第10話 ユリアはここから


 段田南海(だんだなうみ)市長って、思ったほどのオバアチャンじゃなかった。ほんと、キレイと言ってあげてもいいくらい。それぞれの、きれい。段田南海市長の、きれい。なんて言うか、隙がないって感じ、アタシたち、アタシとユリアとリツコさんが来るのを、待ち構えていたみたい。ちっとも驚いた様子は見せずに、落ち着き払っているようだった。


 もしかするとあれは、咄嗟の演技だったかも知れない。本当は不意打ちを食らって、心底、驚き慌てていたのかも。あり得るけど、だとすれば、大したものだ。感嘆する。けどね、なんたって市長だし、それも四期目なのだから、それくらいのスキルは身についていて当然、だったりするかもね。


 落ち着き払って余裕たっぷりの段田南海市長は、晴れやかな笑顔でリツコさんに「リッチー」と呼びかけた。リツコさんも微笑んで、「ナウミー」と返した。ふたりはそれぞれ、ちょうど六歩ずつ歩み寄り、軽くハグを交わした。


 それから段田南海市長は、アタシたちに目を向けた。どっちがユリア?と問いかけるように。でも、そんなのポーズだと、アタシにはすぐわかった。ほんとはこの人、ちゃんと知っている。ユリアの顔(特にこのビターチョコの色をした瞳)、ユリアの平凡な健診データ、ユリアの好きなものや苦手なこと。あれやこれや、だいたい全部。きっとそうだ。


 それにしても。

 目の前で向かい合う、リツコさんと段田南海市長から醸し出される親密さ。これって、いったいなんだろう。アタシたちは大いに面食らった。アタシとユリア、とりわけガチの当事者であるユリアは、可哀想に、口もきけないくらい当惑していた。


 それはまるで、誰もが一度くらい、いつかどこかで聞いたことがあるような、いわば鉄板のストーリーだ。生みの母と、育ての母の間で、板挟みになって引き裂かれ、悩み苦しむ少女。それが、いまのユリアの立ち位置だった。アタシにとっても他人事じゃないけど、とりあえず、いまこの場ではユリアがヒロインだったから。


 それなのに、リツコさんと段田南海市長が、互いにポンポンと飛ばし合うトークといったら、アタシたちの知らない時代、知らない場所での出来事ばかり。引き出し合い、呼び寄せ合って、好き勝手に盛り上がっている。

 聴いているうち、アタシは気づいた。いつの時代、どんな場面でも、煌めくスター性をもってヒロインであり続けたのは〈ナウミー〉、いま現在ここにいる、この段田南海市長なのだと。


〈スターとは、何者か〉。

 家庭でも学校でも職場でも、或いは単なる趣味のグループであっても。この社会のあらゆる場面において、物事がスムーズに運んでいる集団には、共通して備わっている存在のこと。カリスマともいう。強烈な魅力を放つひとりのスターと、そのスターが大好きな者たち(つまりファン)によって構成された、幸福な集団。そこに不平不満を漏らす者はいない。


 したがって揉め事は起こらず、分裂だの解散だのといったネガティブな現象も発生しない。集団の活動は、その目的がなんであれ、末永く和やかに続く。とりわけ、芸能の世界では、そうした傾向が顕著に表れる。


 少し前に読んだ、YKセンセイのコラムの内容を思い出して噛みしめ、アタシは大いに納得していた。アレってきっと、こういう場面に当てはまる話だったんじゃない?もともと、あのコラムを熱心に読んでいたのはユリアだけど、見せてもらったアタシもすっかり共感した。そのときに初めて、YKセンセイの名を知ったのだ。


 ユリアの大好きな、YKセンセイ。目に浮かぶのは、たった一枚きりの写真だ。生真面目にカメラを見つめるその表情は、たしかに誠実な感じがしないでもない。でもやっぱり、いわゆるただのオジサンなのだ、アタシの目には、どう見たって。


 コラムに添えられた写真のYKセンセイは、真正面を向いてやや伏し目がち、全体にボヤけた印象だった。たぶんリモートでインタビューに答えている顔、手もとのPC画面に向き合っている顔だ。情報番組でコメントしている顔も見たことはあるけど、どうしてだか、この写真の顔が、アタシの目には焼きついてしまっている。


