第9話 ユリアの段田南海市長

 あたしたちはもう、〈あっち〉の山のあのビルへ、行かなくていいのだと、リツコさんは言った。まずは手始めに、うれしいお知らせだった。キーラなんか、やったぁ、と叫んだくらいだ。

 けれど、それだけじゃなかった。たいていの物事には、好ましき表の面と悪しき裏の面があるものだと、YKセンセイもコメントしていた、いつだったかの、ウェブニュースで。もの静かな低音が耳に残る、独特の語り口で。その通りかもしれないと、あたしも思った。だから油断せずに心引き締めて、リツコさんのハナシの続きに耳を傾けた。


 あのビルはもうすでに、〈国際経済総合研究所〉と名乗る団体に、買い取られてしまったのだと、リツコさんは言った。なんてこと。おまけに、なんとも正体不明なネーミングだった。外国の大企業が出資しているというけど、そこがまたさらに怪しい感じだ。もっとも、正体不明というならあのビル自体も、あそこで行われていたことも、怪しさではもとから引けを取らないけど。


 そのことはあたしとキーラも、なんとなく感じていた、ずっと前から。でも、チラッとでもそこにふれると、リツコさんはいつだって言葉を濁した。ただひたすら曖昧に、〈国のどこかの役所〉とか、〈あっち側のえらい人〉とか、言い出してはトボけた。それがいかにも子ども騙し的、下手くそな誤魔化し方だったので、かえってすぐピンときた。だってふだんのリツコさんは、テキパキ動いてキッパリものを言う人だから、その違いは大きかったのだ。


 買い取られたのは、あのビルだけじゃなかった。〈あっち〉と〈こっち〉のふたつの山と、合間の谷も含めて丸ごと全部。故に当然のこと、あたしたちの住むこの〈家〉も、いまでは〈国際経済総合研究所〉のものになった。


〈国際経済総合研究所〉の代理人と名乗った人物は、二週間後の月末までに、あたしたち二人を連れて速やかに立ち退くべしと、リツコさんに通告した。その際、すべての家具と家財の所有権は建物に付随するので、持ち出してはならない、とも言い渡された。

 なんてこと。二発目のパンチだった。あたしもキーラも、一挙にざわめいた。あたしたちのもの、服とか靴はいいの?紙の本とPCとぬいぐるみなんかは、どうなの?大きいものはダメ?ああ無情もMax。まったくもって、青天の霹靂だった。


 あとになって、考えてみれば。

 あたしたちだけじゃなかった。リツコさんだって、大いに打ちのめされたはずだった。けれども、めげずに闘ってくれたのだ。大方はリツコさん自身のために。残りの何パーセントかは、あたしとキーラのために。粘り強く交渉を重ねた結果、立ち退きの条件はいくらかましになった。例えるなら〈ポイ捨て〉から〈そっと廃棄〉に、ゆるんだ程度だったけど。


 リツコさんがパジェロミニを勝ち取ってくれたのは、一番の収穫だった。〈国際経済総合研究所〉の代理人は、山のふもとのバス停からJR駅前行きのバスに乗れるでしょうと、真顔で宣ったらしい。一時間に一本と時刻表には書いてあるけど、実際はいつ来るか見当もつかないJRバスだった。


 ドライバー不足をAI導入で補うはずだったのに、未だに実現されないまま、民間業者に運営を丸投げされた、名ばかりのJRバスなのだ。市の財政がどん底に落っこちた現実から目を背け、JRバスがまともに機能しているはずと、本気で信じているらしい代理人に、リツコさんは辛抱強く現状を訴え、譲歩を引き出したのだった。


 あたしとキーラは、〈あっち〉のビルの自販機前で過ごした、あの長い待ち惚けの時間を思い起こし、それが何ゆえだったかを知って、腑に落ちた。クルマを取られないですんで、ホントによかったと、うなずき合った。


 でも。これからあたしたち、どうしたらいいのかしら。最小限、身のまわりのものだけ持って、パジェロミニに乗って(乗せてもらって?)、どこへ行ったらいいんだろう。気づいたらあたしもキーラも、上下の顎がカクカクと小刻みに震えていて、歯の根が合わずにいるのだった。


