第5話 たった二日後の再会

 それから、たったの二日後だった。

午前の業務から戻ったエレナは、整備工場の裏手にある従業員用駐車場へフィットを乗り入れた。事務所へ向かって歩く道々、それを見た。修理待ち車両置き場の最後尾に、シルバーの箱型ボディのフォルムがチラリと見えたのだ。


 まさかと思いつつ小走りで近寄り、確かめた。まさかではなかった。つい二日前、もう見ることはあるまいと感無量で見送った、あの初代ホンダCR―Vがひっそりと、身をひそめるようにして、そこにあった。


 最早ピカピカではなく、全体がうっすらと土埃をかぶったような色合いにくすんでいた。とりわけ運転席側の汚れ方がひどく、割れてしまったガラスが取り払われ、窓は全開状態だ。右側面は、いったん泥水に浸った後で乾いたような塩梅に、泥汚れがこびりついていた。心なし、バンパーもひしゃげている。まるで田んぼの中に落っこちたようだと思い、やっぱりついに落っこちたかと、エレナは色めき立って車内を覗き込んだ。


 まず初めに、エンジンキーがついているのが目に入った。次いで、運転席の足もとに落ちた小さなピンク色の切れ端が目に留まった。ほんの小さな切れ端だが、グレートーンの内装と土埃にまみれたゴムマットの無彩色の中で、たったひとつそれだけが鮮やかなピンク色だった。否応なくむき出しに、それは目立った。

 エレナはドアを開くなり、後先考えもせずに手を伸ばして、小さなピンク色の切れ端を摘まみ取った。思った通り、その感触は布切れのものだった。


「こいつを引き取りたいのかい?安くはないぜ、ポンコツの事故車だけどさ」

 いつの間にか、背後に整備主任がいた。いつもの軽妙な戯言の口調だったが、隠しきれない徒労感と苦々しさが滲んでいた。

「往生寺の住職さん、このクルマを手放したんですか?嘘でしょ」

「そうだ、嘘っぱちだ。手放しはしなかった。だけど住職は乗れない。なんせもう、この世の人ではないからな」

「えっ?えっ?亡くなったんですか?あの住職さんが?いつ?どうして?」

「時間まではわからんが、今朝方のことだ。単独の自損事故だったらしい」


 そのとき、リアシートの向こう側の荷台スペースで、動くものがあった。気配を感じた二人は、同時に目を向けた。整備主任は、ネコかキツネが入り込んでしまったかと身構え、全開状態の窓を真っ先に塞がなかった自らの手落ちを悔やんだ。


 エレナは反射的に、つい今しがたゴムマットの上から摘まみ取り、掌の中に握りしめた布切れの存在を強く意識した。あの窮屈そうなシャボン玉模様のワンピースを着た、不細工で不機嫌だが意外に人懐っこいところもあった子どもの姿が、脳裏に浮かんだ。そして、願った。そこにいるのが、あの子どもでありますようにと。


 とんでもない願いだったが、それは叶った。叶ったことに、誰よりもエレナ自身がびっくりした。当たった、という感じだった。

 まず、ふたつの小さな手が伸びて、リアシートのヘッドレストを掴んだ。次いで、よいしょとばかりに弾みをつけ、おかっぱ頭が現れた。まるで恥ずかしがっているように、目より下は隠れたままだ。けれどもその目は確かに、往生寺への細き道の前で出会った、あの不細工な子どもの目だった。


 整備主任は、わっと驚きの声を上げ、それきり絶句して固まった。エレナはホンダCR―Vの後部へ走り、ハッチバックのドアを開いた。思った通り、子どもは二日前と同じ、ピンク色の地に赤と青のシャボン玉模様を散らしたワンピースを着ていた。やはり、窮屈そうだった。気のせいか、腹まわりは前に見たときより、ピチピチ感が一段と増していた。


 気のせいではなかった。

エレナは荷台スペースの散らかりようをつぶさに眺め、子どもの腹まわりを太らせた原因を見出した。開いたクーラーバッグがあり、十本ほどのペットボトル飲料が散乱していた。どれも、ほんの少量だけ飲み残した、ほとんどカラの状態だ。対照的に、仕出し弁当や供物の菓子折りやフルーツの盛り合わせらしき容器は、中身がきれいさっぱりカラになっていた。

 子どもが大事そうに抱えている白い帽子の中には、メロンとオレンジが収まっているのも見て取った。すると子どもはエレナと目を合わせ、得意そうにニヤリと笑った。


 エレナもニヤリと返して、思ったままを口にした。

「いっぱい食べたんだね」

「うん、おなかいっぱい」

「あれからずっと、ひとりでここにいたの?」

「ずっといた」

「ケガしなかったの?クルマが落ちたとき。どこか痛いところはない?」

「いたくない」

「あのね。おまわりさんとか、人が大勢来たでしょ。わからなかったの?」

「ねてたから」


 子どもの足もとに、開いた寝袋のようなものが寄せてあった。内装と同系色のそれは、住職が仮眠用に備えてあったものらしい。なるほど。エレナは思った。子どもはそれをかぶり、じっと横になっていたので、気づかれずに済んだのかも知れない。

 本当に眠っていたのか、それとも、気づかれまいと息をひそめていたのか、確かめようはなかったが。いずれにしろ事故処理にあたった人々は、この子どもの存在を完全に見逃したのだ。


「知り合いなのかい?誰なのこの子、ひょっとして、エレナちゃんの子?」

 整備主任は目覚めたように、矢継ぎ早の勢いで問いかけた。

「やだ。違いますよ。往生寺の前で会って、住職さんが留守だったので、居そうなところを教えてくれた子です」

「だからクルマに乗せたの?」

「ええまあ。でも、おかげですぐ、見つかったんですよ」

「しかしね、あれからずっといたって、何なのそれ。どこの子どもなの?」

「さあ」

「名前は?なんていうのさ」

 そういえば、子どもの名前を知らなかったと気づいたエレナは向き直り、直接当人に問いかけた。

「お名前、なんていうの?」

「キーラ」

「キーラちゃん?名字は?」

「ない」

「ないって、知らないってこと?」


 子どもは固い表情で大きく頷いた。エレナは整備主任と顔を見合わせ、どうしたものかと指示を仰いだ。整備主任の結論は早かった。

「これはもう、オレたちの手に余るぜ。所長に知らせよう」



 

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