第4話 途方もない棚の話

 エレナは、シルバーに輝くホンダCR―Vの運転席に座って待った。ひたすら待った。先刻の住職の鋭い一瞥が、そうするように促していたと感じ取ったからだ。どのみち、のこのこと降りて行ってテントの中の二人の間に、割って入る勇気はなかった。


「なんの話をしてるんだろうね、あの人たち」

 われ知らず漏らしたエレナの独り言に、シャボン玉模様の子どもが答えた。

「おてらさんはね、セールスしてるんだよ」

「セールス?なんの?」

「タナ」

「棚って、ニトリで売ってるような棚のこと?なんでまた、お寺さんがあの女の人に棚を売らなくちゃなんないの?わけわかんないよ、そのハナシ」

 すると、窮屈そうなシャボン玉模様のワンピースを着た子どもは背筋を伸ばし、歌うような抑揚をつけて語り始めた。


「ニトリでうってないタナだもん。まえはサワタリ小学校のくつばこだったタナだから。五年生と六年生のうわぐつ入れるタナ、ずっとあまってたからぜんぜんよごれてないのが十六こあったの。そんでね、サワタリ小学校がハイコーになったときにね、おてらさんはやくばのエライ人にいって、くつばこをもらったの。だからね、サワタリ小学校のくつばこだった十六このタナはね、おてらさんのタナになったんだよ」


「そっか。じゃ、お参りにきた人たちの靴を、入れる棚になったんだね?」

「ぶー。くつじゃなくて、おこつ、いれておくタナだよ」

「えっ?納骨堂みたいに?なんで靴箱に、お骨入れなくちゃなんないの?」

「ええっとね、チョーエイのボチがせまくなったからね、あたらしいボチにイテンするんだって。けど、いまのボチよりだいぶとおいからふべんになるよって、おてらさんはいうの。みんなボチのオハカをやめて、おてらのタナにおこつをおいたらべんりでらくちんだよって、セールスしてるの」

「それ、セールスっていうのかしらね?」

「セールスだよ。だって、さんじゅうまんえんだもん、タナひとつ」

「えっ?えっ?三十万円って言った?」

「いったよ、ほら」


 シャボン玉模様の子どもが短く丸い指先で差した光景を、エレナは見た。農産物直売所のテントの中で、日除け帽子を被った年齢不詳の女性がいかにも渋々と、前掛けのポケットから茶封筒を取り出した。薄っぺらではなく、そこそこの厚さがある茶封筒だ。それが一瞬後には往生寺の住職の手に移り、作務衣の懐に仕舞われた。目にも止まらぬ早業だった。


 往生寺の住職は人が変わったように破顔一笑し、野太い声を上機嫌に張り上げ、契約成立に関する書類らしきものをスイカの上に広げ始めた。けれど、日除け帽子の女性のまなざしはどこか上の空だ。住職の書類も、売り物のスイカも、なにも見えていないようなまなざしだった。


「あのね、せっかくなおしたクルマがね、またこわれちゃったらおねえさんはかなしい?もしかしたら、ないちゃう?」

 シャボン玉模様の子どもに問われて、エレナは我に返った。往生寺の住職の動きを目で追いながら、深く考えもせずに答えた。

「そうねえ、ちょっとはガッカリするけど、泣いたりはしないよ。きっとまた整備の係りの人たちが、ちゃんと直してくれると思うから」

「またこんなふうに、ピカピカになる?」

「きっとね。いまよりもっと、ピカピカなるかも知れないよ」


 往生寺の住職が自分を手招きしていると気づき、エレナは脱兎のごとき素早さでホンダCR―Vから降りた。スカートの尻に寄った座り皺を伸ばし、バッグとバインダーを抱えて、自分を営業部員モードに切り替えた。満面に微笑みを浮かべて往生寺の住職に歩み寄り、日除け帽子の女性に目礼したとき、シャボン玉模様の子どもがホンダCR―Vの助手席から自分たちを、注目していると感じた。


