第一話①


 長ければひと月。短いとほんの数時間程度。

 それが泰葉様の殺人衝動を抑えられる期間だ。一言でいえば発作的で、一度誰かを殺したとしても、それは一時的なものに過ぎなかった。

 殺人衝動が抑え込めなくなった時の泰葉様は、人を殺す為の能力が異様なまでに増大する。

 その細腕に宿る筈の無い膂力りょりょくを待ち合わせ、人体を素手で引き裂くことなども可能であるし、刃物を手にした時、何処を斬れば死なずに行動を不能にさせるかということも熟知しているようだった。

 泰葉様によれば、その代わりに、この世のものとは思えない激痛があるのだという。人を殺さなければ、その耐え難い苦痛に苛まれ続けるという恐怖が身体を突き動かすのだとも語っていた。

 半井家を飛び出した理由は、知らない。ただ、泰葉様は昔から半井家という存在が、自身をそのような体質にさせたのだと疑っており、一族を恨んですらいた。


「何処かの誰かが人知れず。その血に毒を交ぜました」

 半井家に伝わる秘密の詩。

 滔々とうとうそらんじるだけのその言葉に泰葉様は音を乗せ、今流行りのカフェーで唄われるような、心地良い歌声を響かせている。

「人を一つ、蓋を二つ、蜜を三つ。蠱毒を孕んだ孤独は、爛々と揚々と。鬼を酔わせて、仏はしとねに濡れる。甘露の如きその毒は、半井絶えなば消え失せぬ」

 私以外の誰かを殺した翌朝は、この詩をよく歌う。

 まるで、自身の犯した罪を、遠い先祖に擦りつけるように。私は悪くないと、体に流れる血に入る毒がいけないのだと。

 そう訴えるような響きがある。


「黒澄、洋食が食べたいわ」

 陽気に詩を口ずさんでいた泰葉様は思い出したように言うと、着物の帯を解いた。

「また散財するつもりですか?」

 泰葉様が言う洋食とは、十中八九、最近お気に召されている高級洋食店の料理だ。それもミナホ人が見様見真似で作るものではなく、フランク王国海軍の軍艦で腕を奮っていたという料理長の作る本場のもので、値段も張る。

 貴族や官僚も多く利用している店らしく、数部屋の個室も用意されており、私と泰葉様は何度か利用したことがあった。

「いいじゃない。また神津こうづの洋食屋に行きましょうよ。オムライス、美味しいもの」

 言いながら、手慣れた所作で着ていた着物を脱いでいく。一糸纏わぬ裸体は、凹凸の少ない年相応の身体つきをしている。

「ほら、脱ぎっぱなしにしないで下さい。まったく…」

 私は小言を呟きながら、脱ぎ散らかした着物を拾い集めて畳むと、今度は泰葉様が最近お気に入りの洋服を手に取って着替え始める。

 半井家にいた頃は着物しか許され無かったが、近頃流行の洋装も出来るようになってから泰葉様は外出の際は洋服を着ることが多くなった。

 紫陽花のような紫色の木綿のワンピースを着ていくようだ。こうなったら、神津の洋食屋に行くのを諦めないだろう。私は観念して、共することにした。


 私達の住む仏保ぶつぼうから神津までは、徒歩で十数分の距離になる。とはいえ泰葉様と歩くと、その倍以上の時間が掛かるのは分かりきっていた。

「ねぇ黒澄。あの外套、あなたに似合うんじゃない?」

 学園以外で殆ど外出を許されなかった泰葉様は通り過ぎる景色全てに興味を示す。半井家では半ば軟禁状態であったことを考えると、彼女の生き生きとした姿を見て思う所が無い訳ではないが、それでも数は歩けばすぐに足を止める泰葉様と歩くのは中々面倒くさいというのが率直な感想でもあった。

「これから暑くなりますから、まだいりませんね」

「なによ、私の従者なら少しはお洒落にしてくれてもいいじゃない」

「纏まったお金があれば考えます。さ、行きますよ。半井家に見つかって戻されるのは嫌でしょう?」

 ため息混じりに歩速を強めると、不機嫌そうに泰葉様はついてくる。泰葉様とて、半井家に今更戻るのは嫌なのだろう。


 懐中時計を見ると、結局一時間もかけたようだ。洋食屋につくなり、オムライスを注文した泰葉様は機嫌を直していた。

「やはりこれからは洋食の時代ね。落ち着いたら、エタジーナ合衆国に行きたいわ」

「はいはい。お金が貯まったらそうしましょうか」

「なによ。つれないわね」

 むくれながら言うが、あまり迫力はない。

 オムライスと一緒に出て来た小さいパンに齧り付いた泰葉様がそのパン屑をボロボロと溢すのを見て、私はハンカチで口元を拭いた。

 もしかしたら泰葉様は、自身の体質の秘密を詳らかにする為に半井家を出たのではなく、周囲から押しつけられる上流階級の礼節が嫌になっただけなのではないかと、邪推してしまう。

