第3話 大人
「香水の匂いどうかな?きつくない?」
前方から目を離さず注意深く運転しながら、先生が聞いてくる。
「いえ全然。柑橘系の香り、私は好きです」
「そう?良かった~!普段は香水なんて使わないんだけどね、友理と遊びに行くから急いで使ってみたの。変じゃないかなって心配だったんだけど」
「全然変じゃないですよ。大丈夫です」
つまり、先生は私のために香水を使ってくれた、と……。
「なら良かった~」
先生のキラキラな笑顔が私にクリティカルヒットする。
幸い少しずつ暗くなってきた空のおかげで、真っ赤に染まった私の顔が先生に気付かれることはなかった。
先生の服は今日も綺麗だな~。普段から綺麗だけど。
なのに私は、ダサい学校の制服のまま……。
「!!わぁ…!」
「ん?なになに?」
「あ、いえ、初めてビルの灯りが灯る瞬間を見たもので…。すごく綺麗でした」
「えー?運転に集中してて見てなかったわ。うう、見てみたかった~」
落胆したように言う先生は、私と夜景が見てみたかったと駄々をこねているようだ。
「あ、安全第一ですから!先生は運転に集中しててください!」
夜の帳が下りて空がその暗さを増すほど、この街は活気が増すようだ。
先生の車はまだ止まらない。
私は、柔らかなシートに身体を預けながら窓の外を流れる綺麗な
金曜日にこうやって外に出てする息抜きは、なんだか贅沢な気分になる。
「そう言えば今日の目的地はどこなんですか?」
こんな早い時間に出てきて、ドライブだけというのは無いのかな…。
「グッドタイミング。今丁度着いたわよ。さ、降りる準備をして」
ん?着いたの?
さっきの夜景を見るに、ここは多分
先生の言ったとおり、車は程なくして止まった。
駐車場から見える装飾だけで、ここが高級な場所だということが伺い知れる。
車から降りて、建物に大きく書かれた名前を読むーー『ザ・リッツ・カールトンホテル』。
ホ…、ホテル!?待って、ホテル!?
嘘でしょ、嘘でしょ、世の中のカップルはデート=ホテルなの!?怖い!!
「さて、入りましょ」
「待って、先生、待って」
ごく自然に歩き出す先生の袖を慌てて引っ張って引き止める。
「ん?どうしたの?」
「先生その、私今日はやっぱり帰ろうかなー、なんて…、ほら私まだ未成年ですし…」
「なに……」
きょとんと頭にはてなを浮かべていた先生の顔が、私の言葉の意味に気づいた瞬間、カーッと赤くなる。
「わ、私をなんだと思ってるのよ!ご飯よ、ご飯!私達はご飯を食べに来たの!!」
え?あぁ…ご飯。
「そ、そうだったんですね…、すみません」
流石高級ホテルというべきか、サービスは格段に良かった。
ロビーに入ると、ホテルスタッフのお姉さんが近づいてきて案内を申し出た。
先生はバッグから二枚チケットのようなものを取り出すと、お姉さんと話し始めた。
よく聞き取れなかったため私は聞くのを諦めて、まるでだだっ広い広場のようなロビーを見回した。
見れば見るほど、綺羅びやかな内装のロビーに学校のダサい制服を着て立つ自分が、段々恥ずかしくなってきた。
「では、こちらへどうぞ」
綺麗な営業スマイルを浮かべたお姉さんは声も綺麗だった。
「係の者が待機しておりますので、こちらのエレベーターから二階へおこしください」
ボタンを押しててくれるお姉さんにお礼を言って、エレベーターに乗り込む。
当然だが、大きいエレベーターも外と同じくらい品のいい内装を施されていた。
まだ十分に体感しないうちに、あっという間に二階に到着。
ドアが開くと、別のお姉さんが待機していて、私達をレストランまで案内してくれた。
レストランの入口には、『Paletto』と書かれた看板がなんて読むの…?分からない…。
お姉さんは迷うことなく一つのテーブルのそばで足を止め、私達を促した。
広い空間をたっぷり使った配置は、テーブルの間隔がとても広くとられていて、他のテーブルの声が聞こえることはない。
見回してみると、ほとんどのテーブルがカップルらしき男女二人組で埋まっている。
そんな中で、二人共女の組み合わせはきっと変に見えるでしょ…。
片や惹きつけられるような美人と、ださい高校の制服を着た女子高生。
どこにいたとしても釣り合わない組み合わせだ。
こうして二人きりで向き合ってご飯を食べに来た私達を、他の人はどんな関係だと思うのだろうか。
カップル?それとも姉妹?
「
く、呉さま、李さま?なんでレストランが私達の名前を知っているんだ!?
あ、もしかして、先生が予約するときに教えたのかな。
でもまさか高級レストランともなると、客の名前も全部覚えなきゃいけないのか……?
