ、ぎっしり詰まった収納棚から家族のアルバムを見つけ出した。こんな具合に、いつだってキーラは探し物が得意だ。どうしてかなんて、あたしには見当もつかない。


 その中にあったスナップ写真によれば、LibertyBellを着た段田南海市長は十代後半くらいと思われた。ELLESSEを着ている姿はもっと大人で、三十歳くらいだろうか。あたしの目は、アルバムに貼ってあるたくさんのスナップ写真の上をなぞる。素早く探る。そして、それらしきふたつの顔に見当をつける。段田南海市長の両親と思しき、年配の男女。


 この人たちユリアと似てる、どこってうまく言えないけど、感じが似てる。肩越しに覗き込んで、キーラが言った。あたしは、遺伝的にあたしの祖父母にあたる人たちと、顔立ちが似ていると言うのだった。


 たしかに、そうかも知れない。いくらかは納得。でも、それよりなにより、あたしには祖父母の概念がわからないのだ。あたしの、お祖父ちゃんとお祖母ちゃん。口に出して言ってみても、全然ピンと来るものがない。

 そこはキーラだって、きっと同じだ。


 М山市民スキー場の第三駐車場で、キーラとあたしはスキーブーツに履き替えた。これが、なかなか難儀だった。家の車庫兼物置の固く平らな床面と違って、駐車場の圧雪面は凸凹でツルツル、危険なほどの傾斜があった。


 リツコさんも、ハタと考え込んでしまった。三人で、二人分のブーツとスキー板とストックを手分けして持ち、ロッヂまで登って行った場合と比べてみた。どちらがよりしんどいのか。スキーブーツは、履くべきか持つべきか。ロッヂは遥かに彼方の高所にあった。年代物のスキーブーツと板は、バカでかくバカ長くて超重いのだった。


 ここでブーツを履こうと言い切ったキーラの左右に立って、あたしとリツコさんはその肩を支えた。まだ履かれていない方のブーツが滑り落ち、逃げ去ってしまわないように、あたしは片足を精いっぱい踏ん張ってストッパーにした。こんなアクロバティックな態勢が、自分に出来るとは知らなかった。


 キーラは案外スムースに、スキーブーツを履き終えた。次いで、あたしが支えてもらって、ブーツに足を入れた。傾斜した圧雪面では、ただ立っているだけでも難しい。けれど、不自然さと違和感のピークにあって、それなりにバランスを取れた。ブーツの底は意外に、ツルツル路面にガッチリと食い込んだ。


 あたしたちは、カシャカシャとブーツの留め具を鳴らしながら、ロボットみたいに無骨な足運びで、ゲレンデまでの上り坂を行進した。一度も転ばないですんだのは、驚きだった。


 段田南海市長の両親の家を出発するときは、激しい吹雪だった。こんな天候じゃスキーなんかできっこないよね、と言い合いながら、パジェロミニでのろのろとМ山を登ってきた。それがスキー場にたどり着いたら、からりと晴れてまぶしいほどの青空なのだった。


 やっぱスキーしなくちゃなんないのか。キーラはしきりとボヤいた。あたしも同じ気持ちだった。吹雪のせいで一旦は、スキー面会が中止になるかもしれないと期待した。あたしたちの脳は、もう青空を受け入れたくなかった。


 街は晴れていても、山ではきっと吹雪いている。よく聞かされる格言的な言い伝えと、真逆の現象に直面したのだった。何事につけても、こうであるはずだと、決めつけてはいけない。だれかに諭されたような気がした。雪面に照り返し、まぶし過ぎる陽射しが目に痛かった。


 やっぱりゴーグル、あった方が良かったかしらね。リツコさんのつぶやきに応えようと振り向いたとき、まっすぐ滑り降りて来たその人の影に遮られた。力強く的確なブレーキで、平たく言えば超カッコよく、あたしたちの間に滑り込んで止まった。