 連れて降りるべきだったか、少なくともどうしたいか訊くべきだったかと思い及んでエレナは振り向いた。すると同時に、シャボン玉模様の子どものおかっぱ頭が、ウィンドウの枠より下に隠れた。

 ま、いいか。後でも。

 そしてエレナは、シャボン玉模様の子どもに関する一切を後回しにした。そしてそのまま、忘れてしまった。


 整備主任から指示された通りに、エレナは初代ホンダCR―Vの修理代金を、全額現金で受け取ることが出来た。往生寺の住職が作務衣の懐から同じくらいの厚さの封筒をふたつ取り出し、おもむろに中身の万札を数え始めたとき、さんじゅうまんえん、という微かな声を聴いた気がした。けれども、一見した厚さから封筒の中身を三十万円と見当つけたエレナは、その声を自分の内なるつぶやきと解釈して、聴き流した。


 往生寺の住職は十万円だけを数えて抜き取り、ふたつの封筒を無造作にポンとエレナに手渡した。先刻日除け帽子の女性から受け取った茶封筒と、別の使い古された白い封筒だった。その金がなんの代金だったかを思い出すゆとりもなく、エレナはただひたすら念を入れて慎重に、震える指先で五十枚の万札を勘定した。


 エレナが持参した¥486,358円也の領収書と、13,642円の釣銭を受け取った往生寺の住職は、磨き抜かれたシルバーの輝きをまだ保っている、1995年製の初代ホンダCR―Vに意気揚々と乗り込んだ。

 その際、まるでエレナに当てつけるように、今日のうちにまた二軒回ってあんたに払った分を取り戻さなくちゃならん、とボヤいて見せた。けれども、言葉と裏腹に住職の表情は至極満足そうで、ゆるみっ放しだった。上機嫌の勢いのまま国道237号線へ踏み出し、1995年製の初代ホンダCR―Vのシルバーに輝く箱型ボディは、あれよと言う間に走り去った。


 深々とお辞儀をして見送ったエレナが顔を上げたとき、遠ざかるホンダCR―Vのリアウィンドウの中に、シャボン玉模様の子どものおかっぱ頭がチラリと見えた気がした。そこで初めてエレナは、あの子どもがまだ車内にいたのだったと思い出した。


 どうやらあの子どもは、自分が思ったよりも往生寺の住職と近しい間柄であるらしい、と解釈した。それはそうだろう。自分が乗ったホンダCR―Vにあれほど強く関心を示したのも、あんなふうに同乗させてもらうことが度々あったからなのだ。


 サワタリ小学校の靴箱だった棚が、住職の手によって一個三十万円の納骨棚に化けたという、あの途方もないハナシだって、人前で堂々と語られた筈はなかった。日々住職の身近にいて、その言動を見聞きしていればこそ、知れた事柄だ。そもそも、100%事実かどうかさえ、大いに怪しいハナシではないか。


 真に受けちゃいけない。

 夢から醒めたように、正気に戻ってエレナは思った。あの子どもは大丈夫、住職がよく知っている近所の子どもに違いないのだから、ちゃんと帰るべき家に帰れるだろう。自分が責任を感じる謂われは、どこにもないのだ。


 ふと、あのホンダCR―Vを見るのはこれが最後だったかもしれないと気づいて、エレナはしばし感慨に浸った。そして、自分よりも長く生きて来た1995年製の初代ホンダCR―Vで、ナビもナシの長距離ドライブをした今日の経験を、無駄にはするまいと心に刻んだ。今後の営業活動の際、あの車種の走行性能と耐久性について、きっとだれよりも自信をもって語ることができるだろうから。


 つらつらと思い巡らせながら、エレナは回収したフリードに乗り込み、今更ながらずしりと重く感じる現金五十万円と、必要書類を携え、長い帰路についた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る