第2話 やだ、やっぱり

 やだ。やっぱり。

 イヤな予感が的中した。ついさっき味わった転落の恐怖が蘇り、身がすくんだ。広がる青田を大きな水面と見なせば、それはさしずめ、岸から突き出てポコンと浮かんだ小さな出島のようだった。その小さな出島の上に、往生寺らしき建物があった。出島の形状とたたずまいから察するに、何枚かの田んぼを埋め立て、土を盛り上げて固め、造られた土地のようだった。


 その出島は青田の一部として風景に馴染んでいながら、同時に、ただならぬ違和感を放っていた。なぜなら、田んぼの水面より高過ぎる位置にあったからだ。盛り土が過剰に行われたのか、それとも長い年月の間に田んぼの土壌の方が流され、より低くなってしまったのか。いずれにせよ往生寺は、青田の水面からポコンと高く突き出し、浮かんでいる出島の上にあった。


 ゆえに当然のこと、ポコンと浮かんだ出島と国道237号線を繋いでいる脇道の高さもまた、半端じゃなかった。田んぼの中のあぜ道の一本に土を被せて固め、また被せて固め、人やクルマが通れるようにした脇道らしいが、それにしても、その幅はやけに狭かった。エレナの目には、どうしようもなく狭く、危なっかしく見えた。


 ひとつ大きく息をつき、そろそろと近づいて路肩に寄せ、脇道の延長線上に初代ホンダCR―Vを止めた。もうそれだけで、車体が幾分か左に傾いた気がした。まっすぐの位置から見ても、やはりその脇道は狭かった。どうしようもなく、狭く見えた。


 ふっと思いついたエレナは、バインダーの中から1995年製の初代ホンダCR―Vの仕様書を引っ張り出し、手早くめくった。見つけたページには、全長4.47メートル、車高1.675メートル、そして車幅は1.75メートル、と記されてあった。


 いま直面している大問題は、往生寺へ行くために通るべき脇道の幅が、1.75メートルもないように見えることだった。それにしても、家であり職場でもある建物に通じるたった一本きりの脇道の幅が、長年所有してきたマイカーの車幅より狭いなんて、そんなバカなことがあるだろうか?


 あるわけないでしょ。

 自分を鼓舞するようにつぶやいてみたが、ちっとも腑に落ちてはこなかった。どうしても、エレナには信じられない。どんな人物か知らないが往生寺の住職は、かれこれ27年もの長きにわたってこのシルバーに輝く初代ホンダCR―Vを所有し、乗りこなしてきたのだ。控えめに言っても数えきれないほど、この脇道を行き来したに違いない。こんなに高さがあって幅は足りないけど。どうしてだか、どうにかして、落ちたりはしないで。


 そこで、ふと、ひらめいた。もしや、ここではないどこか別の場所に、初代ホンダCR―Vのための駐車スペースがあるのではないか。それならば、この狭い脇道は通らずに済む。まともな頭の持ち主なら、きっとそうするだろう。エレナは思った。わたしだったらそうするわよ、絶対に。


 往生寺の住職はきっと、外出するたびこの脇道を徒歩で通るのだ。そうすれば何の問題もない。そして愛車であるこの初代ホンダCR―Vは、そう遠くない場所に仕舞ってあったはずだ。だから、そう遠くないところにきっとあるだろう、納屋か小屋か空き家の類を探してみれば。


 エレナはウィンドウを全開にして目を凝らし、ポコンと浮かんだ出島の上に建つ往生寺の周囲を、念入りに見回した。一巡しただけで結果はすでに明らかだったが、もう一度見回さずにはいられなかった。ほとんど、やけくそ気分だった。


 周辺にはもちろん、納屋も小屋も空き家の類もなにひとつ、ありはしなかった。木陰も、なんでもないただの駐車スペースさえもない。例外はただ一か所だけ、ポコンと浮かんだ出島の上に建つ往生寺の正面の車寄せに、うまく詰めれば六台くらい、並べて駐車出来そうなスペースがあるきりだった。


 整備主任から預かった書類をめくり、エレナは往生寺の電話番号を探した。そして長い局番のついた固定電話の番号を見つけ出し、三回暗唱してから慎重に自分の携帯電話に打ち込んだ。

 十七回もコールして待ったが、往生寺は応答しなかった。エレナは困り果て、時刻が正午を過ぎていることを確かめて苛立った。落ち着かなくちゃと思いつつ、心は千々に乱れて考えあぐねた。


 それにしても、青田の水面にポコンと浮かんだ出島の上に建つ往生寺の外観は、寺らしい風情というものが甚だ乏しかった。寺であると知った上でよくよく見れば、そこでようやく、切り妻屋根の裾がいくらか反り返り、古ぼけた木材の外壁も一般の住宅とは異質であることに気づくのだ。


 でも、それだけだった。寺らしい風情の乏しい外観の往生寺は、正面の入り口も側面の窓もぴしゃりと閉じられて、訪れようとする者の気を挫いた。

 少なくとも、エレナは挫かれた。自他共に認める新進気鋭の営業部員である筈の自分が、どうしてだか気乗りせず、こうしてうじうじと迷っている。



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