第一話③
何かが、壊れている気がした。
それを直そうとあれこれ手を尽くすが、それは癒えるどころか触れれば触れる程に崩れていく。
なんとなく。
根拠なんて何一つないが、なんとなく、それは心なのだと思った。
私の心が壊れかけている。
抗えば抗う程に、腐食していく。
蒼茫たる砂漠の中に溶け込んでいく様な身体の感触と、触れれば壊れてしまいそうな心。
それら二つが、私を焦燥させるが、何も出来ることはなかった。
--責務。
その言葉だけが煉瓦にこびり付いた焦げ跡のように、私の身体と心の形を覚えている。それだけが、怖いくらいに、私の側に寄り添っていた。
真白い部屋だった。
そういう風に作られたのではなく、そういう風に作り直したのだと分かってしまう様な、後付けの人為的な意図を感じる部屋だ。
何故ここにいるのだろう。ここはどこなのだろう。
そういう疑問が浮かんできてはいるが、頭は上手く働かない。
寝起きだから思い出せないだけで、それなりの理由があるのだろうという、楽観的な推測だけはしっかりしていたが、それでもやはり意識がはっきりとしてくると、その理由を思い出せない恐怖が漣のように押し寄せてくる。
「あのー誰かいませんか」
声を上げてみる。
寝台で寝ていたようだ。部屋の壁と同じように真白い掛け布団が私の上に覆い被さっていて、それを退けると、長襦袢を着ていることに気づく。
これではまるで病人のようではないか。知らぬ間に、大病でも患って入院でもしていたのか。
「まぁ。病気に違いないが、身体は健康体だ」
思わぬ所から声がした。
私の思考を読んだかのような返答が、私の真横から聞こえてきた。
慌てて上体を起こすと、着物姿の小柄な女性が同じ寝台で横になっていた。
「……ええと、貴女は?」
「お主が呼んだのであろう?私のことを」
何が面白いのか、ほくそ笑みながら女性は寝台から下りてこちらを見た。
かなり背の低い女性だ。顔立ちや背丈だけ見ると童女のように見える。
だが不思議と、彼女は私なんかよりもずっと歳を重ねているような、説明し難い何かを纏っている。雰囲気としか言いようはないが、しかし、雰囲気とも違う。
「ここはどこなのですか?私は一体……」
女性は、短く答えた。
彼女は私を試すように見ている。いや、ただ私の反応を面白がっているだけなのだろうか。
「狗州……。東都に居たはずなのに、何故そんな……?」
「なに、よくある話だ。特にお主のような、貴族階級には特に病理詐称として馴染み深いものだ」
「病理詐称……?」
「後継者争い、家督争い、相続争い。人間という種の闘争本能が歪に捻じ曲がって起こる貴族連中の悪癖とも言うべき彼らの争いで、時折り行われる一つの手段だよ。精神が壊れていると、そういう診断書をでっち上げて、対立者を無理矢理療養施設に監禁する。そしてそれは、庶民の間ですら実しやかに囁かれる噂の一つとして流布する程度には、手垢のついた古臭い手段とも言える」
「それは……確かに良くある話だと、父からは聞かされています」
「
女性は懐かしむように目を細めた。何者かは知らないが、取り敢えず見た目通りの年齢ではないらしい。父と知り合いというのも、なんとなく頷けるような自然さが言葉の中には含まれていた。
「それで、あの……、私は気が触れてしまったのでしょうか。いえ、もしかして、何者かに陥れられてここに……?」
そう思うが、不可思議な記憶の途切れというのは、腑に落ちない。ということは、やはり私は狂ってしまっていて、今は束の間に正気を取り戻しているだけなのか。
「それはもう、お手本のような発狂ぶりだったそうだ。奇声を発し、喉頸を自分で掻き毟り、
「私が……そんなこと?では、今の私は治っているのですか?それとも、一時的なもの?」
「或いは、今もまだ発狂しているのやも知れないな。お主の見ている私は幻で、狂った中でしか見れない人物で、お主はいまだに狂ったままなのかもしれない。正常に思考能力が働いているとは思えど、それ事態が狂った思考とも思えずに、狂った世界を狂っているとも思えずに、な」
それはとても怖い話ではないだろうか。この双眸が、いや、私が外界と繋がれる数少ない器官の悉くが、全く意味の無さないものと成り果てているのならば。そしてそれに異常さを見出せないのは。
私とはなんなのだろうか、とすら思ってしまう。正常な世界との繋がりを断たれてしまうと、自分の存在すらも不確かなものになってしまう。そんな気さえしてしまうのだ。
「ふふふ……、いや済まない、ただの冗談だよ。お主が恐怖に顔を歪めているところを見たくてな。しかし、実際に狂っていたのは確かだ。篁の娘が入院して、私の名前を叫んでいると聞いてない態々ここまで足を運んだのさ」
「私が……?」
私はこの女性の名前すら知らないというのに、それはどういうことだろうか。
「幸い、私に治せる症状で良かったよ。貴族共……昔は士族なんて呼ばれていた連中が秘密裏に受け継いできた毒の解毒薬の作り方くらいは熟知しているからな」
「なんでお礼を言って良いのか……。あの、貴女は一体…」
「ん、そういえば名乗っていなかったか。私は村雲霧香。聞き覚えは?」
霧香さんは水差しから湯飲みに水を注ぎながら言う。注がれていく水を見て、喉が渇いていることに気づいた。
「いえ……無いと思います」
「そうか。逍遥からは何も聞かされていないか。では、蜘蛛御前なら、聞いたことくらいはあるだろう?」
聞いたことがある、そんな程度では済まされない名前だ。
かつての国粋派の棟梁。
その正体を誰も知らないと言われる、この国の女傑。
そして……
「貴女が、ミナホ国創設の仕掛人……」
十五年前。
秋津という国を根底から変えてしまった張本人が、私の目の前にいた。
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