序章① とある狂人と不死者の話

 私が物心つくころ、私の生まれ育った国の名前が変わった。

 それによって、何が変わったのかは当時の私には理解が出来なかった。

 だが、国の名前が変わるということは、幼かった私には想像もつかない大きな何かが変化したということであり、少なくとも諸国百般の国々の往来が増えただけでも、目に見える変化だったのは確からしい。

 ともあれ、遥か昔、それこそ正確な年代すら定かでは無い神々の時代から呼称され続けていた秋津あきつという国名は、あっけなくミナホという名前に変わってしまった。

 国の名が変わるということの、因果すら理解も私は出来ていなかった。



 例年であればようやく外套がいとうもお役御免となり、穏やかな気候が漫然と心も同様に穏やかにさせる三月下旬。

 その日、ミナホの首都である東都とうとは冷たい雨が街路を濡らしていた。

 雨は好きだと、彼女は唄うように言う。

 傘も雨合羽も無い私と彼女は、灰色の雲から垂れ落ちてくるような雨になす術もなくただその身を濡らすばかりだ。頭上に落ちた雨粒が、彼女の黒い髪を伝い、やがて白い肌の上で一つの玉となって、頬を伝う。

 そんな様子を見るばかりで、私は彼女のその言葉に返事一つ返すことはなかった。

 それを気にする様子は無い。

「雨は血を消してくれるもの」

 私達の足元には一つの死体が転がっている。

 彼女の言う通り首筋から止めどなく流れている赤黒い筈の死体の血は、雨に流され洋酒のような宝石にも似た煌びやかな薄い色に変貌しつつ街路の排水口へと導かれるように消えていく。

「忘却すらも、雨は消すのね」

「死体に流れるのは血ではなく、忘却である。果たしてそんな悲しい言葉、誰が言い出したのやら」

 彼女の言葉遊びにも似た皮肉に、私は呆れるように呟く。

 正確に言うならば、忘却ではなくレテの水と呼ばれる西欧諸国の伝説にある飲むと記憶を失う川の水が流れているというのだが、近年のミナホ国ではそういう言い回しが流行していた。

 これもまた、自由貿易の影響の一つなのだろう。

 若い学生は皆、西洋諸国の学問を学び、文壇の世界においても大陸の名著の訳書ばかりが幅を利かせている。

 私の低い声は、恐らく今の状況に対する不満の色が見え隠れしていた筈だ。

 それが面白くないのか、ふんと目を逸らして彼女は僅かに屈み込んだ。

 足元に転がる死体の首には、鋭利な刃物で削ぎ落とされたかのような痛々しい傷からとめどなく流れている。その血に彼女は躊躇いもせずに舌を這わせた。

「……不味い。流行りの東南諸島産の葉巻を吸ってるのかしら。舌が痺れるように痛いわ、ねえ、黒澄くろすみ

「それはそれは、災難ですね」

「やっぱり、私には貴方の血が一番合うようだわ」

 口元を誰とも分からない男の血で汚した彼女は悪戯っぽく笑う。

 彼女の手には家畜を解体するための大きく無骨な刃物が握られている。

 それを、何の躊躇いもなく彼女は私に向かって振り下ろした。

 鈍痛、そして、温い感覚。

 それらが意味するのは激しい出血を伴う深い傷を負ったということであり、慣れ親しんだ苦痛である。

 そしてその苦痛は、暖かいミルクを飲んでから布団に包まる冬の日の夜よりも穏やかに、私の意識をその柔らかい腕で連れ去るのだった。



 --狂人。

 彼女は自身のことをそう表現しており、それは決して過大でも誇大でもない、と私は思う。

 今年で齢十七となる半井泰葉なからいやすはは、一切の修飾的表現を用いずとも狂人そのものである。

 

