第3話 シャボン玉模様の子ども
「さてと。どうしたらいいのかしら」
つぶやくと同時に視線を感じ、エレナは前方に目を向けた。そして、ギョッとした。大きなホンダCR―Vの真ん前に、小さな子どもがいた。こちら向きに立ち止まって運転席のエレナを見上げ、じっと睨みつけている。
それだけでも充分冷や汗ものだったが、その子どもの面構えにゾッとした。なんとも言い表しようがないほど、不敵で不機嫌で不細工なのだ。
ぽっちゃりと重そうなまん丸い顔の中に、小さめの造作がまとまりなく散らばっていた。眩しそうにきつく目を眇めているせいで、不細工感がいやが上にも増して見えた。
年のころは幼稚園児か小学一年か、決めかねるが大体それくらいだろう。白い帽子を被り、淡いピンク地に赤と青のシャボン玉らしき丸を散らした柄のワンピースを着ていた。子どもらしくはあったが、少しばかり古臭い柄だった。その上ワンピースは、小さく短くなってしまってピチピチ状態だったので、子どものぽっちゃり体形をより際立たせていた。
子どもにこんな窮屈そうな服を着せるなんて親の手落ちだと、エレナは感じた。もしもあの子がわたしの育った保護施設にいたなら、だれかが気づいただろう。そして居合わせたみんながお節介になって、ゆったりした服に着替えさせたに違いない。
エレナは思った。可哀想に、あの子があんなに不機嫌で怒っているのは、きっとあのシャボン玉模様のワンピースが、窮屈で苦しいからなのだ。
そう思えば、子どもの猛々しいむっつり顔が、泣きべそをかいたようにも見えてきて、エレナは少し柔らかな気持ちになれた。しかし、子どもは相変わらず険しい目つきでホンダCR―Vとエレナを、交互に睨みつけている。
「あのね。わたしになんか、用があるの?」
ウィンドウを下げて顔を突き出し、エレナは精一杯明るくやさしい声で問いかけた。すると子どもは、険しく厳しく咎める口調で言ってのけた。
「おてらさんのくるまにのってる」
あんたが乗ってるなんてヘンじゃないかと、詰めよる調子だった。恐ろしく生意気な言い草だが、そこはひとまず脇においてエレナは色めき立った。
「そうなの、これはお寺さんのクルマだよ。お寺さんに頼まれたから、壊れたところを直して、走れるようにして、届けにきたの。お寺さんっていうのは、ここのお寺のお坊さんのことだよね?」
「ここしかないよ、おてらなんて。Т町にもB町にもないからね、みんな、ここにくるんだよ」
「みんなって?」
「死んだ人、みんな。くるまのこわれたところ、おねえさんがなおしたの?」
「あたしじゃなくて。ウチの会社にいる直す係の人たちだよ。その人たちがみんなで頑張って、きちんと直してくれたから、古いクルマだけど新しくなったみたいに見えるでしょ?」
「うん。とまりそうなおとしないし、ピカピカになったし。おんなじいろとカタチだけど、べつのクルマかとおもった」
「でしょ?ねえ、ここのお寺のお坊さんを、知ってるんだよね?」
「みればわかる」
「お坊さんって、どんな人?」
子どもはそこで初めて、困ったように首を傾げた。
「だから。おてらさんだよ」
「そっか。じゃ、もしかして、そのお寺さんがいまどこにいるか、知ってる?」
「しってる」
顧客から預かっているクルマに、通りすがりの見知らぬ子どもを乗せていいものか、エレナはためらいを覚えたが、ほかに選択肢はなかった。なにしろ、子どもがあっちと指さしたB町方向に、目印となりそうな建物はやはりなにひとつ、見当たらないのだ。
家屋が見当たらないのは、この辺りも同じだった。バス停と往生寺を別にすれば、家らしい建物はずいぶん遠くに散らばって見えるだけだ。小さな子どもに一人歩きをさせて、なんら懸念のない距離ではなかった。
案の定、おうちはどこかと子どもに尋ねれば、あっちの方と、曖昧に山裾の方角を指さすばかりだ。時間は刻々と無情に過ぎてゆく。エレナは切羽詰まって自問した。いま優先すべきはなによりも、往生寺の住職を見つけることじゃないのか?そうすればこの子が、どこのだれの子どもなのかも、自ずとわかるだろう。
できれば、ホンダCR―Vの磨き抜かれたシルバーの輝きがくすんでしまわぬうちに、持ち主の住職に引き渡したかった。そうすれば、決して少なくはない請求書の代金でも、全額スムースに払ってもらえそうな気がするから。そうして取り戻したフリードに乗り、晴れやかな気分で帰路につきたい。
そのために、こうして往生寺の住職を探している。どうやら、住職を見つけるにはこの子どもの手を、借りるほかはなさそうだった。
腹をくくって助手席に子どもを乗せ、スタートしたエレナだったが、まもなく拍子抜けするほどあっさりと、問題解決の端緒を見出した。国道237号線が急勾配の上り坂の頂点にさしかかったところで、左側の駐車スペースに止まっている黒いフリードを見つけたのだ。あっと叫んで二度見し、急ハンドルを左に切った。今度は間に合い、ぎりぎりのタイミングで同じ駐車スペースに滑り込んだ。
二台分のスペースを使って斜めに止まっている、ホコリまみれの黒いフリードの横に、シルバーに輝くホンダCR―Vをきちんと真っ直ぐに置いた。すると、社有車であるフリードの傍若無人で無作法な止め方が際立ち、だれが見咎めたわけでもないのに、エレナは気恥ずかしくなった。そして、このようなフリードの扱われ方から察するに、往生寺の住職はなかなか手ごわい人物らしいと身構えた。
心して対峙すべきその相手は、すぐそこにいた。駐車スペースにして三台分ほど先、農産物直売所のテントの中だ。作務衣と草履姿の初老の男は見紛いようもなく、往生寺の住職に違いなかった。しかも住職の目は、駐車スペースに入るホンダCR―Vを追っていた。当然、自分のクルマが戻って来たことに気づいたはずだが、フロントガラス越しのエレナの目礼に、反応は皆無だった。
はじめエレナは、住職が経を読んでいるのかと思った。その口元が単調なリズムを刻んで淀みなく休みもなく、動き続けていたからだ。じきに、読経ではないことがわかった。住職はテントの奥にいるもう一人の人物に、語りかけているのだった。
その人は、淡い色合いのスカーフがついた日除け帽子と、同系色の作業服に身を包んだ女性だった。年齢は見当もつかない。大きなスイカを持ち上げたときの動作は、力強いがどこか気だるそうで、四十歳以上のいくつでもあり得ると見えた。七十歳でも、八十歳でもアリだ。
年齢不詳の女性は重そうなスイカを一個ずつ、木箱から取り出してはヨイショとばかりに持ち上げ、陳列台に並べていた。往生寺の住職はその女性の背中にぴたりと張りつき、お題目を唱えるように耳元で語りかけている。しかし、重そうなスイカを持ち上げる手伝いをしようとは一切せず、その両手は後ろ手に組まれたままだった。
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