第7話 揺るぎなきユリアの過剰な愛情

 あたしたちは、谷を越える。

 あたしたち、あたしはユリア、不細工でむっつり屋でおチビのキーラと一緒に、深い谷底へ続く険しい道をそろそろと下ってゆく。

 季節はもうじき厳しい冬に移り変わる頃、お馴染みの「今シーズン一番に冷え込んだ朝」が、今日も更新されたばかりだ。枯れ草が目立ち始めた藪も、でこぼこした急勾配の地面も、霜をかぶってうっすらと白い。山から谷へ下る斜面は見渡す限り、白く凍りついている。

 そして、ひどく滑りやすい。


 しょうがなくて、あたしはキーラと手をつないでいる。キーラのほうは、もっとしょうがないと言いたそうに、あたしの親指をおざなりにつかんでいる。実際のところ、この斜面で足を滑らせがちなのは、おチビのキーラじゃなくて、年上のあたしのほうだった。


 あたしがずるっと滑ってバランスを崩したとき、おチビなのに意外と力の強いキーラが素早く反応して、ぎゅっと親指を握りしめ、支えてくれた。おかげで、転ばないですんだ。それはつまり、あたしのサイズに合うのはもうこれ一本きりの冬物のジーンズを、泥だらけにしないですんだということでもあった。


 あたしはゴメンと言って、キーラの小さな手を離した。夢中できつく握ってしまったから、きっと痛かったはずなのに、キーラはけろりとして首を振った。自分からあたしの手を取り、またしっかりと親指を握り直した。

 キーラはもう、しょうがないねぇと、言いたそうな顔ではなかった。まるで、スイッチが切り替わったみたいだ。きりりとして、それが自分の大事な役目だと、言い出しそうなまなざしになっている。


 こんなとき、あたしは、あたしたちの違いを感じた。

 あたしたち、あたしとキーラは、よく似ているところもいくつかあった。なんと言っても、あたしたちはそれぞれの家とか家族とか、持っていない。同じリツコさんの〈家〉に住んで、リツコさんの料理を食べ、いろんなことを教わってきた。火と刃物とコンセントの扱い方、似合う服の選び方、それと、リモート授業のわからなかったところなんかも。


 〈家〉には、あたしたちのほかに、子どもたちがいたこともあった。いつ頃に何人いたとか、時間と数を合わせて言うのは、ちょっとむずかしい。一年近くいたり数週間だったりほんの数日だったり、いろいろだったからだ。結局はみんな、入れ替わり立ち替わりした後、最終的にいなくなった。いま、残っているのはあたしたち、あたしとキーラのふたりきりだ。

 だからこうして、あたしたちは今日も一緒に、谷を越えてゆく。


 あたしとキーラは谷底を越えて、いまは反対側の山を登り始めたところだ。この谷を越えるたび、ひょっとしたら、ここが〈不気味の谷〉というやつなのかも知れない、と思ったりする。でも、越えてしまったら、じきに忘れている。あとはただ、ひたすら目の前の山を登ってゆくだけだ。


 そうして、半分くらい登った辺りの平地に聳え立つ、ビルにたどり着いた。あたしたちの〈家〉よりずっと大きなそのビルには、決まった名前がない。看板も表札も、名前がわかるようなものは、一切出ていないのだ。


 リツコさんが〈あっちの山のビル〉と呼ぶので、あたしたちもそう呼んでいた。そのうちに段々と縮まって、いつの間にか、そこはただの〈あっち〉になった。あたしたちは半年に一度、必ず〈あっち〉へ行くことが決まりになっている。そして、今日がその日なのだ。

 

 うんと小さい頃には半年に一度、リツコさんがあたしたちをクルマに乗せ、ぐるりと遠まわりをして谷を越え、〈あっち〉へ連れて行ってくれた。やがておチビのキーラが見た目ほどおチビではなく、山登りも谷下りも楽々とこなせる脚力を持っていることがわかった。年上のあたしより、ずっと達者なくらいだった。それは、あたしが最初に感じた、あたしたちの大きな違いだ。

 

 あの子のめんどうをみてあげてね。

 リツコさんはあたしに言ったけど、キーラがあたしにめんどうをかけるなんて、ちっとも思っていないようだった。それどころかキーラは、見た目がおチビでもすばしっこくて疲れを知らず、むしろ頼りになる子だってこと、ちゃんと知っていたみたいなのだ。