 どうしてかって言うなら、そのとき、ユリアはこの人が大好きなんだと知ったせいだ。なんて衝撃。この顔の、このオジサンが好きだなんて。いったいぜんたい、なんなの?それって。


 なんなの?それって。

 ユリアだってきっと、そう言いたくなってるに違いない。そんな場面が、アタシたちの目前に展開していた。段田南海市長は愛嬌たっぷりの笑顔で、子猫でも呼び寄せるようにひらひらと手招きして、ユリアを自分の横に座らせた。


 もちろんアタシは素早く後に続き、ユリアにくっついて座った。リツコさんは向かい側だ。このようにして、市長室に置かれたU字型の豪奢な応接ソファセットの一端に、アタシたちは寄り集まって落ち着いた。


 「あれは取引なんて言うほどのものじゃなかったの。敢えて言うなら、ちょっとした内輪の約束ごとのようなものだったわ、初めはね」。

 段田南海市長は語り始めた。


 あのとき念頭にあったのは、政治的にわが国の行く末を憂える共通認識だった。もはや手遅れかも知れないが。しかし、やってみる価値はあると思う。熱く静かに語る国政の長老である重鎮ATの言葉に傾倒し、次第に敬意さえも覚えたからだった。

 段田南海市長は振り返った。


 十数年前のこと、市長選に立候補しようと決意し、そのための布石に奔走していた若き〈ナウミー〉に、かの重鎮ATから声がかかったのだ。まったくもって、意外なことだった。


 訝りながらも、呼び出しに応じて赴く〈ナウミー〉の念頭にあったのはカネ、それよりほかに何もなかった。選挙資金として、必要なカネを用立ててもらえるか否か。全額か半額程度か、それよりもっと少ないのか。捕らぬ狸の皮算用でアタマがいっぱいの〈ナウミー〉には、重鎮ATの背後に後光のごときカネの輝きが見えた。しわがれたその声さえも、札束の軋み音を含んでいるように聞こえた。


 それだけに、重鎮ATのその口から、国の未来を憂える政治家として、至極もっともな正論を聞かされたとき、〈ナウミー〉は狼狽えた。恥じ入りもした。あまりに思いがけなくて、つい感動してしまった。


 なにより揺さぶられたのは、重鎮ATが悔いていたことだった。自身が現役であった時代、相応の発言力と影響力を持っていたその時、すでに懸案事項であった少子化を食い止めるという大仕事を、成し遂げずにやり残してしまったことを。為さねばならぬと、充分承知していたにも関わらず。


 そいつを片づけたいのだ。重鎮ATは夢見るようなまなざしで、呻いた。もちろん全部はムリだとしても、ほんの一部に過ぎなかったとしても。途方もないトンデモ奇策だと、鼻で笑うやつらには笑わせておこう。いや、そもそも知らせずにおけばいい。やり残しを片づけたいのはこの私であって、やつらではないのだから。


 有り体に言ってしまえば、〈ナウミー〉は見事に口説かれたのだった。重鎮ATが惜しみなく囁きかけた賛辞の羅列、それらのなんと甘美だったことか。あなたのような才色兼備の女性はまさしく国の宝だ。そのあなたが政治の世界に身を投じる決意を固めてくれたとは、実にめでたく喜ばしい。衷心より応援したい。


 しかしながら。重鎮ATは些か無念の面持ちで宣った。あなたのように優秀で有能な女性こそが、だれより率先して子孫を残してくれるべきなのだ。わが国のよりよき未来のために、女性としても母としても、この上なく素晴らしい模範となってくれることだろう、あなたに子どもがあったなら。


 重鎮ATの口から無尽蔵に繰り出される褒め言葉の数々に、〈ナウミー〉の自我は大いにくすぐられ、肥大化した。たしかに、その通りだと思った。自らの人生設計を顧みると、結婚と出産の項目だけが、いまだに空欄のままなのだった。


