第8話 キーラのハンナさんとヤシマくん
アタシは隣に座ったユリアの横顔を、見上げている。ユリアのまなざしは、近すぎる白い壁と大きな自販機の方に向いて、アタシを見てはいない。ユリアのビターチョコレート色の瞳に、自販機のカフェラテの白い渦巻き模様が映っている。ユリアの瞳の中で、小さな白い渦が巻いている。
アタシはユリアの瞳のビターチョコレート色が好きだ。つい覗き込んで、まじまじと見たくなる。アタシの瞳もこんなふうに、ビターチョコレートの色だったらいいのに。つくづくと、そう思う。
氷山を浮かべた北極の海みたいな、こんな冷たいアイスブルーじゃなくて。アタシもユリアと同じように、柔らかなビターチョコレート色の瞳だったら、どんなにかうれしいだろう。どんなにか。そう願わずに、いられない。
白い鳥が、踊っていた。
アタシが五歳より前に見たもの、覚えていること、本当はちゃんとあった。いくつかあった中でも一番に、くっきりと色濃く残っているのがこれ、白い鳥の踊る姿だ。目を瞑ればいつでも、どこにいても見える。
白い鳥っていうのは、力強く、優雅に踊るバレリーナのこと。白いチュチュと白いファーの髪飾りをつけたその人の瞳も、北極の海みたいにひんやりしたアイスブルー、アタシの瞳と同じ色をしていた。
その人はね、ハンナさんという名前だった。ハンナさんがアタシに言ったの、自分のことをそう呼ぶように。ナッツとヨーグルトだけの朝ごはんを口に運ぶ合間に。コリコリと、ほんの少しのナッツをかみ砕いた後で。
「あなたはキーラちゃんでしょ。わたくしのことは、ハンナさんと呼んでね」。
そう言って、ハンナさんはまたほんの少しだけ、ナッツとヨーグルトの朝ごはんを口に運んだ。朝ごはんだけじゃなかった。ハンナさんはお昼と夜のごはんも、ほんの少ししか食べなかった。まるで、小鳥みたいに。人なのに。小さな子どもじゃなくて、ちゃんとした大人なのに。いつだって、ほんのちょっぴり、ついばむだけなのだ。そのことが、とってもとっても不思議だった。
おなか、すかないの?って、アタシは訊いてみたくて堪らなかったけど、とうとう一度も、訊けなかった。なぜなら、ハンナさんを取り巻いている〈そうしちゃいけないオーラ〉に、圧倒されてしまったから。
それでもアタシはほとんど毎日、ハンナさんと同じテーブルで、一緒にごはんを食べた。そうしていると自分が、底なしの大食いになったように思えてくる。ブタになったみたいな。ほんとうに、そんな気がしてきたのだ。
「キーラちゃんはお腹いっぱい食べて、大きくならなくちゃね」。
ハンナさんはやさしく、そう言ってくれた。でもそのうち、なんとなくわかってきた。アタシが自分だけのパンにピーナッツバターを塗りつけているとき、ハンナさんは決してアタシの手もとを見なかった。ピーナッツバターをたっぷり塗った自分だけのパンを噛みちぎり、むしゃむしゃ食べるアタシから、ハンナさんはずっと目を逸らしていたのだ。
アタシたち、同じテーブルで、一緒にごはんを食べているはずだった。けど、ちっともそんな気はしなかった。お腹いっぱい食べたと、感じたこともない。そのせいなのかどうか、あたしはずっとおチビだった。いまだってユリアと比べたら、だいぶおチビだ。〈家〉に来てからはユリアと一緒に、リツコさんのごはんをお腹いっぱい、食べているんだけどね。どうしてだか、おチビのままなのだ。
ハンナさんはよく旅に出た。聞いたこともない遠い国や、そんなに遠くないけど名前しか知らないような街のステージで、白い鳥になって踊るために。いったん出かけると、何日も何週間も帰って来なかった。その間、アタシはたったひとりで、ハンナさんの帰りを待った。
