#20 哀れな
リリはぼーっと、奴隷に服のボタンを閉じさせる皇帝クリューサンテムムの後ろ姿を眺めていた。そしてあることに思い至る。
この国を、いやこの哀れな皇帝を救うたった一つの方法を、リリは思いついたのだ。できるかどうかは分からない。しかしやってみるしかない。そうすれば、全てが完璧な解決に至るのではないか。
リリは夜、服を着たままクリューサンテムムを待った。クリューサンテムムはいつも服を着て寝台にきて、リリに脱がすように命じる。リリは緊張しながら、クリューサンテムムが現れるまで、なんと言って説明したものか考えた。
「――おや。今日は裸で待っていてはくれぬのか」
「あの、陛下。ひとつ提案したいことがあります」
「服を破くというのもまた一興、みたいな話か?」
「いえ。哀れな女の子をひとり、乱暴ものの手から助け出すという話です」
リリの提案というのは、真理の鍵を使いクリューサンテムムの少女時代に時間を遡り、彼女が乱暴される前に助け出す、というものだった。
その提案を聞いたクリューサンテムムは、少女のように唇を噛み、しばしうつむいて、
「そんなことができるだろうか」
と、苦しげに言った。
「所詮女は男に膂力で勝てない。余の剣技が絶品とはいえ、あの荒くれ者どもに勝てるだろうか」
ああ、クリューサンテムムは、いまでも怖いのだ。乱暴されたときのことを、忘れられないのだ。
「陛下なら勝てます。事実こうして、帝国を作り上げたではありませんか。どれだけの男を滅ぼされたのですか。陛下お一人で、故郷の男を全滅させたと仰せられたではないですか」
「しかし」
クリューサンテムムは、怯えきった小動物のような顔をしていて、なにを言えばいいのか分からないようだった。傲慢な皇帝とは思えない弱気な態度だ。
「助けましょう。哀れなおキクちゃんを」
「リリ……」
クリューサンテムムは、震えていた。恐れが体の中を駆け巡っているのだろう。次第に呼吸が荒くなり、がくりと膝をついた。
リリはクリューサンテムムを抱きしめて、震えながら息を吸っているクリューサンテムムの唇をそっと塞いだ。息のしすぎで急に体調をおかしくしたら口を塞いでやるといい、となにかで聞きかじっていたからだ。
「うむぅ」
クリューサンテムムはポロポロと涙をこぼしていた。息が落ち着いたところで唇を離す。
「……たしかに、いまの余であれば……荒くれ者の3、4人、簡単に始末できるだろうとは思う。それに実際それを考えもした。しかしできるとは思えなかった。でも」
リリはクリューサンテムムにハンカチを差し出す。クリューサンテムムはそれで涙を拭うと、
「リリとなら、できる気がする」
と、そう答えた。
まずは真理の鍵で、過去に戻れるか確かめねばならない。
真理の鍵は大寺院に隠してあるとクリューサンテムムは言った。クリューサンテムムは「お腹が痛いから」と言って執務をサボり、リリと一緒に大寺院に向かった。
「なんだか元気が湧いてきた。ありがとうリリ」
「それはよかったです」
大寺院に入る。少女のように若々しい大祭司に、クリューサンテムムはこういうわけでお忍びで来た、と説明した。
ピュアキントゥスが亡くなったあと、枢機卿代理の役についているという大祭司は、
「陛下、そんなに簡単にお忍びで来られると困ります。わたくしどもにも都合というものがございますゆえ」
と、やんわりと追い出そうとした。クリューサンテムムはとても彼女らしい、獰猛な笑顔で、
「であればそなたの首を刎ねて、もっと言うことを聞くものを大祭司に据えようかの。ピュアキントゥスが死んだあと、大寺院は余の言うことを聞かぬようになったな」
と、恐怖政治をちらつかせた。大祭司はあわてて、寺院の中でも聖域と呼ばれる場所に通してくれた。流石に死にたくなかったらしい。
聖域は、白い石で組まれた、狭くて静かな部屋だった。そこの、なんてことのないただの小さな机に、金色の鍵がひとつ置かれていた。
「これだ」
クリューサンテムムは鍵に手を伸ばした。鍵はふわり、と浮かび上がり、まばゆく輝き始めた。
「そなたに問う。そなたは我らを過去に連れていってくれるか?」
鍵は答えた。
「あなたの望むままに」
鍵の声は、久しぶりに聞く男の声だった。
ぼわ……と、空気が霞んだ。一瞬息につまる。
「――ここは?」
「余の、いや……わたしの働いていた宿場町だ。見よ、賑やかであろ?」
確かにとても賑やかな街であった。宿屋だけでなく、両替商や荷物の運び屋、馬の貸し出し、食堂など、リリにはありとあらゆる店が並んでいるように見えた。
「この街には娼館はない。この街の領主が、そういう不道徳なことを徹底的に嫌ったからだ」
そうか、娼館がなかったから荒くれ者たちは宿屋で働く少女たちを狙ったのか。
「おそらく、娼館というのは必要悪であったのだろうな。不道徳なものでも、人に必要なものを禁じるのは結果歪みを呼ぶ」
クリューサンテムムの言うことは、為政者として正しいことなのだろうな、とリリは思った。
そして2人は、大きな宿屋である「花籠亭」の前に立った。
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