 ロマンスがらみのエピソードが、皆無だったわけではない。相当以前になるが、その欄に書き込みが為されかけたことも、あるにはあったのだ。しかし結果的には今も、こうして空欄となっている。タイムリミットは、すぐそこまで迫りつつあった。そのことは、たしかに心残りでならなかった。

 

 子どもを持ちたい気持ちは大いにあったが、育児に振り向ける時間とエネルギーはどこにもなかった。頼りにできる親族もなければ、専門家を雇い入れる余裕もない。『無事に生まれさえすれば、なんとかなるものだよ』。先の大戦後の時代を生き抜いてきた、祖母世代の女性たちがそう口にするのを、たびたび聞いた覚えがあった。彼女らのたくましさを好ましく思いはしたが、自分には到底ムリと感じた。うっかり生んでしまったら万事休す、どうにもならなくなることは、目に見えていた。重鎮ATから、この申し出を受ける以前には。


〈ナウミー〉は素早く決断した。思いのほか、悩みも迷いもしなかった。むしろ、嬉々としてこのチャンスに飛びついた。自分の卵子を採取して、凍結保存してもらえるなんて。しかも精子の提供者は、リストアップされた三タイプの中から選べるというのだ。

 アスリート系かインテリ系か、はたまたアーティスト系か。父親候補の名前は明かせないが、今現在すでに、それぞれの分野で才能を発揮している人物であることは、この自分が政治家としての名誉にかけて保証する。重鎮ATは、きっぱりと言い切った。


〈ナウミー〉は、アーティスト系を選んだ。なにしろ若かったからと、言うほかはない選択だった。少女時代、アートに強く惹かれた時期があったのだが、才能の不足を痛感して、断念した。自分の中の不足を補いたい、と欲する気持ちがあった。


 子どもに引き継がれた、両親それぞれの遺伝子が、必ずしも最良のパフォーマンスを発揮するとは限らない。そのことはもちろん、承知していた。けれども、〈ナウミー〉は楽観していた。たとえば最悪のケースとして、双方のクズ遺伝子同士が結合してしまったとしても。子どもが正真正銘のクズになってしまうリスクは、限りなく小さいと思われた。なぜなら。だって。この私の、子どもなのだから。


 父親候補の承諾を取り付け、様々な法的手続きをクリアした上で、受精卵はこの日本国内で、心身ともに健康な女性に受胎してもらう手筈が整っている。それは決して、自分の子どもたちを養うために他人の子どもを生む、といった事情を抱えた女性たちではない。彼女たちは痛切に、母親になることを望んでいた。完全無欠なファミリーの一員として、迎え入れるために。


 したがって、〈ナウミー〉と〈若きアーティスト某〉が、出会いやロマンスのプロセスをすべてすっ飛ばし、この世に生をもたらした受精卵の行く末は、申し分なく前途洋々なのだった。


 それは実に理想的なシステムだった。あまりに理想的すぎたので、果たして実際に構想通りの運営が為されてゆくだろうかと、〈ナウミー〉の脳裏を不安がチラリとかすめた。身も蓋もなく言ってしまえば、重鎮ATの〈やり残した仕事をこの際すっきり片づけたい〉衝動から、端を発したものなのだ。


 プロジェクトが大掛かりになってゆくほど、創設者の意図と現場担当者の理解の間には、行き違いや歪みが生じてくる。ましてやこれは、数年どころか数十年のスパンで考えるべき性質の事柄だった。


 数十年後か。

〈ナウミー〉は、相当に疲れた様子で瞼も重く下がり気味な重鎮ATを、チラ見しつつ大それた夢想を弄んだ。この人は、とっくにいなくなっているだろうな。でも、きっと大丈夫。そのときにはわたしが、この突飛だけどなかなかイケてるシステムを、引き継いでいるかも知れないじゃないの。


 一地方自治体に過ぎない市長選挙に、まだ出馬してもいない〈ナウミー〉だった。それでも、国政の長老である重鎮ATの覚えめでたく、陰に日向になんらかの功績を示してゆけたら。その暁には、一市長から国会議員への華麗なる転身だって、決して夢ではないのだ。