 そう、リツコさんはきっと知っていたんだ、キーラがどんな子になるのか。たぶん持っているはずのもの、持っているかも知れないもの、持っていてくれたらと期待せずにはいられないもの。予測可能な、あれとこれ。

 リツコさんだけじゃない。今日これから、あたしたちが〈あっち〉で会うセンセイたちも、そのことを知っているんだ。そんな気がしてならない。


 〈あっち〉のビルの中の広いワンフロアで、部屋から部屋へ、あたしたちは忙しく移動した。いつもと同じ検査やテストを受けるために、いつもとだいたい同じ順序で。ひとつだけ違ったのは、あたしとキーラがひとりずつ、別々の部屋に呼ばれたことだった。


 前回まではあたしたち、一緒くたに扱われた。あたしが身長と体重を測られ、採血されるとき、キーラもそばにいて同じことをされた。でも今日はあたしたち、ずっと別々だった。

 あたしはひとりきりの部屋で、いつものIQテストに似ているけど、いつもよりずっと長くてややこしい、ひねりまくった感のあるテストを受けた。勝手が違いすぎて、とってもとっても、やりにくいテストだった。


 あたしは出題の意図も傾向も、つかみきれないまま、ほとんど出鱈目な直感にまかせて、回答を選んでいった。そんなやり方をしたのは、初めてだった。身体中から、冷たい汗がじくじくと、湧き出るような感じがした。集中していたのに、テストの時間はとってもとっても、長かった。

 そして、ものすごく疲れた。


 キーラも疲れた様子だった。

 あたしたちはやっと合流して、狭い廊下の隅の自販機コーナーのベンチに並んで座り、採血のセンセイが買ってくれた、甘いぶどうジュースを飲んだ。ふたりとも黙りこくって、ぶどうジュースを飲み干すまで、ぼんやりと放心状態でいた。


 おしゃべりしたいことがたくさんあり過ぎて、何から話していいかわからない、そんな気分だった。キーラは息を弾ませ、汗をかいていた。あたしはキーラの額に浮かんだ汗の粒々を、バンダナで拭いてあげた。でも汗の粒は、拭き取るそばから次々と湧き出た。あたしの冷たい汗より勢いよく、際限もなかった。


 「キーラはどんなテストをやったの?」

 あたしは内緒話のトーンまで、声をひそめて訊いた。

「クイズみたいなIQテスト、ばっかりだった?」

 するとキーラは、走ったり跳んだりボールを投げたり、いっぱいやった。クイズみたいなIQテストは、ほんのちょっとだけだったと、ひそひそ話のトーンで答えた。


 あたしたちは、〈家〉のリツコさんがクルマで迎えに来てくれるのを待っていた。いつもそうしていたように。でも、リツコさんはなかなか来なかった。こんなに待ったことは、いままで一度もなかった。そんな気がするくらい、長く待たされた。


 あたしたち、あたしとキーラは、重いドアが開くのを待っていた。測定と採血のセンセイか、内診のセンセイか、どっちかの顔が現れて、あたしたちを呼んでくれるときを待った。今か今かと、待ち惚けた。ひそひそと内緒話を交わす間もふたりして、開かないドアを見つめていた。そうしていれば、ほんのわずかでも早く、ドアが開いてくれそうな気がしたのだ。


 待ち惚けするうち、どちらからともなく二人の間に、リツコさんはとっくに来ているんじゃないかしら、という理解が生まれた。あたしとキーラは顔を見合わせ、頷き合い、ふたりが同じ考えを共有していることを確かめた。


 いつもと違う出来事が、起こり続けた日だった。あたしたちが受けた検査とテストの結果がどうだったのか、こうなるともう、無視したままにしておけなかった。あたしもキーラも、そこのところには触れていない。だいたい見当つきはしたものの、なんとなく、パスしていたのだ。


 あたしたちは一度も行ったことがないけれど、〈学校〉という場所のことは知っていた。コミックやアニメや学園ドラマでたっぷり見ているから、実際に、通ったことがあるような気がするくらいだ。


 ちなみに、あたしは2016年生まれなので、今年十五歳になる。ちょうど来春、中学校を卒業する人たちと同じ年齢だ。〈学校〉に通っている十五歳の人たちは、もうとっくに〈進路〉を決めているんだろうな。漠然と、そう思う。あたしには〈進学〉も〈就職〉も、全然カンケイないことだけど。