「折角の良い気分だったのに、まるで教育係ね。欲することを行え。そう教えたのは貴方でしょう?」

「まぁ、お腹が満たされて殺人衝動が薄まれば、私としては文句は無いですけどね」

「あら?黒澄は煙草を吸うのでしょう?」

 突飛な質問に私は虚を突かれたが、素直に頷く。

「なら、分かるでしょう?食後は口が寂しくなるものよ。煙草を吸う人もいれば、コーヒーを飲む人もいるようにね。だから、寧ろ食後はいつも以上に人を殺したくなるのよ」

 だから、と泰葉様は私の首筋に手を伸ばした。

 食指が伸びるなんていう慣用句そのものだな、なんてくだらないことを考えながら、ぎりぎりと首を絞める泰葉様の指の力はものの数秒で緩んだ。

「昨日殺したばかりですから。発作はまだでしょう?」

「貴方が下らないことを考えているから、やめたのよ」

 テーブル越しに向かいの人の首を絞め始めたのを、周囲の客達が何事かとこちらを見ていたが、すぐに手を離したのを見て戯れていただけだと思い直したようだ。

 流石にこれだけ衆目を集めた状態で、私を殺すのは不味いと、狂人なりに理性が働いたようである。

「おや、上客が来たようね」

 泰葉様は、ウェイターが近づいて来るのを察知すると、そんなことを言って立ち上がった。


 若いウェイターはどうやら地方出身のようで、恭しい言葉で個室へと案内したが、訛りの抜けきっていない敬語が、どこか可愛らしささえ感じた。

 私たちを個室へと招待したのは、山縣容堂やまがたようどうという男だった。

「君は、どこ出身かな?」

「私ですか?福里ふくさとから半年前に上ってきました」

「たった半年だというのに、こんな高級店で給仕しているのか。君は将来大物になるかもなぁ」

 ウェイターの給仕服の手筒に数枚の札束を捻じ込むと、男は顔を赤らめて慌てて一礼してから部屋の外へと出た。部屋に人を近づけるなという、こういった高級店ならではの暗黙の了解なのだろう。

 扉が閉まってから、山縣は煙草に火をつけてから、ゆったりとした口調で話し始めた。

「昨日の分の謝礼金だ」

 数えるまでもなく、二人ならばひと月は楽に暮らせるだけの金額を泰葉様に渡す。

「昨日の男は不味かったわよ」

「すまないな。俺には、人間の上手い不味いは分からんのよ」

 山縣は何が面白いのか、低い声で喉を震わせるような笑い声をあげる。

 それが不快だったようで、泰葉様は札束を私に投げ渡すと、ゆっくりと目を閉じた。

「ほら、黒澄ちゃんも一服していきなよ」

「……」

 差し出された煙草を受け取ると、紫煙を肺に詰め込む。そして煙を吐き出すと、山縣はその様子を見てから、一枚の紙片をテーブルに置いた。

 それは何かの手帳を破いたもので、手書きの文字がびっしり埋まっている。


「お二人に聞きたいんだが、瀬尾棗という警吏を知っているか?」

「警吏?まさか次の標的は警吏だなんて言わないわよね」

「……流石にそんなことをしたら、邏卒局に目ェつけられるからな。そうじゃなくて、コイツはアンタの失踪事件の担当警吏だ」

「半井はまだ諦めてないんですか?」

「というよりも、コイツ個人が半井家に何らかの確執を持っている、と思う。これは俺の個人的な推測だがな。何か思い当たることは?」

「推測……ねぇ。かなえさんからは警吏に潜入していると聞いてるけど、随分とその警吏も板についたのではなくて?」

「その反応じゃ知らないようだな……。これは、そいつの手帳を隙を見て破いて持って来たもんだが、見てみろ」

 私と泰葉様は紙を覗き込む。

 初めは癖のある字体だったので理解が難しかったが、慣れてくると、その手帳の走り書きは私と泰葉様にとって衝撃的なものであった。


「半井泰葉失踪事件について。第三者による誘拐若しくは殺害の可能性は状況的に鑑みて限りなく可能性は低く、自らの意思で出奔したと思われる。半井家の不自然な態度を見るに、半井泰葉は半井家にとって表沙汰になってはいけない何か秘密のようなモノを握っているのでは無いだろうか」


「この警吏さん……相当優秀みたいですね」

「俺が現場報告で虚偽の報告をしたり、証拠隠滅をしたりしてるのに、ここまで的確に推測できているとは、俺も思っていなかったさ」

「……それで、どうしろと?」

 泰葉様は話に飽きてきたのか、生欠伸を噛み締めている。そんな様子を見て、山縣は苦笑する。

「警告だよ。俺も出来るだけ撹乱はしてみるが、多分瀬尾は近い将来、アンタ達まで辿り着くぜ」

「分かりました。肝に銘じておきます」


 瀬尾棗。

 私はその名前をもう一度思い浮かべる。何故だろう、遠い昔に聞いたことがあるような名前な気がする。

 泰葉様の表情を窺うが、恐らく興味すら示していない。豪胆で放埒な人だな、と半ば呆れもするが、それでも何処かで、私の主人らしい頼り甲斐のあるお人だ、とも思う。


 恐らく目の前の山縣には理解できないだろう。

 この華奢な体躯の少女である泰葉様は、私が仕えるに足る唯一の人間であるということを。

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