 そもそも、夢見がちな性質の勝るところが〈ナウミー〉の持ち味だった。だからこそ、市職員の身分からいきなり市長選挙に挑戦しようなどと、トンデモな思いつきを実行できたわけだ。ともあれ、ひとかたならぬ努力と、突飛な決断の成果として、段田南海市長は実現したのだった。


 その突飛な決断の、結果としての受精卵の行く末はどうなったのだろう。知りたい思いがチラリと脳裏をかすめたことは、たびたびあった。ほんの一時だが、あれやこれやと想像を巡らせ、心浮き立つ思いを楽しんだりもした。


 人並みに気がかりだった〈ナウミー〉だが、その後は猛烈に忙しくなった。いまや、念願の段田南海市長なのだ。市政の意思決定機関の頂点に立ったわけだが、いざその位置から周囲360度を俯瞰してみると、要望や請求や嘆願の嵐が引きも切らず押し寄せてきた。目に映るものや耳に届くもの、すべてがそればかりで、対応に忙殺された。新米市長の意思で決定できることなど、何ひとつありはしないのだと、思い知った。


 私って、なんて無力で可哀想だったのかしら、とでも言うように、ひょいと肩をすくめた段田南海市長に、アタシは訊きたかったことを訊いた。

「前から知り合いだったの?ユリアのセイシさんと」

「あらま。あなたはキーラちゃんね。一体全体、だれのこと言ってるの?」

「蛍光グリーンのウィンドブレーカーを、着てた人のこと。選挙の時に」


 段田南海市長はリツコさんに、素早く鋭い一瞥をくれた。リツコさんは、お手上げだと降参する人のように、両手を挙げるポーズをとった。

「キーラはビデオを見ただけ。だれも、なんにも言ってないわ。もちろん、わたしだって。そもそも、本当のところの事情は、ろくすっぽ知らされてなかったでしょ。わたしは友人である前に、あなたの部下でもあったのだから」


 段田南海市長は、ほんの一分間だけ熟考した後、決断した。まったくもって、決断の早い人だ。でも、これって、悪くないことだよね。アタシは感心した。


「出来れば言わずにすませたかったけどね。そうはいかないんだって、わかってはいるのよ。ユリアはもう、赤ちゃんじゃないんだし。あちら側の誰かがコンタクトしてくる前に、わたしからきちんと話しておかなくちゃね」

 そう前置きしてから段田南海市長は、時を十数年前に巻き戻し、事がここに至った経緯を赤裸々に語り始めた。


 段田南海市長が初めての選挙に挑戦する時、必要な資金を融通してくれたのは、国政の重鎮ATではなかった。重鎮ATは単に、出資者を募ったり割り振ったりするだけの立場にあった。段田南海市長は当選して初めて、その事実と出資者の名前を知らされた。


〈桃源教会〉。いつの間にか、とんでもなく大きく膨らんでしまった借入金を、返さなければならない相手としては、実に厄介な名前だった。

 もっと早く知りたかったわ。段田南海市長は不満のあまり、密かに毒づいた。

(知っていたらこんなにたくさん借り入れたりしなかったしあのくそったれのタヌキジジイに丸ごと全部まかせたりなんかしなかったのに)。


 しなかったのに?

ふと冷静さを取り戻し、段田南海市長は自問してみた。どのみちカネも人員も足りなかったね?イエス。足りないカネと人員を自力で調達するのはムリだったね?イエス。〈桃源教会〉のカネと人員ナシで、こうして当選するなんてことは、100%あり得なかったよね?イエス、イエス。


 そんな自問を反芻する段田南海市長の態度から、立ちのぼるかすかな造反の匂いを嗅ぎ取った重鎮ATは、すかさず政界のブローカーとしての本領を発揮、さらなる追い討ちと自己保身の仕掛けを明らかにした。


 運動員の中にいた学生ボランティアのひとりに、鮮やか過ぎてイヤと言うほど目立った蛍光グリーンのウィンドブレーカーを、恥ずかしげもなく着込んだ青年がいたのを、覚えてるだろ?