 ニューモードらしいカーキ色のウェアに包まれた長身から、濃いサングラスがあたしたちを見下ろした。あたしたちが着ている年代物のELLESSE とLibertyBellに、気づかなかったはずはない。でもその人は、気づいた素振りも見せなかった。なんて紳士なんだろう。あたしはときめいた。


 その人はリツコさんに向き合い、サングラスを外した。たしかにYKセンセイだった。ふたりは挨拶を交わし、キーラとあたしが引き合わされた。YKセンセイは強いまなざしで、じっとキーラのアイスブルーの目を覗き込んだ。あたしはそのYKセンセイから、目を離せずにいた。


「段田南海市長がなんと言ったか存じませんけど、この子たちはスキーが得意ではありません。もしよろしかったら、ロッヂでお話しなさいませんか?」

リツコさんはまぶしそうに、YKセンセイを見上げて言った。

「ほう。この前スキー場に来たのは、いつだった?」

 YKセンセイは、直接キーラに尋ねた。

「ええと。あんまり覚えてないけど、たぶん、五年くらい前」


 ちょっぴり訂正を加えると、スキー場ではなくあたしたちが育った〈家〉の裏山で、ミニスキーや橇で遊んだことを、キーラは言っているのだった。

 YKセンセイはキーラの目をじっと見つめ、それからリツコさんの目も見つめた。何事か決断するとき、そんなふうに、近くにいるだれかの目を見つめて考えるのが、習慣であるらしい。けれども、YKセンセイはあたしの目を、見つめてはくれなかった。


「スキーが得意でない人も、得意でないなりにスキーを楽しむことはできると思いますよ。三時間ほど、二人をお預かりします。あなたは麓の日帰り温泉にでも行って、休まれたらいかがですか?」

「ええ、まあ、それもいいですね」

 リツコさんは、いかにも社交辞令的に答えた。


 でも、あたしは知っているし、キーラも知っている。リツコさんは昼間から温泉に浸かってひと休み、なんてことは出来ない人なのだ。泊りがけで温泉に行って、のんびりしているリツコさんを思い浮かべることも、なかなか難しい。〈家〉以外の場所で、あたしたちから離れて、リツコさんがリラックスするなんて、あり得なかった。もちろんそのことは、リツコさん本人も自覚しているはずなのだ。


 麓の日帰り温泉施設へ行くような素振りをして、立ち去ってゆくリツコさんを、あたしたちは心細い思いで見送った。その姿が完全に見えなくなった途端、猛烈な不安に襲われた。本当はどこへ行ったのかしら。また会えるだろうか。もう迎えに来てくれないんじゃないかしら。キーラのこわ張った顔を見たら、あたしと同じ気持ちでいるのがわかった。


「さてと」

 そんなあたしたちに、YKセンセイは暢気そうに声をかけた。お別れタイムはもういいだろう?とでも、言いたそうな調子だった。

「第一リフトに乗って、まずファミリーコースを滑ろうと思うんだが、それでいいかな?」

「よくない、かも」

 キーラが答えた。

「ほう。どうして?」

 YKセンセイは、ぐいっと片方の眉を吊り上げた。

「あれ、乗ったことないから」

「リフトに?一度もないの?キミもかい?」

 あたしは黙ってうなずいた。YKセンセイが初めてあたしの目をじっと見つめ、問いかけた。

「板の履き方は、わかる?」

「たぶん。車庫の中で練習したので」

「車庫の中で。何回くらい?」

「二回か、三回くらいです」


 YKセンセイは呆れたように、あたしたちの長すぎて分厚くて重たい、旧式のスキー板を見下ろした。ややあって、自分の履いているニューモデルのカービングスキーから、雪を払い落とした。ストックの先でビンディングのかかと側を押し、解除した。足を上げてブーツを一旦ビンディングから外し、また乗せてつま先を金具にしっかり噛ませ、ぐいと踏み込んだ。スキーブーツはスキー板に固定され、一体化された。


「やってごらん」

 あたしたちの旧式なスキー板は、ビンディングを解除の状態にするところからして、難儀だった。冷えたせいかサビついているせいか、或いは両方のせいなのか、固くてビクともしないのだ。YKセンセイの手を、借りなくてはならなかった。ブーツの留め具を丁度いい締め具合にキメて、その足をビンディングに乗せ、えいっと踏み込むところまで。