「うまく出来たって言われた?走ったり跳んだりとか、いろいろやって」

 あたしがズバリと訊いたら、キーラはちょっと口ごもって、恨めしそうに答えた。

「ふつう、だって」

「ふつうだったの?そっか」

 あたしたちは黙り込み、その意味するところを噛みしめた。あたしたちの場合、ふつうじゃダメなんだと、ふたりともよく思い知っていたからだ。


 あたしたち、あたしとキーラには、共通しているところもちゃんとあった。それがこれ、IQテストの結果と身体能力と、なんであれ、測定して数値化できる検査の類はことごとく、あたしたちがごく平均的な、ふつうの子どもであると判定されたことだった。


 生まれてこの方あたしとキーラは、こんな具合にセンセイたちの期待をスルーして、ガッカリさせてきたらしい。もちろん誰ひとり、スルーだのガッカリだの、面と向かってハッキリ言ってくれた人は、いなかったけど。

 だから、余計に困るのだ。でも、はっきり告げられるのは、やっぱり怖い。


 例えて言うなら。

 あたしたちは、ペットショップに売れ残っている、二匹の子犬みたいなものだ。大きくなってしまって、もはや子犬ではなくなりつつある。それが、モンダイだった。あたしはもうじき十五歳、2017年生まれと推定されたキーラは、十四歳になるはずなのだ。

 キーラが見た目ほどおチビじゃなく、あたしとたった一歳違いだってことは、なかなか受け入れられない。それどころか、もしかするとあたしと同じ2016年生まれかも、なんて可能性があるとは、以ての外だった。


 どうやらあたしたちは、知能と体力と諸々の能力が、ごく〈ふつうの子〉にすぎないので、本来行くべき場所へ行けずにいるらしい。少しずつ、だんだんと、わかってきた。それは半年ごとに、揺るぎない事実として積み上がり、不穏な空気となって、あたしたちに纏わりついた。あたしたちは〈ふつうの子〉にすぎなくても、その不穏さをひしひしと感じる感受性は、ちゃんと持っていたのだ。


 本来引き取ってくれるはずの人たちが、〈ふつうの子〉にすぎないあたしたちにガッカリして、スルーしようとしたから、今日まで売れ残っている。つまりこの二匹の子犬たちの、買い手となるべき人たちはとっくに特定されている。でも、こちら側には選択肢どころか選択する自由もない。そんな機会も、知る権利さえも、与えられていない。

 店先を通りかかったやさしい犬好きのだれかが、哀れに思って衝動的に買い入れてくれるかもしれない可能性さえ、あらかじめ摘み取られてしまって、ゼロなのだ。


 あたしたち、あたしとキーラのひそひそ話は、ひそやかに続いている。すぐ目の前に迫る壁と、そこにドカンと置かれてあたしたちの視界をふさぐソフトドリンクの自販機、目に入るものはそれだけだった。

 そういえば、テストが終わった後のあたしたちはいつもここに座り、近すぎる壁や自販機とにらめっこをして、リツコさんを待っていた。ビルの中をうろついたり、トイレ以外のドアを開けたりしてはいけない。絶対に、許されないことだった。

 

 だから、あたしたちはこの場所のことを、なんにも知らなかった。半年に一度、こうして通っていたというのに。ここで会ったセンセイたちだっていつも同じ、決して余計なおしゃべりをしない人がふたりだけ、他には人がいる気配さえ感じられなかった。こんなに大きなビルなのに、ちょっと変だ。


 あたしはふっと気づいた。それらの意味するところに。ひとつひとつの物事は、小さくともなにかしらの意味を含んでいて、あるときふいに結びつく。そして、腑に落ちる意味をもたらすことがある。

 リツコさんから聞いたのかもしれない。なにかで読んだのかもしれない。学校へ行ったことのないあたしたちが、なにかを教わったとすれば、どちらかに決まっている。けど、どちらでもないような、気がしてしょうがない。


 前から気になっていたことだ。それがいま、あたしの中で急速に膨らみ、口をついて出た。キーラに、訊いてみたかったこと。

「ねえ。キーラは五歳より小さいとき、どんなところに住んでいたの?エレナちゃんと知り会って、〈家〉に連れてきてもらう前のこと、ほんとになんにも覚えていないの?」


 なんにも覚えてないよ。

 それがキーラのスタンスだった。どこで、どんな人たちと一緒に住んで、自分がどんな子どもだったのか、なんにも覚えていない。ちっとも思い出せない。だって、五歳より小さかったんだよ、しょうがないでしょ。









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