 そこで重鎮ATは、思わせぶりな間を置いた。〈ナウミー〉であった時代なら、そんな駆け引きにはビクともしなかったのに。段田南海市長となったいまは、腹の底からビクついた。けれども、精いっぱい素知らぬ顔をして、タヌキジジイが吐き出す次の言葉を待った。


 あれは三代目なのさ。そう言われても、すぐには何のことかピンと来なかった。よりによって、くだんの〈桃源教会〉だったとは。その創始者の孫のひとりであり、現在の教祖の末子ではあるが、生まれつき身に備わった神々しさが三代目に相応しいと、一部信者の間で熱烈な支持を集めているという。


 いずれ遠からず、あれが三代目教祖になるだろう、多少はモメるかも知らんが。そのとき重鎮ATが予言した通りに、十数年後のいま、あの青年は〈桃源教会〉教祖であり、〈神の道への指導者〉でもある、導師GXと自称していた。


 話の成り行きにイヤな予感を覚えた段田南海市長は、凍結保存した自分の卵子をいますぐ取り戻したいと申し出た。が、すでに手遅れだと、重鎮ATは涼しい顔で告げた。心配するには及ばない、あなたの卵子はVIP待遇をうけている。あらゆる健康チェックをクリアした、完全に正常な受精卵として、相応しい既婚女性の胎内に着床し、すくすく育っているのだ。いまさら取り戻したいと言われても、そりゃムリってもんだ。


 懸念した通りだった。イヤな予感は大当たり、精子の提供者はあの蛍光グリーンの三代目であると判明した。ルール違反じゃないのかと、段田南海市長は重鎮ATに詰め寄った。私はアーティストを希望したし、所定の書類にもその旨を明記したはずだった。


 あれはアーティストでもあるのさ。重鎮ATはいささかも怯まず言ってのけた。合唱コンクールの全国大会で二番になったことがあるんだ、中学の時に。二番でも全国大会だからな、立派なアーティストだろ、ウソじゃないさ。


 予想は出来たが、一応確認しておくつもりで、訊いてみた。もしもインテリジェンスを選んでいたら?あれの論文が教会の機関誌に載ったんだよ、〈今世紀に神の足跡を辿ろうとする試みはいかに困難か〉とかなんとか、そんなようなタイトルでな、インテリジェンスだろ?じゃあアスリート系なら?テニスをやってたんだと、国体の予選だったかな、惜しいところまでいったらしいから、まあまあのアスリートには違いないのさ。


 要するに。

 段田南海市長は奥歯を噛みしめ、唸った。どれを選んでも結局私の凍結卵子は、あの蛍光グリーンの〈桃源教会〉三代目の精子に行き当たり、受精される仕掛けになっていたのだ。なんて迂闊だったのだろう。そんな安直な仕掛けに、まんまと引っかかるとは。この私が。こんな、くたばり損ないのタヌキジジイが仕掛けた罠に。


 やがて三代目教祖となって導師GXと自称する、蛍光グリーンの青年の印象は薄かった。振り返ってみれば選挙運動中、人前に立っているとき、左側後方に近すぎる人の気配を、たびたび感じたことを思い出した。四六時中まわりに人がいて、絶え間なく視線と気配に曝された日々ではあった。


 それにしても、あの視線と気配の粘っこさは疎ましく、受け入れにくいものだった。段田南海市長は、激しく嫌悪した。あれが私の子どもの父親だなんて。嫌だわ、まったく、虫唾が走る。


 初当選から今日までの十数年間は、その嫌悪感を面に表すまいと自制する日々だった。導師GXはなにかにつけて、市政の会合やイベントに姿を現した。段田南海市長は市長らしく慇懃に、それでいて付け入る隙を与えず、決して無礼と謗られないように愛想よく振舞った。骨の折れる日々だったが、その甲斐あってどうにか、〈桃源教会〉の逆鱗に触れるような失態はやらかさずにすんだ。


 段田南海市長が四度目の選挙で当選を勝ち取った頃には、〈桃源教会〉からの借入金はきれいさっぱりチャラとなっていた。導師GXその人の関心も、薄れたように思われた。探ってみると、導師GXには本宅を含めてそこかしこに、十人超の子どもがいるとわかった。なるほど。その昔、精子を提供しただけの子どもの存在など、もはや問題外だったのだ。