 キーラの右足から始めて合計四回、YKセンセイは屈み込んだ姿勢で同じ作業を繰り返し、あたしたちにスキー板を履かせてくれた。あたしの左足に取りかかっていた四回目には、YKセンセイの額にうっすらと、汗の粒々が浮かんで見えた。


「さてと」

 それがYKセンセイの口癖らしいとわかって、あたしはうれしくなった。さてと。YKセンセイは腰を伸ばして一息ついてから、語り始めた。

「きょう、スキーをやろうと提案したのはボクだった。しかしどうやらキミたちは、正真正銘の初心者であるらしい。そうだね?そのことがわかった今、ここで提案を変更したい。


 ボクはキミたちに、スキーを無理強いするつもりはない。イヤならやめよう。せっかく準備して板を履いたばかりだが、このやり方を知っておいて、決して損はないはずだ。いつかは、役に立つことがあると思う。


 どうだろう?イエスかノーか、率直に言ってくれないか。なぜなら、スキーは楽しいスポーツだが、危険も伴う。いい加減な気持ちでやると、大けがをするかもしれない。そんな事態は避けたい。キミたちがポジティブな姿勢で、真剣に取り組んでくれるなら、ボクもポジティブな姿勢で、真剣に知っていることを伝授しよう。どうだい?」


「教えてください」

 間髪入れずに、キーラが言った。

「アタシはスキーを習いたい。ユリアも、そうでしょ?」

 あたしも同じ気持ちで、頷いた。YKセンセイの片方の眉が、吊り上がった。さてと。キーラより年長に見えるあたしは、説明を求められていると感じた。

「あたしたち、学校へ行ったことがなくて。ずっと、リモート授業だったから。体育とか、先生から直に教えてもらうとか、全然したことなかったので」


 あたしたちを交互に見つめたYKセンセイの眉が、今度は左右交互に吊り上がった。何やらひどく、衝撃を受けた様子だ。

「全然とは?文字通りの全然か?多少は盛っていないか?」

「ホントに、全然」

「なるほど。それは聞き捨てならないハナシだが、いまここでの本題はスキーだ。キミたちの生育環境に関する諸問題は、ひとまず置いておこう。なにはともあれ、まずスキーをしよう」


 これって、スキーをしていることになるのかしら。

 あたしは思ったし、キーラだってきっと思ってる。口にはしなくても、その仏頂面を見ればわかる。


 あたしたちは、斜面に対して横向きの態勢で片足を持ち上げ、一歩だけ山側へ踏み出した。ほんの三十センチほど。窮屈なスキーブーツの中で攣りそうな自分の足首に、おまじないをかけながら。大丈夫、あたしたち、きっと登って行けるよ。


 なにしろスキー板は、長すぎて分厚くて重たいのだ。その板のエッジを、持ち上げた弾みの勢いで、ガッと斜面に食い込ませる。それから谷側のもう一方の足を、えいっとばかりに引き上げる。二枚そろえた板で斜面の雪を踏みつけ、平らにして一段をつくる。


「さてと。この登り方には名前があって、階段登行というんだ」

 YKセンセイは宣った。

「ごくごく初歩的な基本のキだから、ちゃんと覚えよう。一番肝心なのは、体の重心を必ず山側に置くこと。つまり、コケそうになったら、絶対に山側へ倒れるんだ。忘れるなよ。間違っても、谷側に落ちたりしないでくれ、頼むから」


 ジョークめかして言ったYKセンセイは、谷側のスキー板を垂直に立てた。

カービングスキーの丸みを帯びたフォルムが宙を舞い、裏面の幾何学模様をチラ見せた。カービングスキーはひらりとキックターンをして、YKセンセイの体の向きを逆方向に変えた。

