役者

@mttn

第1話

こんなことは言わないはずだと思うようなことであっても、実際には言えないということはなく、実際に言えてしまう。自分の口から出てくる言葉を普通かそうでないか判断しようとするのは無意味だ。人間はそんなふうには喋らないよ、というのはどんなときも当てはまらない。


「おつかれさまでした」

それだけのメッセージなのだとわかっていても通知画面上で確認する。何か新規の頼まれごとがあるかもしれないと思いつつ定時後の時間を過ごすのはもったいない。種無しブドウに種が入っていないことを確認したいがために、ブドウなんかべつに食べたくないのにもかかわらず、確認できないとなんとなく気持ちがわるいからつい食べてしまうようなものだ。そうやってブドウは、いつも一房まるごと無くなる。

昔、祖母の家でブドウが出されたとき、粒の合間から小さな蜘蛛が飛び出して以来、ブドウは苦手な食べ物になった。当時、嫌いな食べ物はたくさんあった。しかしその多くは大人になる過程で克服され、むしろ好物へと転換したものも少なくないのだが、ブドウだけはいまだに好きになれない。

業務用端末の電源を切る。勤務時間外に電源を入れておく理由がない。残業常連メンバーのノリが盛り上がり、無駄に端末が鳴動することも、それに気を取られることも避けたい。緊急連絡用として電源を入れておくのは、不文律どころかチームのルールなのだが、本当の緊急時には私用の端末が鳴るだけのことだ。それに、大概の緊急事態は寝ているあいだに誰かが解決するものだ。

勤務時間が終わってから、近所の公園を散歩する。真ん中に池がある公園にしては大きな自然公園だ。池の周りをぐるりと回りながら、頭の中でセリフを言う。

言うべきセリフを思い出し、思い出せないときには思いつくまま、いい加減なセリフを並べていく。自分の役だけではなく、落語のように上下を切って、相手役のセリフも言う。いずれも頭の中だけのことで、傍目からは散歩している男としか見えないはずだ。

公園を二周と公園の入口から自宅までの往復を合計四十分かけて歩く。季節によっては、あるいは残業の長引き具合によっては、酒を片手に音楽を聞きながら歩くこともある。

音楽は音が出てさえいれば何でも良く、ただ外界の音と別の音が聞こえている状況を作りたいだけだ。ノイズキャンセリング機能がついているコードレスタイプのイヤホンを装着して、適当なプレイリストを再生している。昔から音楽がわからない。友人たちが、あれは良い曲だの、あのグループは良い曲を書くだの言っているのもまったく理解できず、ちんぷんかんぷんだったのだが、ふんふんと話を合わせていた。あれはひどいと言っているグループの曲を聞いても、何がひどいのかわからなかった。わからないながらもその曲をそのまま覚えてしまって、何がひどいのかわからないままただ調子を合わせて、ひどいねと言っていた。

酒の味もよくわからない。味のちがいはわかるけれど、どれがおいしいのかを判断できない。コンビニで売られている酒は全部おいしいと思う。ビールは麒麟、チューハイはレモンと決めている。どれでも良いものを選ぶのが面倒だからだ。

音楽にしても酒の味にしても、昔は、自分にはこれという好きなものがあると考えていたし、人にもそう言っていた。

しかし、ただ決めていることがあっただけで、これでなくては駄目だということは一切ないということにある日気がつき、それから後、こだわることもなくなり、こだわっていると見せかけることもしなくなった。

私にとってどうでもいいことはどうでもいいことだ。私がどの音楽が好きで、どの酒を好むかということは私以外にとってはどうでもいいことだ。そして、それらは私自身にとってさえどうでもいいことなのだから、誰にとってもどうでもいいことだということになる。

ただアルコール度数と音量だけが必要なパラメータであって、それ以外の要素はさして重要な情報とはなりえない。微差は微差であり、私にとってそれは誤差の範疇であって、存在しないもののひとつだ。

それとは対称的に、ブドウから飛び出したクモは今も存在している。ブドウが嫌いだという形に変わって、クモは私に存在している。

私は私という主体として存在しているが、それとはべつに、対象として、誰かに存在するということをやってみてもいいと思った。誰かに存在する私が、この私の主体としての存在(あり方)に与える影響があると見越してのことだ。クモが私に存在しているように、私が私に存在するという事態を招き寄せたい。この試みは、今この瞬間に私が存在しているのとは別のかたちをとって存在できるかどうかの確認を兼ねている。誰に訊くわけにもいかないから、とにかくやってみせようというのが一旦の方針であり、その結果起こったことがそのまま確認となる。

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