 タヌキジジイこと重鎮ATは、とうに亡き人だった。十年ほど前にその訃報を聞いたとき、段田南海市長は事態を確かめようと行動を起こした。似非アーティストの精子をあてがっておきながら、のうのうと、取ってつけたようなデタラメ三昧を言ってのけたタヌキジジイだ。信用できる余地は、一ミリもなかった。


 その時点で、段田南海市長が信用できた人物は、〈リッチー〉ただ一人だった。その後もこの事実は不変であり続け、今日に至っている。当時の〈リッチー〉が、総務課第三係長の職にあったことは、なにかと好都合だった。


 タヌキジジイこと国政の重鎮ATが、やり残しをやっつけようと拙速に走り、〈ナウミー〉の突飛な決断を巻き込んで加速した、独自の少子化対策プロジェクトはすでに減速し、停滞していた。見る影もなく、ろくな予算もつかない、厄介なお荷物として。


 けれども、その渦中には生身の子どもたちが、確かに存在するのだった。重鎮ATの意を汲み、代理母を斡旋し、保育所を提供したのは、過疎の町村をいくつも跨いで檀家を有していた、あの往生寺の住職だった。その実態を確かめるために、〈ナウミー〉こと段田南海市長は、〈リッチー〉こと総務課第三係長タニナカリツコを伴い、山間にある往生寺の保育所を、密かに訪れた。


 そこで目の当たりにしたのは、引き取り手の決まらない数人の子どもたちと、山積する無数の問題点だった。竦み上がってしまった段田南海市長を尻目に、タニナカリツコは一直線に、ひとりの女の子の前に進み出た。しゃがみ込んで女の子の前髪をそっとかき上げ、ビターチョコ色の瞳を露わにしてささやいた。ほら、この子の目、〈ナウミー〉とそっくり同じだわ。それが、ユリアだった。


 盟友でもある段田南海市長からの、密かな特命がなかったとしても、総務課第三係長タニナカリツコは、その現状を看過できなかったに違いない。彼女は、いわゆる良心の人だった。自ら進み出て、この拙速プロジェクトの後始末に取りかかった。たとえ、貧乏くじを引き当てたと、後ろ指を指されようとも怯まぬ覚悟が出来ていた。


 往生寺の住職は、市関係者と名乗った二人の女性からの閉所の申し出に、多少の勿体をつけながらも、むしろ嬉々として応じた。子どもの誕生と生育に関わる事業はビジネスとして成立が難しいことを、痛感していたところだった。やはり自分は、ヒトの死と弔いを扱う方が向いていると、つくづく思い知った。


 タニナカリツコと段田南海市長は、ユリアとともに保護者不明の幼児二人も連れ帰った。こうして、重鎮ATの拙速プロジェクトは、〈家〉に場所を移して引き継がれた。予算と市長の任期が続く限り。その選択に、悔いはなかった。いまも昔も変わりなく、段田南海市長はタニナカリツコにとって、やっぱり最上級の推しだったのだ。


 段田南海市長は、前振りもなく突然ユリアに問いかけた。

「なにか覚えている?リツコさんが迎えに来たときのこと。あなたが生まれたお寺の家にいた人たちのことを、ほんの少しでも」

「さあ。なんにも、覚えてないです。家って言ったら、リツコさんの〈家〉しか、あたしは知らないから」


 ユリアは左側に小首を傾げて神妙に、お行儀よく答えた。でも、アタシにはわかる。ユリアの、その首の傾げ方、角度、タイミングは、本当のことを言っていないときに出る癖だ。


 だってユリアはちゃんと覚えている。リツコさんと段田南海市長が、お寺の家に入って来たとき、そこにいた数人の子どもたちを初めて見たときのことを。この人の目は泳いでいた、どの子があたしなのかわからなくて、全然見当もつかなくて、そのことに心底戸惑っているのが伝わってきたと、アタシに話してくれたのだ。