なんてね。そんなこと、あるわけないよね。だってアタシは五歳よりもっと、ずっと小さかったのだから。ひとりぽっちで、そばに大人のいない赤ちゃんなんて、どうしたって育ちっこないもの。アタシと一緒にいてくれたのは、ヤシマくんという人だった。ハンナさんがそう呼んでいたので、アタシもヤシマくんと呼んだ。ヤシマくんはいつだって必ず、アタシと一緒にいてくれた。ハンナさんが遠い街のステージへ踊りに行っている間も。おうちの三階のスタジオにこもってレッスンに打ち込んでいる間も。アタシのお世話をしてくれたのは、ヤシマくんだったのだ。
アタシが覚えている中でも、一番古い記憶のハナシをしようか。夢のようにはかなくて、心もとない記憶、その光景の中にいたのはハンナさんじゃなく、やっぱりヤシマくんだった。
レンジがチンと鳴って、止まる音がした。それは、毎日のように聞いているお馴染みの音だけど、そのときは少し遠く聞こえた。アタシのいるところが、キッチンテーブルじゃなかったからだ。アタシは、反対側の壁際に置かれた、ベビーベッドの中にいた。
ヤシマくんが近づいてくる。リズミカルな足取りで。シャカシャカと哺乳瓶を振りながら。その手つきは、シェーカーを振るバーテンダーのようだ。もちろん、ベビーベッドの中にいた赤ちゃんのアタシが、シェーカーやバーテンダーを知るはずはない。むしろ逆だった。たしか七歳くらいのとき、テレビドラマの中でバーテンダーがシャカシャカやるのを見て、思い出したのだ。哺乳瓶をシャカシャカやりながら、ベビーベッドの中のアタシを覗き込んでいる、ヤシマくんの真剣なまなざしを。
ヤシマくんは自分の手のひらに、哺乳瓶のミルクを数滴垂らして舐めた。慎重に、ミルクの温度を確かめたのだ、アタシのために。ヤシマくんのその仕草を思い出すとき、アタシは胸の中がじわっと温まるような感じがする。いまだって、わるくない気分になれる。だから、このハナシをしたいのかもしれない。
哺乳瓶の乳首に吸いついているアタシは安心しきって、とっても幸福な赤ちゃんだ。ヤシマくんの繊細な指先は、ほどよい角度とリズムで、アタシの口にミルクを送り込んでくれる。心地よい満足感に包まれたアタシはまどろみながら、口ずさむヤシマくんの柔らかな歌声を聴いている。
ヘイ、キーラ。なにもしんぱいしなくていいよ。ただここにいて、ボクといっしょにいればいい。あのひとはじきにかえってくる、きっとかえってくるよ、だからなかないで。ヘイ、キーラ。ボクといっしょにいようね。
アタシの耳にくっきりと刻みついている、ヤシマくんの即興らしい子守り歌は、その昔にビートルズが歌った〈ヘイジュード〉の替え歌だったと、だいぶ後になって気づいた。そのときにはもう、ヤシマくんに会えなくなっていたから、確かめようはないけど。アタシの脳内にあるメモリーカードに保存されたヤシマくんの思い出は、ときどきふっと、心の表面に浮かび上がってくる。〈ヘイ、キーラ〉の歌声、折に触れて子守り歌のように語りかけてくれたこと、一緒に過ごしたけっこう長い時間。あれやこれや。
開かずのドアがやっと開き、現れたのはリツコさんだった。さ、帰ろう。リツコさんはプリプリして、なにかに怒っているみたいだ。まるで、長い待ち惚けを食わされたみたいに。待っていたのは、アタシたちのほうなのに。
長い廊下を歩いて出入口にたどり着くまでの間、だれにも会わなかった。体力測定や採血や内診のセンセイは、もうとっくに帰ったみたいだ。ビルの中はひっそりとして、薄暗い。一挙に、廃墟になってしまったようだった。
アタシたち、アタシとユリアは、リツコさんの運転するパジェロミニに乗り込んで、もと来た道を戻った。〈あっち〉側の山を下って谷を迂回し、アタシたちの〈家〉に続く山道を登ってゆく。パジェロミニで谷を越えるときのルート、その帰り道だ。
リツコさんが黙っているので、アタシとユリアもお喋りをしにくい雰囲気だった。リツコさんが今日に限って、パジェロミニで迎えに来てくれたのはなぜか。アタシたちに長い待ち惚けをさせている間、一体何をしていたのか。訊きたくて堪らなかったけど、我慢した。アタシも、たぶんユリアも。
