#23 優しいひと
隣の部屋からばたばたと音がして、リリは飛んでいって隣の部屋のドアを開けた。まさに、キクがベッドに突き飛ばされる寸前だった。
「なにをしているんですかっ!」
男たちのズボンの股間は膨らんでいた。もう言い逃れはできないだろう。キクは茫然と、ベッドにへたりこんでいる。
「いや、俺たちはこの子と恋仲なんだ。だったらそういうこともあっていいだろ? そうだよな?」
「なにも知らない女の子から無理やり言質をとって、まるで娼婦みたいに扱うなんて、この人でなし!」
リリは怒鳴った。しばらくぶりで大声で怒鳴った。騒ぎを聞きつけたほかの奉公人が集まってくる。
「女将さんと警察を呼んでください。強姦未遂です」
奉公人たちは顔を見合わせて、急いで女将を呼びに行った。まもなく女将が駆けつけた。
「おキク! 大丈夫かい?!」
「はい、大丈夫です……びっくりしました」
女将は荒くれ者をキッと睨んで、
「娼館がないからってうちの奉公人に手出ししようとするなんて、ただじゃ済ませないよ!」
と、力強く言った。
「だって俺たちはその娘っ子と恋仲だぞ? この子は嬉しいって言ったんだぞ?」
「言わされただけです。本当は嫌だったんだよね?」
リリがキクにそう尋ねると、キクは小さく頷いた。
「今更嫌だっつっても遅いんだよ。そんときは恋仲で嬉しいっつったんだから」
「だって普通恋仲というのは1人対1人の関係でしょう。この子があなたがた3人とまとめて恋仲になるなんておかしいです」
荒くれ者たちは一瞬の沈黙ののち、窓から逃げ出そうとした。しかし宿屋の前にはすでに警察が集まっていて、荒くれ者たちは逃げるのを諦めたようだった。
勝った。リリはそう思った。
警察が来て、荒くれ者を繋いで連れていった。リリはクリューサンテムムのいる部屋に向かう。クリューサンテムムは怯えた表情で、リリを見ていた。
「可哀想なおキクちゃんは助かりましたよ」
「そう……なのか? しかしなぜ私はここにいるのだ?」
クリューサンテムムは、難しい顔をしている。どういうことか聞いてみる。
「たとえば人が過去に戻ってその人の父を殺せば、その人は生まれてこないからその人は消えてしまうのでは、と学者が行っていた。その理屈でいけば、私が覇道に進むのを阻止したなら、私は消えるはずではないか」
「でもムムさまがおキクちゃんを守ったなら、ムムさまは存在しないことになって、それだとだれもおキクちゃんを守れないからムムさまは覇道に進んで……ああもうややこしい。とにかくおキクちゃんは助けました。もう大丈夫です」
「そうか。そうしてくれようと言ったのはそなたしかおらなんだ。そなたは優しい、優しい人だな」
クリューサンテムムは微笑んだ。
宿屋の裏庭で、キクが泣いていると聞いて、リリとクリューサンテムムは裏庭に向かった。
リリは、まるで都会で親とはぐれた迷子のように、ボロボロと泣いていた。
「もうあなたに悪いことをしようとするものはいない。泣かないで」
クリューサンテムムがハンカチを差し出す。
「でも。こんな目に遭ったって知れたら、まともに結婚もできないし、ここでも働けない」
「それなら田舎に帰ればいい。あるいは都に出てもっと大きな商人のところで働いてもいい」
「ずっと思い出すと思うんです、きょうのことを」
怖かったのだろう、恐ろしかったのだろう、キクはボロボロと泣き続けた。
「そうだな、怖かったことは一生忘れられないものだな」
「……?」
「私もそうだ。あなたとほとんど同じ目に遭って、奉公先にいられなくなり稼ぎはぜんぶ堕胎薬に消えた。全ての男を憎んで、男を皆殺しにした。この世の仕組みを捻じ曲げて、女だけの帝国を作りまでした」
「なんのお伽話ですか?」
クリューサンテムムは笑った。
「そうだな、お伽話だ。悪いお伽話だ。そういうふうにはなりたくないだろう?」
「……よく分かりません」
「それでいい。お伽話の悪い皇帝は死んだ。そしてその代わりに、可哀想な女の子はすんでのところで助かった」
「そうか、あのままだったらもっと怖い目に遭っていたんだ」
キクはクリューサンテムムからハンカチを受け取り涙を拭いた。ぱんぱん、とスカートのお尻をはたいて立ち上がると、
「新しい仕事、探してみます」と答えた。
「これで一件落着だというのになぜ私はいるのだ? お伽話の悪い皇帝は死んだのだろう?」
「まだ成すべきことがなにかしら残っているのでは?」
「そうかもしれない。そうだ、もう少しだけ、過去の自分を見ていたい。もし無事だったら、どんな人間になったのか興味がある」
「わかりました。そうしましょう」
キクはその日のうちに宿の奉公を辞めたいと女将に申し出た。女将も事情を知っているので、そうするといい、新しい仕事は探してやる、とキクに言った。
何日かして、都に向かう方面の、次の宿場町で料理屋の給仕の仕事がある、と言われたようだった。ちゃんと住み込みで働かせてもらえるらしい。
女将はキクにいままでの給金を渡し、キクは少ない荷物を持って街を出ていった。奉公人の仲間たちはキクに手を振って別れを惜しんだ。
「――なんで私は、あのように愚かなことをしたのだろう。怖かった、など理由にならない」
クリューサンテムムは、そう呟いた。
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