 この人は、わからなかったことを隠した。だからあたしも、覚えていることを隠した。ユリアのビターチョコの目が、瞬きでアタシに告げている。


 面会時間は終わりに近づいていた。段田南海市長の好奇心だか関心だか、ユリアに向ける〈何かしらの感情〉も、尽きかけているとアタシは感じた。なぜって、この上なくチャーミングな笑顔を、惜しみなく振りまき始めたから。


 大人がむやみとニコニコして寄ってきたら、要注意。さっきまでと違う猫撫で声で誘われても、つられちゃいけない。これって、たいていの大人たちが、子どもたちに向かって言ってることだよね。


 段田南海市長は語り始めた。厳かに。ユリアに面と向かって。これが最初で最後と、言い含めるように。

「さて、これまでお話したように、あなたは〈桃源教会〉教祖の導師GXと名乗る人物から、精子の提供を受けて生まれました。DNA等はチェック済みの、間違いない事実です。残念なことですが、導師GXを父親と呼ぶのは、適当ではありません。おそらく先方も、望まないことでしょう。


 万一、導師GXがあなたに近づいてきて、歓迎するような素振りを見せたら、迷わず下心を疑ってください。非常に危険です。あなたを売り飛ばすなり、とことん搾取するなり、平気でやりかねない人物ですから。一見、そんな顔はしていませんけどね。だからこそ、こうして忠告しなくちゃならない。それほど危険な人物なのです」


 段田南海市長は長広舌を区切り、一息入れた。すかさずユリアは手短に、ズバリと核心をついた。

「それじゃ、そちらはどうなんですか?卵子は提供したけど母親じゃない、みたいなことを言うんですか?」


 段田南海市長は、軽く眉をひそめた目配せをリツコさんに送った。けれども、リツコさんは涼しい顔で手をひらひらさせた。〈家〉でよく、アタシたちにやって見せる、go aheadの合図だった。段田南海市長はコホンと咳払いをして、続けた。


「確かに、卵子を提供したのは私でした。チェック済みです。あの当時は、心底から願っていたのです。この世界のどこかで、自分の遺伝子を受け継いだ子どもが生まれて、育っていてくれたら、どんなにステキかしらって。百歩譲っても、結婚したい相手はいなかったし、家庭を持ちたいという希望もなかったけど、子孫を残したい願望だけはあったの、不思議なことにね。


 ひょっとしたら、この願望は全ての人類に備わった生存戦略のひとつじゃないかと、思ったくらいですよ。子どもを持ちたかったから結婚した、ってわりとみんなふつうに言うでしょ。考えてみたら、ヘンじゃない?子どもが先に来るなんて。でも実際には、昔から多くの女性たちがそのために結婚したのよ。生存戦略のプログラムが起動して、子どもを持ちたくなったから。そう思わない?ねえ、リッチー?」


 同意を求められたリツコさんは、待ってましたとばかりに、微笑んだ。

「まあね。子どもを育てたかったけど、妥協の結婚はしたくなかったわたしたちって、おバカだったのか、お利口さんだったのか、わからないわね。正直だったような気はするけど」


「あなたがいてくれて、本当に助かったし、ありがたかったわ。あのとき見つけた子どもたちをみんな、こうして育ててくれて。それなのに、私ったら、プロジェクトの破綻を止められなかった。力不足で申し訳ないわ」


「しょうがないね、頃合いだったのよ。市長は十六年もやったんだし、去年の〈お祭り騒ぎ〉はあんな具合で、財政が赤字だらけになっちゃったし。次は国政に行くしかないよね?それに、わたしだって別の市長のもとでは、あのプロジェクトの続きをやっていけないわ、到底ムリだと思うから、しょうがないのよ」


 〈あのとき見つけた子どもたち〉の中に、アタシはいなかった。まだ、いなかったと、言うべきかもしれない。その後、たぶん同じ夏の間のうちに、閉所になった往生寺の保育所の前で、アタシはエレナちゃんに会った。そのことは、思い出せる。

 でも、その前後にどんなことがあったのか、思い出せなかった。エレナちゃんもリツコさんもユリアも、それは知らない。アタシにそのことを話してくれそうな人は、まだ見つかっていない。


 

 


 

  


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