そうして、アタシは思い出している。
最初に浮かび上がってきたのは、こんなふうにクルマに揺られている感じだ。曲がりくねってゴツゴツした山道を、否応もなく運ばれてゆくこの感じ。アタシの心の中は、湧き上がる不安と寂しさがいっぱい、溢れ返っている。アタシを運んでいるヤシマくんの横顔が怖かった、それまで見たこともなかったくらいに、怖い顔。いまだって見たくない、出来ることなら、これから先もずっと。
だから心を飛ばした。もっとずっと遠いところへ。ヤシマくんのやさしさがたっぷりと、満ち満ちていたところへ。例によって、ハンナさんは留守だ。アタシとヤシマくんと、ふたりだけのランチの時間。四歳になったばかりのあたしは、大好きな肉まんを食べたいとおねだりしている。
ヤシマくんは頷いてにっこりすると、キッチンポリ袋を取ってテーブルに置いた。ポリ袋は25㎝×18㎝のSサイズ、四歳のアタシの小さな手にも扱いやすい大きさだった。
「自分でやってごらん、キーラ。ハンナさんとボクがいないときでも、お腹がすいたら冷凍庫から肉まんを出して、チンして食べられるように、慣れておかなくちゃね」
アタシはやってみた。冷凍庫の中にあった冷凍肉まんの硬さと冷たさは、手に痛いくらいで、びっくりだった。冷凍肉まんの袋の口を、キッチンバサミでキチンと切って開けた。二個取り出し、残った二個は袋の口を折りたたみ、クリップでしっかり留めて、すぐ冷凍庫に戻した。いつかまた、食べたくなったときのために、忘れないうちにきちんとしまっておく。ヤシマくんがいつもそうしていたように、アタシもマネして同じやり方をする。
アタシは二枚のキッチンポリ袋を取り出し、クシャクシャッとやって口を開き、カチカチに凍った肉まんを一個ずつ入れようとする。ここのところが、実は一番むずかしい。薄くて透明なキッチンポリ袋の口はぴたりとくっついていて、なかなか開かない。カチカチに凍った肉まんに触ったら、冷たすぎてアタシの指も凍ってしまいそうだ。
「そうじゃなくて。肉まんにポリ袋をかぶせるつもりで。そうそう、ほら、できた」
ヤシマくんの言う通りにしたら、凍った肉まんに触らなくても、ポリ袋の中に入れることができた。そうして、一個なら一分、二個だから二分、チンして温めた。ポリ袋の先っちょをつまんで、ホカホカに温まった肉まんを木皿にのせる。
ハンナさんのおうちでは、ごはんでもおやつでも、アタシが食べるものは木のお皿にのせるのが決まりだった。赤ちゃんのときからずっと。ミルクやジュースを飲むカップも、ガラスや瀬戸物ではなかった。
「キーラのカップは、銅っていう金属製だから、絶対に割れないんだよ」
だから、もしも床に落っことしても、割れた破片で怪我をする心配はまったくない。なので、アタシは安全な木の皿と銅製のカップを使って飲食する。
アタシたち、アタシとヤシマくんは、昼下がりのキッチンテーブルに向かい合って、ホカホカの肉まんを頬張った。いつもより美味しいね。ヤシマくんは言ったけど、アタシはいつもと同じ美味しさだと思う。キーラが温めてくれたからね、上手にできたので安心した分、ボクは美味しいと思うんだよ。
ヤシマくんの優しさが、いつも以上にMaxだとアタシは感じている。ホカホカに温まってふわふわの気分、甘えたくなったアタシは訊いてみる。
「ねえ。ヤシマくんは、アタシのセイシさんなの?」
ヤシマくんは困ったように微笑んだ。ハンナさんは、アタシのママじゃなくてランコさんだと、少し前に教わったばかりだった。わたくしのこと、ママって呼ばないで。そうね、ランコさんだと思っていてくれたら、いいわ。
アタシはそのとき小さな子どもだったけど、ちゃんと知っていた。この世界のすべての子どもたちには、パパとママがいる。ひとりの子どもに、ひとりのパパと、ひとりのママがいるのだ。ちゃんと知っている。絵本を読んだり、Eテレの番組を見たり、色んなコマーシャルを見たりしていたら、だんだんとわかってきた。だけどアタシには、パパもママもいない。おうちにいるのは、ヤシマくんとハンナさんなのだ。
