第二話 ②
儒教文化が華東国より伝わり、それが秋津人の基本的倫理の素養として定着してから一千年近くの時が流れている。
庶民達の根底には、過剰な富の蓄積という行為は、明確な罪に問われはせずとも、その儒教的倫理によって例外なく悪であると断定されてきた歴史がこの秋津にはある。
秋津からミナホという国になって、変化したのは政治形態や社会制度だけではなかった。それは、長らく信仰されてきた秋津的倫理観の棄却も含まれていた。
財を成す。その言葉は、近年の若者達の間で流行している言葉であり、肯定的に捉えられる熱情の捌け口でもあった。
士族の下に平民が存在するのだという明確な身分制度の撤廃は、そういう成り上がりを助長しているようにも思える。
ミナホという国にも貴族制度があるにはあるが、士族と違い、財産と実績が備わっていれば、その身体に流れる血に貴賎はなく、貴族として認められることもできた。即ち、貴族院の議員として、国政に関わることも出来るのである。
ミナホという国においては、財力を持つことが権力を持つということに繋がっている。
そういう成功を夢見て地方から東都に上り、一山当てようという若者は後をたたない。彼らが目標にしているのは、一人の例外もなく、五年前に貴族権利を与えられ、貴族院議員として今では政治の世界で活躍している、
内乱によって混乱を極めていた十五年前に、一人国外へと抜け出し、住み着いたフランク王国商人との繋がりを利用して戦後は貿易商、鉄工業、銀行業で財を成したミナホ国随一の資本家だ。
その江月正造が脂ぎった顔に深い皺を刻む笑顔を浮かべて、俺を迎え入れた。
江月東都貿易社の社長室には、輸入家具の皮張りのソファーが二つ置かれていて、俺と江月氏は対面に座っていた。
「それで、何故俺を?」
朝一番に日下課長に呼び出された俺は、ミナホ経済界の中心人物でもある江月氏から名指しで呼び出しがあるという事を伝えられた。
日下課長は胡乱な眼差しで俺に何をやらかしたのか訊いてきたが、心当たりが無いので素直にそう答えたが、いまいち信じていなさそうだった。
「とにかく、江月氏と言えば今やミナホの経済界を先導する重鎮だ。くれぐれも粗相のないようにな」
そんな言葉で送り出された俺は少々不安になりながらも、白坂の社屋を訪れていた。
「優秀な警吏だと聞いてね。是非お話をしたいと」
「はぁ……。それなら俺じゃなくても、他にも優秀なのはいますよ」
「そんな事はないさ。昨年の
さて、誰から聞いたのか。俺は、そのなんて事ない会話の導入に警戒を強める。
本来、事件の捜査内容や経緯というものは、外部に広まる余地はないのだ。口外が禁止されているという訳ではないが、それを知るという事は偶然では片付けられない。何らかの確たる意図を持って探る必要があるという訳だ。
「俺一人の手柄という訳でもありませんよ。警吏は組織で動いてますから」
「それで聞きたいことというのは、君が担当していたとある事件の進捗のことでね。半井のお嬢さん……確か泰葉、と言ったかな?彼女の失踪事件について、何か分かったことがあるのなら是非窺いたいものだ」
俺は僅かに指先を動かしたのみに止める。
どういう意図で訊ねているのか分からない以上、江月氏に余計な情報を与える訳にはいかない。迂闊に妙な反応をすると、俺の立場が不利になる可能性だってある。
「いえ、俺の力不足で今のところは殆ど何も。半年前の11月4日の深夜、恐らくは彼女自身の意図で半井邸を出奔。その後の足取りは掴めてないですが、付き合いのあった友人、親族の類が彼女を匿っているという事はないようです」
基本的な情報を口にしてみる。江月氏の表情を窺うが、眉一つ動かすことはなかった。
「誘拐という線は?」
「失踪当時、彼女の部屋の窓が開けられておりましたが、内鍵をキチンと内側から開けています。少なくとも、部屋から出たのは自らの意思という事になるでしょう」
「ふむ……。成る程な」
「失礼ですが、何故江月氏は彼女の事件を?」
「……人を探しているのだよ。昔馴染みをな。偶々、調べ物で古い新聞を眺めていた時、探し人に似た風貌の男が幼い泰葉嬢の後ろに控えている写真を載せた記事を目にした。それだけだよ」
