第6話 そしてキーラはエレナの手に

 エレナは、つらつらと思う。

自分が住むこのニッポン社会では、たったひとりでも子どもがいなくなったら、それだけで一大事だ。帰るべき子どもが帰って来ない。そんな事態に直面した親たちは悪夢に怯え、一刻も早く醒めてほしいと願いつつ、わが子を探しまわるだろう。


 それなのに。

サワタリ地区と周辺の町村で、行方知れずになっている子どもはひとりもいないと、営業所長は言うのだった。少なくとも、自治体の窓口や警察の派出所に、そのような届けや相談は出されていない。ウチの子を見なかったかと、慌てふためいて尋ねまわる家族もいない。小学校や保育所からの回答も、無断欠席をした子どもはいないと、にべもないものだった。


 キーラと名乗った子どもの手を引くエレナを伴い、休憩中の営業所長室をノックした整備主任は、事の次第をごく簡単にかいつまんで報告すると、自分は忙しいのでとよろしくと言い置いて、そそくさと昼食休憩に戻った。

 すでに愛妻弁当を食べ終えていた営業所長は、事故車内に子どもが置き去りだったというトンデモ事態を深刻に受け止め、残りの休憩時間を返上して、さっそく関係各所に電話を架け始めた。


 架けるたびに同じ説明を繰り返し、同じような先方の驚きを受け流しては、不機嫌で不細工な子どもの仏頂面の写真を送りつけ、調査と確認を依頼した。地道で根気の要る作業だった。見ているだけで、エレナは気が遠くなりそうだった。けれども、そうした所長の尽力にも関わらず、得られた返答は前述したように、ナイナイづくしなのだった。


 実に辛抱づよく、長たる者に相応しい自制心を発揮して、交渉を続ける所長の対応ぶりには、いたく感銘を受けた。かくありたいものだとエレナは思ったが、反面、自分にはまったくムリな気もした。少なくとも、いま現在この場ではムリだった。


 なぜならエレナひとりだけが、昼食にありついていなかったからだ。実を言えば、朝食も抜きだった。早めのランチで今日一日分の滋養をとれば、どうにか凌げるだろうと、心づもりをしていたのだ。


 ところが、転落で事故車となったホンダCR―Vとキーラの出現によって、エレナの心づもりもひっくり返された。いまは所長の面前で昏倒しないように、踏ん張っているのがやっとのありさまだ。


 低血糖のせいかストレスのせいか定かでないものの、脳内の血流が希薄になっている実感はじわりとあった。もはや何もかもが虚ろに見えたが、所長の忍耐心がだんだんと擦り減ってゆくさまは、手に取るようにわかった。


 十一回目の通話を終えたとき、当初は柔和だった所長の顔面が軽く引きつっていた。子どもの仏頂面をチラリと一瞥したものの、それきり二度と目を向けずに、エレナに対して宣言した。万事休す、ここまでだ、と。


 所長の通話を聴いていたエレナにも、それはやむなき結論と思われた。キーラと名乗った子どもの存在は、デスクを挟んだエレナと所長の間で、あてどなくふわりと宙に浮いた。どちらかが発言するたび、ゆらりとほんの少しだけ、相手方のほうへ漂うのだった。


「警察では、子どもを引き取れないと言ってる」

「どうしてですか?迷子なのに」

「その迷子が、わさわさといるらしい。警察署も児童相談所も養護施設も満杯で、これ以上は一人も受け入れられないんだと。なんでかなんて、訊いてくれるなよ。とにかく先方はこの電話さえ、なかったことにしてほしい口ぶりだった」


 エレナの虚ろなまなざしは、デスク上をふわふわ漂うシャボン玉を追っている。赤と青のシャボン玉がわさわさと湧き出して数を増し、乱舞する。所長の渋面は、夥しい数のシャボン玉に覆い隠される。


「そういうわけで、キミには特別に、午後から休みをあげることにした。もちろん有給扱いだ。ただし、今日に限っての特別措置で、次はない」

「はあ?」

 なにかしら好ましくない雲行きになりつつあるような気はしたが、もはや抗弁しようにも腹に力が入らず、考える気力も湧いてこなかった。エレナは所長の言葉にただぼんやりと頷き、一刻も早くなにか食べられるところへ行きたいと、そればかり思っている。


 所長の発言は続いている。

「…これが最適な対処法だと思うんだが、そうじゃないか?なんと言ってもキミたちは女の子同志だし、なんとなく似た感じもするし」

「は?似てるって、わたしと、この子がですか?」

 聞き捨てならない所長の言葉に、エレナはくっきりと覚醒した。


「なんたってほら、キミたちの目は光が当たると似たような薄い色になるじゃないか。そっくりな色だ。名前だってほら、なんとなくアチラっぽいし。とにかく今日のところは、キミがこの子を連れて帰るんだ。そして当分の間、預かる。まあ、いつかそのうちどこかの役所がナントカ言ってくるまで、だろうな」

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