ハンナさんがママじゃなくて、ランコさんだとすれば。パパじゃないセイシさんって、ヤシマくんのことだよね?ほかに、大人の男の人をひとりも知らないアタシは、ヤシマくん以外、思い浮かべることができない。ヤシマくんは毎日一緒にいて、アタシのお世話をしてくれる。ヤシマくんは、アタシにやさしい。だからパパじゃなくても、セイシさんであってほしいと、アタシは願う。
願いは、叶わなかった。ヤシマくんはきっぱりと言った。
「ボクは、キーラのセイシさんじゃないよ」
「どうして?ハンナさんのおうちで、アタシとハンナさんと一緒にいるのに」
「ええと。ボクはダンサーだったけど、怪我をして踊れなくなったんだ。でも家事が得意なので、こうしてハンナさんの家で働いている。ハンナさんは素晴らしいプリマドンナだと思うし、心からリスペクトしているので、彼女のために働けるのはうれしいことなんだよ。彼女もボクを信頼してくれて、こうして家とキーラの世話を、任せてくれているんだ」
「ふうん。じゃあ、アタシは?どこからきたの?」
ほんの一瞬だけ、ヤシマくんの目に躊躇いがよぎった。大人たちが子どもたちに向かってよく言うあれ、サンタクロースは本当にいるんだよ、とかなんとか口にする前に、ちょっと躊躇うあの感じだ。お約束のようなものだけど、真っ赤っ赤な噓っぱちが、ヤシマくんの口からも、きっと出てくるんだろう。アタシは思った。もう半分くらいは、がっかりしていた。
でも、違った。
「キーラのセイシさんがだれなのか、ボクは知らないし、知る立場にもない。なぜかって言うと、ボクはLGBТQのGだからね。Gっていうのはね、女の人とカップルになったり、子どもをつくったりはしない、そういう男たちのことなんだ。ねえキーラ、ハナシがややこしすぎるかい?イミ、わかりそう?」
「なんとなく」
アタシはこくんと頷いた。いますぐわからなくても、いずれわかってくる、そんな気がしていた。そういうことは、わりとよくあったので、いますぐわからなくても、さほど苦にならなかった。少なくとも、クリスマスにサンタがきっと来る、なんてまやかしを言われるよりは、余程ましだった。
「やっぱりね。前から思ってたけど、キーラは勘がいいし、呑み込みも早い。キーラのセイシさんは、相当アタマのいい人なんだな。まあ、そこんところは当然というか、絶対に間違いないことだけどさ」
「どうして、ぜったいなの?」
「ハンナさんが選んだからだよ。アスリート系かインテリジェンス系か、はたまたアーティスト系かの三択だったらしい。ボクはてっきり、アスリート系だと思ってた。けど、違ったんだ。これはハンナさんから直に聞いたことだから、確かな話だよ。キーラのセイシさんは、科学技術方面では抜群のインテリジェンスの人らしい。つまり、ハンナさんがイメージしていた未来のキーラは、宇宙飛行士になれるくらいの科学知識を持った、それでいて唯一無二の華もある次世代のプリマドンナだ」
ヤシマくんのハナシを聞いてアタシのアタマに浮かんだのは、月だか火星だか、宇宙のどこかの星のザラザラゴツゴツした地面にすっくと立ち、白い鳥になって踊るバレリーナの姿だ。あ、そうだ。宇宙服ってものを、着なくちゃなんないよね?宇宙では。ハンナさんがどんなふうに宇宙服を着るつもりなのか、アタシには見当もつかないけど。
アタシのアタマの中の、あのザラザラゴツゴツした地面で踊っていた、宇宙飛行士でもあるという白い鳥は、アタシじゃないのよ、ぜったいに。
それだけは、アタシにもいますぐわかる、たしかなことだ。