それならば、半井家に問い合わせたほうが早いのではないだろうか、という言葉を俺は飲み込んだ。
江月氏であれば、半井家から邪険に扱われるような立場では無いのだろう。それを踏まえても、直接問い質すことの出来ない理由があるのだろうか。
「これは、秘書に調べさせた記録だ」
見ると、数字と年月日が無造作に並んでいる。
「これは?」
「君は星島という小さな陸繋島を知っているかな」
「ええ……。二十年前の華東国との戦後、相互不可侵条約を締結した際にアメリア国に割譲された治外法権の土地ですよね。今現在は、アメリアだけではなく、列強諸国の外交館が乱立している……」
華東国との相互不可侵条約は、当時の秋津にとって唯一の落とし所であった。欧州北部に存在する、ミナホ同様の島国であるアメリア連邦を頼って仲裁してもらった形になってはいるが、それを提案したのは何よりアメリア連邦の方であり、同時に華東国に大量の武器を輸出し侵略を唆したのもアメリア連邦であった。
つまり当時の秋津は、アメリア連邦の描いたシナリオを早める事でしか、生き延びる方法はなかったのである。
(確か江月氏は、その当時から単身アメリアに渡っていたと聞くが……)
噂によると当時の秋津政府に秘密裏に戦費調達員として派遣されていたとも言われている。
「毎年数十人のミナホ人が、この星島で外国人と揉め事を起こし、ミナホではなく、アメリアの法律によって裁かれているというのも知っているね?」
「ええ、今まさに治外法権の撤廃を求めて、第三次藤代政権が派遣した使節団が今朝出発したと新聞で見ましたよ」
「そこで裁かれたミナホ人は、どうなっているか知っているかい?」
「アメリア本国の刑務所に移送されると…、そう新聞で見ておりますが」
矢継ぎ早の問い掛けに、俺はそれの何が関係しているのか考えあぐねていた。
どこかで繋がっているのだけの、別の話なのか。
「彼らは裏で国外向けの奴隷商品として売られているのさ。いや、そういう予定だったというべきかな」
「……まさか、そんなことを……」
しかし、確かに考えてみれば、わざわざ地球の裏側まで罪人を運搬する必要性は殆どない。無駄な費用が嵩むだけだ。
「これは一部の政治家しか知らぬ事実だがね。ミナホ人の奴隷は、一人残らず半井家が買い漁っているという話を聞いた。これは、私と付き合いのあるアメリア連邦の外交官から聞いた話だ。これが、同郷人を救うための保釈金代わりというのならば、涙を誘う話なんだが、半井が買い取った奴隷は、一人としてその後の足取りを追えていないんだよ。この数字は、半井家が購入した総人数なんだが、半年前まで一人も漏らさず合計百二十七人ものミナホ人を購入した後、どこかへ隠してしまった」
思わず、笑みが溢れそうになる。不謹慎かもしれないが、そんな笑みが抑えられない。
何故なら、俺がこれまで半井家を独自の調査で調べてもなお、怪しい部分は無かったのだ。だからこそ、半井泰葉の失踪事件は何かの手掛かりになると思った。
しかし、江月氏から齎された情報は失踪事件の比ではない。清廉潔白に見えた半井家には、やはり何か秘密があるのだという何よりの証拠なのだから。
その動きを掴めば、俺の生まれ育った小さな村が一夜にして消失した理由が判明するかもしれない。
そう思うと、鼓動が速くなる。
「そして、その購入は半年前を境にプツリと止まった。半年前、そう全てが半年前なのだよ、瀬尾君。半井泰葉が出奔したのも、半井家が奴隷を買うのもやめたのも、そして世間を賑わせているカーミラ事件が始まったのも。これは、ただの偶然だと、君は思うかね」
「……何か、それら全てが一つに繋がっている、と?」
「少しだけ時期はズレるが、私の探している人物、春馬黒澄が彼女の付き人を辞めて姿を眩ませたのも、約半年前だ」
春馬黒澄。
これが、柳井の言っていた、女学院で噂になっていた従者の名前か。そんなことを思ってはいたが、そんな思考とは別の部分の領域で何かが引っかかっていた。
何か、幼い頃に聞いた名前のような。
そんな気がしてならなかった。
【一旦休止中】狂人時代 カエデ渚 @kasa6264
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