 リツコさんが、テーブルの上に指先を滑らせた。あたしが平らげたカレー皿の脇でその指先は止まり、すっと離れた。そこにあったのはメモリーカードだ。リツコさんの手は、キーラのカレー皿の脇でも同じことをした。


 テーブルには、二枚のちっぽけなメモリーカード。あたしとキーラのお皿の脇で、もの言いたげに、佇んでいる。リツコさんが勝ち取った、もうひとつの大きな成果。もしかすると、パジェロミニよりずっと大きくて、意味ある成果の予感。いつの間にかあたしの顎のまわりの震えは収まって、代わりに脳みそがフル回転を始めている。


 思った通りだった。

 この中に全部入っているはずだと、代理人は言ったそうだ。あたしたち、あたしとキーラの、出生の記録。そもそもの初めから。あたしたちが生まれることになった、発端と経緯。精子と卵子の提供者はだれか。受胎して生んでくれた人の名前も。それと、あたしたちと他の子たち、みんなを育てたリツコさんのことも少し。このメモリーカードの中のファイルに、入っている。


 このメモリーカードを手に入れるために、リツコさんはありったけの気力を総動員して、ひとしきり粘り抜いた。すると代理人は、秘密保持だの法令違反だの前例がないだのと、御託を並べてその正体を露わにした。〈国際経済総合研究所〉とは、要するに〈あっち〉側の組織の末端、隠れ蓑にすぎないものとリツコさんは解釈した。


 ならばなおさらのこと、いまここでメモリーカードを取り返さなければ、即刻廃棄されてしまうに違いないと、リツコさんは直感した。そういうシステムになっていることを、よく知っていたからだ。とりわけ、成果が出ないまま打ち切りになったプロジェクトの記録など、発案者にとっては見たくもないはずだから。


 そこで思いがけず、キーラが口をはさんだ。

「打ち切りってなに?終わったってこと?」

「そういうこと」

「どうして、終わったの?」

「予算が出なくなったからよ。〈あっち〉の人たちが、あなたたちの知能指数や身体能力を毎年二回も測ってきたのは、そうするための予算があったからで、なくなれば終わるの」

「アタシたち、終わってないよ」

「もちろん、そうよ」

「アタシたち、これからどうなるの?」


 そのことについて、わたしたちは話し合わなくちゃならないのだと、リツコさんは言った。あたしたち、あたしとキーラとリツコさんの三人で。そのために、まず知らなくてはならないのが、このメモリーカードの中身だった。

 見たくて堪らないくせに、見るのは怖い。すっごく、怖い。怖じ気づいてしまったあたしに比べて、キーラは一見、淡々としていた。


 〈家〉にある一台きりのPCを、あたしとキーラのどっちが先に使うか。じゃんけんで決めようと言ったのに、自分は後でいいとキーラは答えた。メモリーカードの中身は、世間でよくいう個人情報の最たるものだから。リツコさんは言った。あなたたちにとっては、秘密にしておきたい部分がきっとあるでしょうけど。それでもこの際は、わたしたち三人でその中身を共有しなくちゃならない。圧倒的に不利で困難なこの状況を、乗り切っていくために。わたしたちはお互いをよく知り、知恵を出し合い、協力していかなくちゃならないのよ、生き抜くために。


 たぶんキーラは、その言葉の重さに打ちのめされてしまったのだと思う。あたしだって、そうだった。いきなり大きな決断に直面して、自分の子ども時代が終わりつつあることを痛感した。この場から逃げ出したくなった。ずっと待ち望んでいたそのときが、やっと来たというのに。


 キーラはふわりと立ち上がり、テーブルのお皿をシンクに運んで洗い始めた。あたしもそうしたいと思ったのに、先を越されてしまった。キーラは素早く黙々と、一心にお皿洗いに集中して、割り込む隙も与えてくれない。まるで、為さねばならぬ重要課題をこなしている、研究者のように真剣な面持ちだった。


 リツコさんは、リモコンでテレビを点けた。ディーとホーリーのアニメ映画を録画してあったのだ。テレビの画面に、キュートで可憐なアニメキャラのディーとホーリーが映し出された。細やかで叙情的な風景、メリハリの利いた鮮やかな色使いは、ディーの仕事だ。そして、柔らかな言いまわしの洒落た言葉使い、キュッと胸を絞めつけられるようなメロディ、美しい歌声はホーリーのものだった。