 同じことがあたしにもできるとは、とても思えなかった。


「谷側にコケたら、どうなるの?」

 キーラが尋ねた。なんとなく見当はつくけど、あたしも知っておきたかった。

「たぶん、ズルズルと滑りまくって、ロッジまでノンストップで落ちる。緩斜面でもけっこう加速するから、コブやら自分と他人のスキーやらに激突して、骨折するかも知れない。手足ぐらいで済めばラッキーだが、下手すりゃ首が折れるだろう」


 YKセンセイはさらりと言ってのけ、あたしたちはゾッとして首を竦めた。まだ、たったの数メートルぽっちだけど、階段状にギザギザの横線を刻んできた斜面を、改めて見下ろした。すると不思議なことに、達成感みたいなものが、込み上げてきた。


 そこは広いファミリーコースの外れ、麓から見上げたときはゆるやかに思えた斜面の、さらに隅っこ辺りだ。あたしとキーラはYKセンセイの指導の下、スキーレッスンに取り組んでいた。


 段田南海市長の両親の家の物置にあった、前世紀的お古のウェアを着て、やっぱり前世紀的お古のブーツと板を履いた、あたしとキーラは、最新ファッションでキメたスキーヤーたちの列に並ぶと、ワル目立ちして浮きまくった。


 露骨に目を丸くしてジロジロ見たり、指さしてクスクス笑ったりする者がいた。でもキーラは凛としてめげず、あからさまな好奇のまなざしを、アイスブルーの目で睨み返し、追い払った。


 YKセンセイも、他人の目は平気みたいだった。お古づくしの恰好でスキーの腕前はまるでダメ、超ポンコツのあたしたちを引き連れ、少しも恥ずかしそうではないのだ。

 なんてステキ、こんな人、そうそういるもんじゃない。あたしはアタマの中で一挙に百点、YKセンセイのステキポイントを加算した。


 そのとき、なんとなくわかった気がした。あたしがテレビ画面で見ただけのYKセンセイを、こんなに好きになったわけが。それは、キーラと似通ったところが感じられるから、だからなのだ。


 とりわけ、他人から無視されようと、ガン見されようと、まるでどこ吹く風、毅然としていられるところが、カッコよかった。流されないキーラ、踏みとどまるYKセンセイ。たしかに二人は、共通する遺伝子を持っている。


 階段登行を始める前のことだった。あたしはスキーグローブをはめた手を、YKセンセイのやり方を真似て、ストックの輪に下から通そうとした。けれど、なかなかうまくいかずもたついた。どう見てもストックの輪より、グローブの手のほうが大きい気がするのだ。


 横を見ると、キーラも手こずっていた。キーラのグローブは、黒地に鮮やかなマリンブルーがアクセントだ。あたしのは、同じデザインでやわらかなピンク。リツコさんが、急遽ネットショップで買ってくれたグローブだった。


 段田南海市長の古着コレクションの中には、よれよれのグローブがいくつかあった。けれども、相当に使い古された上、かなりの年月しまい込んであったせいで、いかにもみすぼらしい代物だった。


(スキーグローブって二年くらい使ったら、もう全然温かくないのよね)

リツコさんは遠い記憶をまさぐり、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

(お古じゃダメだわ、手袋だけは新品でなくちゃ。せめて、手袋くらいは)

そう言って、新しいグローブを買ってくれたのだ。


 たしかにあたしたちも、経年劣化したレザーの感触がベトつくようなグローブの中へ、手を入れるなんて論外だったから、リツコさんの気遣いはとてもうれしかった。

「ふたりとも、可愛いグローブだな。しかも、新品じゃないか?」


 YKセンセイが目敏く気づき、そう言ってくれたので、あたしは益々うれしくなった。そして問われもしないのに、リツコさんがグローブを買ってくれた経緯を話すと、YKセンセイは全面的に同意してくれた。


「まったくもって、その通りだよ。古いグローブの中は湿っているから、雑菌がウヨウヨしている。その上レザーが擦り減ってしまって、衝撃から手を守るという役割は、ほぼ期待できない。そこに気づいてくれるリツコさんというのは、キミたちにとって、まるでお母さんみたいな人だね?」


