第17話 逃避

『こんばんは、友理……』

深呼吸して取った電話から聞こえた先生の第一声。

『せ、先生……こんばんは……』

『いきなりでごめんね。その…、明日の夜一緒にご飯食べに行かない?』

『明日……?』

明日は金曜日。

テストも終わって確かに誘いを断るような用事もない。

が、正直今先生と会うのは気まずい。

それに、先生と会ったら何が起こるのか分からないから少し怖い。

とはいえ、このまま避け続けるわけにもいかない、と私は先生の誘いを受けることにした。

『明日の夜ですね…。分かりました』

『うん、じゃあそれで。また明日ね』

明日……。

もうこれはデートと言えるのだろう……

どちらかというと話し合いと言ったほうが近いかも知れない。

明日先生と改めて会うんだと思ったら不安で落ち着かなくなってきた。

でも不安は不安だけど、好きな人と会えるという期待もやっぱりある。

中間テストが終わって先生の仕事も前ほど忙しくないはずだから、メンタルもある程度落ち着いているだろう。

一緒にご飯食べて、お話して、気晴らししたら……また前みたいに戻れるはずだ。


次の日、雨が止んで気温は昨日より高くなっていた。

「友理~」

車の運転席から手を振る先生は、変わらず可愛くて魅力的だ。

「先生、こんにちは……」

熱くなったドアノブの温度が季節の変化を感じさせる。

初めて先生の車に乗ったのもほんの数週間前だというのに。

しかしこの数週間で、先生と私の関係は少しずつ変わっていった。

今の私達と、数日前の私達もどこか違っている。

だからこそこの数週間がとても長く感じていた。

嗅ぎ慣れた百合の香りと空調クーラーの冷気。

長いテスト期間を終え、やっと先生に会えたというのに、助手席に座っても、私は何を話せば良いのか分からないままだ。

すぐ隣、手が届くほどの距離しか無いのに、心の距離は埋まらない。

考えあぐねて、結局ありきたりな言葉を口にする…。

「先生…今どこに向かっているんですか?」

「うーん、まだ決めてないのよね」

「え!考えてないんですか?」

「うん……、ただ友理に会いたくて、どこに行けばいいかなんて考えてなかった……」

思わず返事に詰まる。

『会いたい』なんて何十回も聞いている言葉なのに、今日はどう反応すればいいか、ちょっと分からない…

「……じゃあ今日は私が行き先を決めていいですか?古い店がある場所なんですけどずっと行きたくて」

「本当?良かった。じゃあそこにしましょう」

スマホで店の情報を出して先生に見せる。

「あぁ、ここも蓮塘にあるのね。なら近いわ」

「ここで大丈夫ですか?」

「問題ないわ。ひと目見ただけだけど、試してみたいものがいくつかあったもの。行きましょ!」

先生が車を運転する間に私はスマホ上で食べるものを予め決めておこうと思ったが、たった数百メートルの道のりでは大したものを選ぶことは出来なかった。

車は前に先生と来たことのある公園に停まった。

あれは三月の時のことだったかな……。

改めて計算してみると、まだ一ヶ月ちょっとしか経っていない。

「あっちの方には停められる場所はなかったはずだから、ね…。少し歩いていこうか」

ここから店までは三、四分程度で着くだろう。

「はい、行きましょう」

そう答えて歩き出す。数歩進んだ所で、先生が着いてきていないことに気づいた。

後ろを振り返ると、先生はふっと微笑んで言った。

「手を、組んでもいいかしら?」

先生がわざわざ私に許可を取るなんて思いもしなくて、思わず驚きの声を上げる。

「あ……はい、どうぞ」

嬉しそうに小走りで数歩の距離を駆け寄ってきた先生が、私の左腕をギュッと抱きしめた。

その感触で、先月先生と東門とうもんに行った時のことを思い出す。

先生の手はヒンヤリしていて心地が良い。


目的地に着くと、オレンジ色の背景に黒字の派手な看板が目に入る。

店の内装は全体的にレモンイエローで統一されていて、店内の雰囲気もその色に合った明るさとアットホーム感にあふれていた。

「テスト終わったね」

「はい……」

「どうだった」

「……終わってから自分で答え合わせしてみたら、ケアレスミスが結構ありました」

「そっか、それはどうにかして減らすしかないね」

「そうですね……」

「とりあえず暫くはゆっくり休んで。もうすぐ修学旅行だからね」

「あ、確か……江西省こうせいしょう井岡山せいこうざんに行くって聞きました」

「そう」

「いつ行くんですか?」

「六月六日から九日だね。間の二日間は学校が大学受験会場になるから、学校を空けておかないといけないのよ」

「じゃあもうすぐですね!楽しみだな~」

「私も井岡山は初めてなのよ。楽しみね」

「そう言えば大学受験って毎年六月七日と八日なんですか?」

「うん、そうみたいね。随分と前から毎年この二日間よ。『六七八』の読みが普通話ひょうじゅんごの『合格しよう』に似ているかららしいわよ」

「えー、そうなんですか?初めて聞きました……」

「噂だけどね。私の高校の先生がそう言ってたのよ」

先生との会話は、昨晩の私の心配をよそに、気まずくなることも雰囲気がおかしくなることもなくスムーズに進んだ。


「一番意外だったのははん芋頭いもがしらですね」