 あたしたちよりいくつか年長のディーとホーリーは、数年前までこの〈家〉に住む子どもだった。ふたりとも十代の半ばまでは、天才的なひらめきどころか、特段の取り得もあるまいと、見なされた子どもだった。あたしたち、あたしとキーラと、同じように。


 あたしは覚えている。ディーは毎日コツコツと、ひたむきに絵を描いていた。その頃すでにディーは、かなり大柄な女の子だった。腕も指も、あたしよりずいぶん太かったのが、印象に残っている。

 でも、あたしはディーの太い指先が魔法のように、繊細な風景とキュートな人物を描き出すところを見た。何度も見た。だんだんと見慣れて、それが当たり前のことになった頃、ディーの命運の風向きが変わった。有名な画家であるランコさんに、受け入れられたのだ。


 ディーの描く絵は、アニメーション向きで可愛らしい。この手につかめるし、掌に載せることもできる。けれどもディーのランコさんの絵は、大きなキャンバスに無彩色で描かれた抽象的な油絵だった。ひとくちに絵を描くと言っても、出来上がったものはこんなに違うのかと、あたしはびっくりした。ディーと、ディーのランコさんとの間にありそうな、大きな違いを予感した。


 やがてディーは、ホーリーと再会して一緒にアニメーションをつくり始めた。ホーリーは心やさしくひょうきんで、ピアノに向かえば美しい旋律を奏でる青年だ。リツコさんによると、ホーリーがあたしたちの〈家〉にいたのは、超未熟児で生まれたせいだったらしい。期待ハズレの赤ちゃん。あたしたちとおんなじように。


 でも、その後ディーとホーリーはそれぞれに、本来いるべき場所へ戻された。ハズレっぱなしのあたしたちと違って。いまふたりは助け合ってアニメーションをつくり、一定の評価を得て、自立している。


 机に向かって座っているディーの後ろ姿は、どっしりとして小山のように不動だった。利き手だけをわずかに動かし、絵を描き続ける。あどけないナチュラルメイクだけど、スレンダーボディにタイトなドレスを着こなし、キュート以上にセクシーでもあるアニメキャラの〈ディー〉に、命を吹き込む。


 小柄ですばしっこいホーリーは、ディーに代わって動きまわった。アニメーションの美しさと魅力を、外の世界に発信した。ときにはキャラの〈ホーリー〉になりきり、キメ台詞をささやきかける。ホーリーは、キャラの〈ディー〉とリアルのディーをこよなく愛し、褒めたたえて美しい歌をつくる。


 ディーみたいになれたら。ホーリーのように頼もしい相棒がいたら。〈家〉を離れて外の世界に放り出されても、きっと平気だろう。なんとかやっていける。怖いものなんか、なんにもない。あたしにもホーリーがいれば。


 羨ましかった。胸の奥底から、灼けつくような熱が湧き上がった。だってあたしにはホーリーのような、支え合える存在がいないのだ。あたしよりも壊れやすそうな、おチビのキーラだけ。それと、リツコさん。あたしたちを育ててくれたけど、そのせいですっかり草臥れて、年を取ってしまったように見えるリツコさんだった。


「そろそろ、いいんじゃない?」

 リツコさんに促されて、あたしは我に返る。きれいに片づいたテーブルの上には、PCとメモリーカードだけが残っていた。夢から醒めたように、消え去ったりはしていなかった、目の前の現実。仕方なく受け入れて、PCを起動させた。


 いきなり現れたのは、選挙用のポスター写真だ。ファイルの中身を案内するクレジットや扉は、一切ナシだった。ただ画面いっぱいに、市長選挙立候補者、段田南海(だんだなうみ)。この選挙戦を勝ち抜き、いまも現職市長として四期目を務めている女性の笑顔、そのドアップ写真だ。ニュースでよく見る顔だけど、いまよりだいぶ若々しくて華やいだ感じがする。


