Lv.3 逃走用煙幕(前)

 魔物が襲ってくるかもしれない、という不安。

 自分が、家族が、友人が、痛めつけられるかもしれない、という恐怖。

 時には、そういったものに打ちのめされそうになることもありますが。

 それでも立ち向かい、希望を見出そうとする人達がいます。

 懸命に明日を迎えようとする姿が、眩しく見えるのです。


「今日も偵察隊が逃げ帰ってきたらしいな。良いぞ。もっと長引かせろ」


 人類の最大の敵は、うちの社長かもしれません。


 ◆◆◆


 魔王が現れたという情報が流れてから、数日。戦況としては、あまり好ましくないようです。

 というのも、お城から何度も送られている偵察隊が、どの隊もすぐに逃げ帰ってくるというのです。彼等は口々に、こう言うそうです。

 相手が悪すぎる、と。


「相手が悪すぎる、とは、どういうことなんでしょう?」


 ついさっき、ルルカさんから聞いた噂話を、隣りで歩くシド様に振ってみます。シド様は左手に荷物を抱えながら、眉を寄せました。


「そのまんまの意味じゃねーのか? 強いんだろ? 魔王だし」


「まあ、そうなんでしょうけど。帰ってくる人達、傷をほとんど負ってないっていうんですよ?」


 もっと言うと、傷を負ったほとんどの原因は、直接魔王にあるとは言えません。慌てた拍子に転んだだとか、落馬しただとか、そんなのばかりなんです。まあ、あくまで噂話なんですけど。


「だが、あくまで偵察だからな。報告するのが義務だ。死んだら、元も子もない。無事に帰ってきて良かったじゃねえか」


「まあ、その通りなんですけどね」


 冗談を言わない時のシド様は、まともなんですよね。出会った時も、変に和ませようとおかしなことを言わなければ、今頃、シド『様』とは呼んでいなかったんですけどね。

 つい、ジト目でシド様を見てしまいました。


「な、なんだよ?」


「べつに」


 今頃、シド『さん』と呼んでいたのかな、と思ったら、なんか、ちょっと寂しいかな、とか。思っちゃっただけです。なんだかんだ言って、シド様と組んで行動することが多いので、他の人とは違うかな、とか思ったり。


「そ、そんなことより。育つと良いですね、それ」


「ん? ああ、これな」


 シド様は、持っていた紙袋を見下ろすと、ほほ笑みました。


「そうだな。せっかく魔物を倒して、持って帰ってきたんだし」


 あたしとシド様は今、第1号栽培場へと向かっています。目的は、一昨日採取した種を栽培してもらえるよう頼むこと。本当だったらマキナさんが適任なんですけど、それどころじゃないっていうか。色々と忙しそうなので。

 栽培が成功すれば、乱獲を防ぎ、安定供給に繋がります。工房から離れた所へ採取に行く回数も減らすことができます。それは、マキナさんの負担を減らすことにも繋がるはずです。

 トッテンカン工房が抱える栽培場は、あたし達が到着した所を含めて5カ所あります。中でも、ここ第1号栽培場は最大の広さがあり、通常の畑の他に、沼地や川もあるんです。

 責任者のレテンさんは、薬草の植え替えをしている最中でした。レテンさんの説明を聞きながら、作業が終わるまで待ちます。ちなみに、今植え替えをしている薬草は、腹痛に効くんだそうです。


「なるほど。こいつを育てれば良いんだね?」


 作業が終わったレテンさんは、すぐにあたし達の要件を聞いてくれました。何度も素材を取りに来ているので、顔見知りなんです。


「ふむふむ。発芽さえしてしまえば、そう難しくはないかな」


 マキナさんが書いてくれた説明書を読みながら、レテンさんは何度も頷いています。


「よし、分かった。さっそく栽培してみよう」


「ありがとうございます」


「ところで、せっかく来たんだ。良かったら、携帯食の試食をしていかないか?」


「携帯食?」


「ああ。元々、旅人用に開発してたんだけど、魔王が現れただろう? これから更に需要があるかと思って、力を入れてみることにしたんだ」


 危機的状況に陥ると、停滞するものもあれば、急速に発展するものもあるみたいです。あたしとシド様は栽培場事務所の一画を借りて、試食させてもらうことにしました。

 携帯食は、水やお湯を入れてスープにするもの、食材を練り込んで団子状にしたものなど様々です。


「うん、うまいな。俺は、こっちが好みだ」


「あたしは、こっちのお団子です。甘いのは、子供受けすると思いますよ」


「うんうん。やっぱり、味は何種類か用意しておいた方が良いよね」


 これから増える需要には、冒険者はもちろんのこと逃亡者も含まれているみたいです。逃げた先で、おいしいものが食べられたら希望が持てますもんね。


「でも、正直な話、栽培場にいると、あまり魔王が現れたって実感が湧かないんだけど。外は、どう?」


「割と、まずい状況だと思います。一昨日、魔物の巣よりかなり手前で魔物と遭遇しました」


 あたしの発言に、レテンさんの眉が寄りました。


「確かに。それは、まずいね」


「なあ、レテンさん。魔物は出ないんだろうが、他に変わったこととかねえのか?」


「変わったこと、ねえ。うーん、そういえば。虫が増えたかな」


「虫?」


 怪訝な顔をするシド様に、レテンさんは頷きます。


「明らかに、増えてる。益虫、害虫に関わらずね。黒い霧が東に立ち込めてる関係で、気候がおかしくなってきているのかもしれない」


「それは、由々しき事態ですね」


 まさか魔王登場が、そんなところにまで影響してくるだなんて。


「虫だらけの世の中だなんて、そんなの嫌です」


「あ、そっちか」


 虫以外に、何があるというんでしょう?

 首を傾げると、シド様に呆れた目を向けられました。


「おまえ、山育ちじゃないのか?」


「山で育ったからこそ、嫌いになるものもあるんですよ」


 思い出しただけで、鳥肌が立つってもんです。


「想像してみてください。朝、目が覚めると、自分の顔にこんな大きい蜘蛛が這っていた」


 こんな、と片手をめいっぱい広げます。途端に、シド様の顔が青ざめました。


「すまん。悪かった」


「分かれば、いいんです」


 すっかり寒くなってしまいました。あたしとシド様は、腕を擦りながら本社へと戻りました。

 ところが、素材班は素材班で、ちっとも良い空気じゃなかったんです。

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