 嬉々として肉を切り裂き、恍惚と血を舐めとる半井泰葉は狂人というほかないのである。

 そんな狂人の半井泰葉は、黄土色の壁にもたれて夜の帳が下りた窓外の景色を微睡む様な表情で眺めていた。

「おはよう、黒澄」

「おはようございます、泰葉様。……すっかり暗くなってしまってますね、私は何時間位気を失っていたのでしょうか」

 言いながら、私は自身の胸の辺りを軽く撫でてみる。痛みはない。当然だが、傷跡もすっかり塞がっている様だ。

 ただ、薄い半袖の襯衣シャツの胸元辺りが渇いた赤黒い血で固まっているのを見ると、泰葉様が突き刺した刃物は私の心臓部まで達していたのだろう、と想像がつく。

 彼女は人を殺さずにはいられない。

 その感覚は、私には理解し得ないものではあるが、同時に私が殺される度に脳髄に浸透する感覚も彼女は理解し得ないのだろう。

 つい数ヶ月前まで国内でも有数の権力を持つ半井家の息女であった半井泰葉の人を殺さざるを得ないからくる欲求を解消するべく充てがわれた哀れな生贄の中に私がいた。

 或いは、半井家の人間はその時まで私も知らぬその特性を知っていたのかもしれない。

 --不死者。

 生まれついてのものなのか、それとも彼女と出会いそして初めて殺された十二歳までの間に得た力なのかは分からないが、私はどうやらそういう存在らしい。

 これ幸いにと、半井家はいつ発作が起こるのか分からない半井泰葉の使用人として私を彼女の側に置き、当時六歳の半井泰葉と私は主従関係を結んだ。

 半井家との間に発生する契約ではなく、私個人と半井泰葉個人の間で結ばれたものであり、それをしきりに半井泰葉は強調していたが、その事実の意味を再確認したのは半年前だった。

 人を殺さずにいられない半井泰葉は、私を伴って半井家を出奔したのだ。

 それ以来、私達は狭苦しい集合住宅で暮らしている。


「黒澄」

 翌日。

 いつの間に目を覚ましたのか、つい先程まで小さな寝息をたてていたはずの半井泰葉、もとい泰葉様は音もなく私の背後に立っていた。

「おはよう御座います。もう朝ご飯できますから、準備してきてください」

 ほうれん草を茹でながらそんな事を言う私は、彼女の使用人という立場を飛び越え母親にでもなったような気分になりつつも、菜箸の手を止めることなく、醤油さしに手を伸ばしたところで首筋に僅かな痛みを感じた。

「あの…朝っぱらから人の血を吸わないで下さい」

「……ふん、別に減るもんじゃないでしょう?」

「減りますよ……多分。いいから、顔、洗ってきて下さいね」

 私の小言にふんと鼻を鳴らして泰葉様は洗面所へ大人しく向かう。

 私はたまに、彼女は西洋の御伽噺に出てくる吸血鬼なのではないかと時々思う。

 人を殺すことと人の生き血を吸う事は決してイコールとはなり得ないからだ。

 だが、彼女は殺人と血を飲む行為は全く別の欲求だという。

「殺人は食欲、吸血は性欲……そう例えたほうがいいかしら」

 洗った顔を拭くことすらせず、水滴をポタポタと床に滴らせながら、まるで私の思考を読んでいるとでも言わんばかりの言葉を放つ泰葉様を見て、半ば反射的に布巾を手に取る。

「……であれば、睡眠にあたる欲求とは何でしょうかね」

 屈んで泰葉様の足元の水滴を拭きながらそう問いかけると、泰葉様は荒々しく私の後頭部に、その小さな足を乗せた。

「こうやって、貴方を虐めることよ」

「行儀が悪いのでやめて下さい」

 ため息混じりに後頭部の足を払い除ける。

 そんな様子を見て、無垢な笑みを泰葉様は私に向けた。

 あの半井家から逃げ果せたという開放感が、きっと彼女を少なからず健全にさせている。

 あの家にいた頃は、もっと捻くれた性格をしていたはずだ。

 そんな変化を見て私も思わず頬が緩む。


 幾度となく殺人を繰り返してきた狂人と、命を冒涜する不死者だが、願わくば平穏なこんな生活が続いてくれるようにと祈るだけだった。

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