走り出すもう一枚の絵

千田右永

第1話 エレナの細き道

 往生寺を目指して、エレナは国道237号線を東へ走る。ほとんど闇雲に、ひたすら走り続けている。2022年、初夏のことだった。

 なにしろ乗っているクルマが、1995年に発売された初代のホンダCR―Vだった。磨き抜かれたシルバーの箱型ボディはまだ充分に光り輝いていたが、ナビゲーションシステムなどという装備は、もちろんついていなかった。

 だからといって従来の道路マップも、さっぱりあてにはならない。なぜなら地図上のだだっ広い田園地帯には、目印になりそうな建築物がひとつもないからだ。まったくもって見事に何ひとつ、載っていないのだった。


 見渡すかぎり平たい田んぼが広がるただ中を、国道237号線でТ町からB町へ向かって走る。するとだいたい中間あたりで、右側に寺っぽい建物が見えてくる。それが往生寺だと聞かされた。行ってみればすぐにわかると。

 そこまでの距離や所要時間がどれくらいとは、全く聞かされなかった。おそらく整備主任も知らないのだろう。手渡された書類上、往生寺の住所は詳しく枝番まで記されていたが、そんなものは何の役にも立たないのだった。


 1995年製の初代ホンダCR―Vに抜かりなく完璧な整備を施し、無事に車検を通すまでには、少なからぬ時間と手間がかかった。国内に在庫がなかった部品は、近隣諸外国の代理店に問い合わせ、やっと調達できたのだ。整備主任はもっぱらその点にばかり、力を込めて強調した。

 たしかに、エレナに委ねられた請求書の金額が、整備チームの労苦と仕事量の多さを物語っていた。なかなかの金額ではあったが、営業部員として新品の高級車も扱うエレナにとって、決して魂消るほどの数字ではなかった。


 新入りではあったが、これまでに二台の高級車を売上げた。初めて出会った富裕な顧客との取引で目にした数字には、たしかに魂消た。ゆめゆめ読み違うまいと、こっそり指さし確認しながら、何度も繰り返しケタを数えたものだった。

 二度目にはいくらか慣れて、指さし確認ナシの黙読でも正しくケタを読めるようになった。いずれもエレナの日常では見たこともない金額だったが、富裕な顧客たちは速やかに且つスマートに、会社の口座に振り込んでくれた。なんの問題もなかった。


 だから請求すべき修理代金として、六ケタの数字が記された書類を渡されたときも、エレナはまだ落ち着き払っていられた。それが1995年製の初代ホンダCR―Vの修理代金と知ったときは、いささかの違和感を覚えて戸惑った。なんといっても、推定2001年生まれの自分よりも年上なのだ。そんなクルマが現役で公道を走っているなんてこと自体が、信じられなかった。


 動揺したエレナに、整備主任はさらなるダメ押しを加えた。修理代金を、できればなるべくぜひとも、現金でもらってこいと。そして代車のフリードを回収し、代金全額と完璧な書類を積んで無事に持ち帰る。それが、エレナに課された今日の仕事であり、わだかまる不本意の大本だった。


 たったひとりの長いドライブで未知の集落へ出向き、初対面の顧客を探し当て、数十万円の現金を受け取ってクルマを交換し、再び長いドライブで就業時間内に帰着する。果たしてスムーズに事が運ぶだろうか。考えるほど、どこかでなにか、まずいことが起こりそうな気がしてならなかった。

 


 けれども1995年製の初代ホンダCR―Vは、思いがけなく軽快に走った。気落ちして腐り気味だったエレナの気分を、徐々に引っぱり上げてくれた。気の重かった長距離ドライブが、解放感に浸れるひと時に変わっていった。


 国道237号の沿線には、どこにでもありそうな田舎の風景が延々と続いていた。どこにでも、といっても自分は、街から東の方向へこんなに遠く離れたことが、かつてなかったのだと気づいた。エレナの育った保護施設は街の西側にあり、生活圏全体がほぼ西寄りだったのだ。


 なのに、なんか懐かしい感じがする。

もしかすると、自分が保護施設より以前に馴染んでいた場所にも、こんな風景があったのかもしれない。どこにでもありそうな田園地帯の風景だからこそ、ニッポン国で生まれた者でなくても、等しく心惹かれるのだろうか。


 エレナは幼い頃の切れ切れな記憶をたどるべく、心を凝らした。こんな風景、広々とした田園地帯、どこまでも果てしなく続いていきそうな、ゆるゆると曲がりくねった、細く長い道路。ゆるゆると。


 それは、いきなり現れた。

 まるでエレナが、長いドライブに倦み飽きてもの思いに耽る頃合いを、見計らったようだった。国道237号の沿線はただひたすら田んぼが続き、遠く山裾に沿ってぽつりぽつりと民家が点在するほかは何もない、退屈な風景だったのに。

 その建物は右前方に忽然と現れ、あれよと言う間に流れ去った。すっかり油断していたエレナは、不意を突かれて反応が遅れた。通り過ぎてしまってから、あっと叫んだが後の祭りだった。


 いつの間にか100キロ近いスピードが出ていた。あまりにもスムースに加速するので、このホンダCR―Vが1995年製だからと危ぶんだことを、すっかり忘れて飛ばしていた。エレナは慌てて減速し、バス停のスペースを使ってUターンを試みた。

 ふだん乗っているフィットに比べたら、ホンダCR―Vのタイヤは大きい。そのせいか、はたまた単にスピードが出過ぎていたせいか、左の前輪が一瞬、国道の路肩から外れそうになった。初代ホンダCR―Vの箱型ボディがぐらりと傾き、エレナの背筋を凍らせた。


 やだ。落ちる?

 エレナはつぶやきながらも咄嗟に、全身全霊を総動員して自分と車体を右へ傾けた。1995年製の初代ホンダCR―Vは仕方なさそうに、ゆらりとアスファルトの車道に戻った。エレナの世界は辛うじて、安泰に繋ぎ止められた。まさしく、ぎりぎりの瀬戸際だった。


 もしここで、このクルマを田んぼの中に落っことしたりしたら。エレナは改めてゾッとする。自分はなにもかも失う破目になっただろう、仕事もなけなしの貯金も築きかけた信用も、なにもかもを。


 とりあえず、当座のピンチは回避できた。エレナは法定速度の時速40キロを遵守し、歩くようにのろのろと国道237号線を戻った。するとまもなく、今度は左側の風景の中にそれが見えてきた。


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