 言ってしまってからYKセンセイは、地雷を踏んでしまったかと気づいたようにハッとして、キーラを見遣った。しかしキーラは、マリンブルーのスキーグローブを外した左手を、ストックの輪の中に通そうと余念がない。

 LibertyBellのウェアの袖にストックの輪をたくし上げ、左手にグローブを嵌め直し、手首のベルトをキュッと締めた。すると、リツコさんが買ってくれた新品のスキーグローブは、キーラの手にきちんと嵌まり、手首にはストックの輪をかけていた。


「やったね。それでいいんだ」

 YKセンセイはにっこりした。ドヤ顔と、いうよりほかない笑顔だった。しかしながら次に、グローブの嵌まった左手で、右手の袖にストックの輪をたくし上げようとするキーラは、苛立ち始めている。さっきほど、思うように出来ないからだ。


 YKセンセイは、素早く自分のグローブを外した。素手でキーラのLibertyBellのウェアの袖をつかみ、ストックの輪をたくし上げた。次いでキーラの右手をつかむと、マリンブルーのアクセントが目立つ新品のスキーグローブを、嵌めてやった。


 そうして自分のグローブを嵌め直し、両手の指をしっかりと組んで見せた。拳をつくったり開いたり、ボクサーのストレッチのような動きを促した。新品でやや大きめのスキーグローブが、キーラの手に早く馴染むように。


「リツコさんのほうがよっぽどマシ。〈お母さん〉なんてものより、ずっと」

 グローブの拳を打ち合わせながら、キーラは唐突に言った。〈お母さん〉なんてもの?YKセンセイは小声で復唱してから、訊いた。


「その言い方だと、キミは自分の〈お母さん〉がどんな人なのか、知ってるみたいに聞こえるんだが」

「だいたい覚えてる。ていうか、いま思い出したの、ちょっとだけど」

 その言葉にあたしも心底驚いて、のけぞった。キーラが自分のランコさんのことを覚えてるって、なにそれ?そんなハナシ、あたしは初耳だった。


 キーラは、動揺するあたしを見つめて、言った。

「アタシって五歳くらいのとき、リツコさんの家に来たでしょ。それより前は、その人の家にいたの。ハンナさんていう人だった。ヤシマくんていう男の人がいつもアタシと一緒にいて、ゴハンをつくってくれたりしたこと、いま思い出した。ほんとだよ。なんでいまなのか、わかんないけど」


 YKセンセイは黙ったまま、再び自分のグローブを外し、あたしの右手にストックの輪とグローブを装着してくれた。そして、おもむろに口を開いた。


「キミが忘れていた五歳以前の記憶を、いま思い出したという現象は、説明がつくと思う。重いスキーを抱えて、駐車場からここまで上って来たんだよな?それは単なる運動じゃなく、もはや重労働に近いレベルの身体的負荷だ。大量の血液を循環させる。ゆえに、脳を通過する血流も、走り出した。


 加えてこの山の空気だ。清涼な酸素をたっぷり含んでいて、血流をさらに加速させる。ひょっとすると、こんな風景に既知感があって、刺激になったのかも知れない。この点は、違うかも知れないし、違わないかも知れない。どうだい?」

キーラのアイスブルーの目が遠くを見つめ、空の色に染まって青さを増した。


「そういえば。道の駅から山の方に向かって行くあいだ、ずっとこんな景色を見ていた気がする」

「ほう。その道の駅とはどの辺にあったか、わかるかい?」

「空港の近く、かな。そんなに遠くなかった感じだけど、はっきりしない」

「ふむ。空港の近くか」


 そうつぶやいたYKセンセイは、バンバンと音高くスキー板を雪面に打ちつけ、足踏みをした。そして、あたしたちに宣言したのだった。

「さてと。せっかく履いたスキーで運動をしよう。あの緩斜面を上るんだ、リフトじゃなく、足を使って上る。どれだけ上れるか、試してみよう」


 そして、あたしたちの階段登行が始まったのだった。

 

 

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