「うんうん、あれ美味しかったね!あと揚げ双皮奶ぎゅうにゅうぷりんも美味しかった~」

今日のお店は当たりだった。

雰囲気も良かったし、料理も美味しかった。

余韻に浸りながらお店を出ると、残光が遠くの空に消えていくところだった。

梧桐山から吹いてくる夜風が空気を冷ましていく。

「昼はもう結構暑いけど、夜は結構丁度いい気温ですね」

「そうね……、じゃあ少し公園を散歩していこうか?」

「はい」

街の中心から外れた大きな公園には人気がない。

先生と私は手を繋いで、ゆっくりと誰もいない道を歩いていた。

「前にもここに来たわね」

「はい。もう夜も結構遅かったのでびっくりしましたよー」

ふと、足を止めた先生が、横を歩いていた私に向き直る。

私も慌てて立ち止まり、顔をそちらに向けた。

「先生……?どうしました?」

二人の間で、しっかりと絡み合わせた先生の左手と私の右手。

「私の話を聞いてくれる?」

先生の口調が、真面目な話だと告げる。

とっさに後ろに下がりそうになった足を押し留め、覚悟を決めて身体ごと先生の方に向いた。

「あのね、友理に謝りたくて……」

「え……?謝るって……何をですか?」

予想していなかった突然の謝罪……。

「その、この間友理が私の家に来た時に私……」

先生が、本当に申し訳無さそうに項垂うなだれる。

「勝手にいきなり、押し倒したりして……」

「あー……、あれか……」

謝りたいってあのことか……。

「それに私は仮にも教師なのに……。どんなにキスしたくても、友理の許しを得るべきだったわ。……ここ何日かずっと友理に合わせる顔がなくて、中間テストが終わるのを待って、勇気を出して誘ってみたの」

沈んでいた先生の表情が少しずつ晴れていくのを、私は不可解な思いで見ていた。

「私これからちゃんと気を付けるわ。ちゃんと友理の意見を聞く。友理だけの『先生』でいるから、だから……」

だから……?

「お願い……友理も、私だけの友理でいて……?」

……一気に暗闇に突き落とされたかのような衝撃を感じた。

先生のその言葉が……まるで巨大な手のように私の心臓を握っているようで……息ができない。

そうか……、私はずっと……。

玖嘉先生からも、自分からも……。

息苦しさを耐えながら絞り出すように口を開くが、出てきたのは小さなかすれ声だった。

「い、いえ……何でもかんでも私に意見を求める必要はないです…………」

先生はいつも何かを私に求め、私を必要としていた。

「え、どうして……」

でも、先生は私が必要なのであって、私が好きな訳ではないのだ。

「私は……、玖嘉先生のことが好きですから……」

きつく繋がれていた手が、力が抜けて解ける。

夜の帳が完全に下り、公園には街灯だけが等間隔でぽつりぽつりと並んでいる。

その光がぼやけて暗くなっていくのが分かった。

涙腺が決壊したかのようにとめどなく溢れ出てくる涙が、地面に落ちてシミを作っていく。

「ゆ、友理?」

考えれば考えるほど、ずっとスルーしていた違和感が無視できないほど大きくなっていく。

そもそも……先生はなんで私と付き合った?

初めてのデートの時、私は同じ質問を先生にした。

一言一句覚えているわけではないが、要約すると、私が先生が必要とするものを与えられるから私を選んだのだと言っていた。

先生が好きなのは、仕事を手伝ってくれる私の便利さと甘えたい時にしてあげた抱擁と、疲れている時に掛けた励ましの言葉。

それだけ。

ただ一つ、『私』を好きなのではないのだ。

とっくに気付いていた。先生が私自身を見ているのではないことに。

気付いていて、逃げいていた。その事実を認める勇気がなくて。

先生が好き。

背中を伸ばして教壇に立つ姿が好き。

自信げに「女の子は貪欲になっていい」といった笑顔が好き。

そばにいられるなら先生が私のこと好きでなくてもいいとすら思ったことだってある。

先生が私を必要としてくれるなら、それが私が先生のそばにいていい理由になるのだと。

でも……、本当にそれで良いの?

本当にそれで十分なの?

……やっぱり…………駄目だった。

私は……先生が必要とするものを与え続けることは出来なかった。

「……先生、ごめんなさい」

そう一言告げて、顔もあげないまま先生に背を向けて走った。

先生が私の名前を呼んで、何かを言っているのが聞こえた気がした。

でも私の耳には届かなかったし、聞きたくもなかった。

一歩踏み出すたびに、溢れ出た涙が顔に広がっていく。

ひどい顔をしている自覚がある。

皮肉にも人気のない公園にいたお陰で、人目を気にせずに泣くことができた。

家に帰ると、しばらく部屋の床に座り込んでぼんやりと壁のシミを見ていた。

もう涙は出ていない。

その二文字が頭に浮かぶ。

その事実を、努めて冷静に受け入れる。

そして『』の横に、『』の二文字までもが浮かんできた。

私は玖嘉先生から私への好きを感じることができなかった……。

同時に、先生に私のことを好きになって貰うこともできなかった……。

以前に心に決めた『先生が求めるならそれに応えるまで』という誓いも、傍から見れば卑屈で馬鹿げた考えだったのだろう…………。

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