 画面は動画に切り替わり、タスキをかけた段田南海候補が歩き始めた。綾織のタイトなスーツ、やや短めのスカートから伸びた脚にローヒール。キビキビと素早い足取りで、段田南海候補は集まった聴衆の中へ入っていく。お辞儀をする。握手をする。語りかける。またお辞儀、次々と握手、のべつ幕なしに微笑みかける。ひたすら繰り返されるその動作は、確信に満ちて少しも迷いがない。気品と美貌と豊かさに裏打ちされた、揺るぎなき自信に溢れている。


 ファイルの中身は、たったそれだけだった。他にデータらしい数字も文言も、公的機関の記録らしい署名や日付さえ、ないのだった。あるのはただ、初めての選挙戦に臨んでいるらしい段田南海市長の、おそらく十数年前と思われる姿が映った短い動画だけだった。


「これなに?なんかの間違いみたいな感じするけど。これがあたしの…?」

「データはなんにもないのね。なるほど。すっかり端折って、省いたわけね」

 リツコさんは呆れたように首を振りながら、なにやら考え込んでいる。そこへキーラが割って入った。

「この人知ってる、市長さんでしょ。この人が、ユリアのランコさんなの?こないだニュースで見たけど、もっとずっとおばあちゃんっぽかったよ、なんだか変な感じ」

 たしなめるかと思ったリツコさんは、クスクス笑い始めた。

「そっか。おばあちゃんっぽいのね?段田南海は。実はあの人とわたし、同期だったのよ、役所に入ったとき。てことは、わたしもおばあちゃんっぽく見えるのね?」


 あたしとキーラは、同時にひっくり返りそうなくらい、驚いた。実際あたしは、現職市長が自分のランコさんだってことより(全然身近な感じしないからね)、リツコさんとその人が古い知り合いだってことのほうに(あたしにとってリツコさんは一番のリアルだから)、よりショックを受けたのだ。なんでかわからないけど、悲しい気持ちになった。


 そんなあたしにお構いなく、リツコさんはファイルについて話し続ける。

「ユリアの健診データはちゃんとあったと思うよ、つい最近まで。たぶん削除したのね、〈中くらいの人〉が。〈上の人〉からの指示があってもなくても、段田南海とユリアを結びつけるような記録はないほうが望ましい、とかなんとか忖度して。いかにも、ありそうだわ。役所的隠蔽体質って、未来永劫不変なのね。

 ほら、ちょっと前のニュースでよく見たでしょ?ぶっとい黒線だらけの読めない文書、カタチだけ公開しましたよって、アレと同じね。記録は消しといて、どっちにでも言い逃れできそうな、当たり障りのない映像だけを残しておいたわけだ、うん、なるほどね」


 自分だけがわかって得心しているようなリツコさんに、キーラが言った。

「ユリアのセイシさんて、この人かな?」

 指さしたのは短い動画の中でもほんの数秒、聴衆に向かって歩く段田南海候補に、寄り添う運動員の青年だった。明るいライムグリーンのウィンドブレーカーを着たその横顔が、段田南海候補の横顔と並んだ瞬間があった。キーラはその一瞬を捉え、その二人があたしの両親だと言っているのだった。


 なんて突飛な発言。でも、あたしはあんまり驚かなかった。へえ、そうなんだと思っただけだ。この人たちがあたしのランコさんとセイシさんなの?ふたりとも、見た目はわりとふつうっぽい人たちだね。キーラがこうだと言ったことは、たいてい当たっている、何故かは知らないけど。だから、あたしはすんなり受け入れることができたのだ。


 リツコさんもやっぱり、クールに受け止めていた。

「どうしてわかったのって、訊かれたら答えられる?」

 キーラは首を傾げて、つぶやいた。

「ムリ。ただなんとなく、わかったの。それじゃ、ダメ?」

「いいのよ。キーラは、それでいいの。IQテストや偏差値やDNA解析なんかでも測れなかったけど、キーラの勘の良さは本物ですごいってこと、わたしは知ってるし、ユリアも知ってる。だから、それでいいんだけどね…」


 言い淀むリツコさんを、あたしとキーラは背筋を伸ばして注目した。

「とりあえず、段田南海に会いに行こうと思うのよ、わたしたち三人で。どう?」


 


 





 



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