リツコさんは大忙しだった。アップダウンの激しい危険な山道を、パジェロミニで巧みに駆け抜けた。なかなかのスピードだった。この狭い山道をもしも踏み外したら、険しい崖を真っ逆さまに転げ落ちるだろう。バックシートの上で縦横無尽にバウンドしながら、アタシは思った。いったん気づいてみると、今更ながらギョッとした。でも、忙しくハンドルを操作する運転席のリツコさんは、なんだか破れかぶれのオーラを放っていて、話しかけにくいのだった。
疲れちゃったね。
そう言って、〈家〉に着くなり座り込んでしまったリツコさんに代わって、アタシたちが晩ごはんの支度をした。と言っても、一番手っ取り早くカンタンで、火を使わないから安全、そのうえ満腹になれるメニュー。リツコさんが余分に炊いて冷凍してあったご飯と、やっぱり余分に作って冷凍してあったカレーを、チンして温めたのだった。
カレーを食べ終え、ひと息ついたところで、リツコさんが言い出した。
「ねえ。さっきの帰り道で、クルマが落ちそうな感じ、した?怖かった?」
ユリアは素早く首を振って、ぜんぜん、と言った。けど、アタシは同じタイミングで、すっごい怖かった、と言ってしまった。
「ごめんね。いっそ落ちてもいいかと、魔がさしちゃったのよ、一瞬だけど」
リツコさんがさらりと言った、その言葉の意味するところは、ワンテンポ遅れてアタシの頭に浸み込んできた。途端に、胸がドキドキし始めた。ユリアも心配そうにビターチョコの瞳を陰らせて、リツコさんを見つめている。
「でもね。ユリちゃんとキーちゃんが、おいしそうにカレー食べるのを見てたら、ネガティブ思考は吹っ飛んじゃった。お腹も気分も落ち着いたわ」
リツコさんは三日月の形をした金のピアスを揺らして、微笑んだ。リツコさんのショートヘアのスタイルに、三日月のピアスはよく似合っていた。そしてアタシは、リツコさんの耳にかかったショートヘアの根元が、万遍なく白くなっていることに初めて気づいた。なんだかまごついて、カレーを食べたお皿に目を落とした。今日はアタシが洗わなくちゃ、と心に決めた。
お皿。
ハンナさんの家にあった、アタシ用の木のお皿が目に浮かんだ。それと、ツルツルピカピカのフローリング材でつくられた、リビングの床。ヤシマくんはその床板を、掃除機とクイックルワイパーと粘着コロコロを駆使して、毎日きれいにした。ワックスもかけて磨き上げた。リビングのフローリング材の床板は、いつも清潔でつやつやして、気持ちがよかった。わざわざ、触りたくなるくらい。寝そべって、転がりたくなるくらい。でも、アタシはそうしちゃいけないのだ。
ハンナさんは、フローリング材でつくられたリビングの床の上を、裸足で歩いた。家の中のどこへ行くにも裸足だった。とりわけ、リビングの広い床の上では、踊るようにステップを踏み、優雅にスピンしてポーズを決めた。
アタシは、夏でもスリッパを履くのが決まりだった。ヤシマくんは、靴下みたいにぴったりして柔らかな上履きで、身軽に素早くリビングの床の上を動きまわった。磨き上げたフローリング材の床板の上に、紙屑やプラごみの切れ端どころか、綿埃や髪の毛の一本も、落ちていないように気を配った。
いつだったか。アタシがうんと小さかったとき、振り回した手に当たったものが床に落ち、ガシャン!と音立てて粉々に壊れた。そのときの記憶が甦った。あれは、ティーカップだったか、砂糖入れだったか。定かではないが、ガラスか陶器か、床に落ちれば割れるものだった。その音を、覚えていた。
アタシに木のお皿と、銅のマグカップがあてがわれた理由、それがいまになってわかった。唯一無二のプリマドンナ、多忙なスケジュールをこなしているハンナさんの足を、傷つけたりしないように。並外れて敏感なその足裏に、些かでも不快感を与えないように。危険なものをあらかじめ、取り除けておくために。そのことがいまはっきりと、アタシにもわかった。
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