「ありがとうございます」
少し戸惑いながらメニューを受け取って開く。
普段行くようなファミレスの沢山字が書かれたものとは対象的に、ここのメニューは、余白がたっぷり過ぎるほどとられたページの真ん中に、数文字の料理名が書かれているだけだった。しかも料理の種類も多くない。
料理名から察するにイタリアンだとは思うのだけれど、私の知っているイタリア料理なんざピザとスパゲッティくらいで、ほとんどが見たこともない名前だった。
どうせいくら見てもわからないのだ。先生がさっさと食べるものを決めて頼んだのを見て、私も適当に注文した。
「友理はなにを頼んだの?」
「メニューを見てもよく分からなかったので、アルコールなしのものを適当に…」
「そうなの~、偉い偉い!」
「うぅ、やめてください……」
なんだか凄く子供扱いされてる気がする。
「確かに子供は大抵お酒の匂いが好きじゃないわよね。私はちょっと飲んでみたいのだけど、後で運転しなきゃいけないから駄目ね」
「…もう十六歳なので、子供って程でもないですけどね」
「うふふ~」
「そう言えば、先生はなんでここに私を連れてきたんですか?」
「ん~?デートで、彼女と行きたいところに行くのは自然なことでしょ?」
なんてこと無いように『デート』とか『彼女』とか言われると、くすぐったくて仕方がない。
きっと先生から見れば、そういう所が子供なのだろう。
「その……、先生はなんで、私を…にしたんですか?」
「ん?友理を、なに?」
「私を、こ……、恋人に、選んだんですか?」
「うーん、そうねぇ。目の前にいたのが友理だったから、かな」
よく意味が分からない……。
先生は苦笑して言葉を続ける。
「私ね…、傍に人がいてくれないと駄目なの。誰かそばで寄り添っていてくれないと、一人じゃ歩き続けられないくらい弱いのね。過去にも私のことを好きと言ってくれる男の人はいたけど、どうしても信頼することが出来なくて……。一人でこの街にやってきたばかりで正直寂しかったし、仕事のプレッシャーも大きかった。大分…疲れてたのよね」
寂しい、プレッシャー、疲れた。
次々と出てくるネガティブな言葉が、あの玖嘉先生の口から出ていることが少し信じられなかった。
私が知る先生はいつも明るい笑顔を浮かべてて、私生活もキラキラしているのかなと勝手に思っていたから。
これは、私が初めて知る先生の一面だった。
「そんな時に友理に会ったの。友理はいつも仕事が早くて、私の負担を随分と減らしてくれた。それにね、友理に励まされると、なんかすごく力が湧くの。私が誰かを必要としている時、傍にいてくれたのはいつも友理。友理がいてくれたお陰で、どれだけ救われたか……」
先生が話してくれた理由を聞いても、私はあまりピンこなかった。
けれど……
「そしたらあの日、友理があんなこと言い出すでしょ?だから告白するなら今しかない!って思って。……えへへ」
けれど、先生の言った『付き合って』が冗談でもからかいでもなんでもなく、本気の告白だということはよく分かった。
「だからね、友理、私の彼女になってくれると嬉しい!」
その若干照れが混じった笑顔はずるいと思った。
「…………」
「あはは、友理顔真っ赤よ?可愛いわね」
「まっ、真っ赤になんてなってません!灯りのせいですよ、暖光の照明だから……」
「うふふ……。私の彼女になってくれて、ありがとね友理」
また子供扱いされている気がする。けど、先生がありがとうって言ったから許してあげるとしよう。
このレストランの料理は残念ながら私の口にはあまり合わなかった。しかも料理が出てくるのが遅い。高級レストランなのに。
一番気に入ったのが、食後デザートのショコラアイスとはこれいかに…。
先生は、ジュースをちびちび飲みながら、仕事上の愚痴とか生活上の愚痴とか色々垂れ流していた。
香水や車、高級レストラン……先生が今日見せてくれたのは、私が想像していた通りの大人な世界だ。
「あー、今日は思わず色んなことを友理に話しちゃったわね!すっきりした!友理はなんだかしっかりした妹みたいで甘えたくなるわ」
「私は先生の妹じゃなくて、彼女ですよ……。それに姉が妹に甘える事なんて普通はないでしょう」
前言撤回。情けなく愚痴を垂れ流して、年下の私に甘えまくるこの人が『大人』だなんて言ったら他のちゃんとした大人に失礼だ……。
私達はレストランに然程長居せず、九時頃にはそこを出ると、先生が家まで送ってくれた。
帰り道は私がうとうとしていたせいか、大した会話もなく、はっと目を覚ました頃には家に着いていた。
「あ、ありがとうございました。先生、さようなら」
「はい、さようなら。もう遅いから早く帰って休みなさい。週末楽しんでね」
これが、私と先生で行く初めての、同時に私の人生初めてのデートとなった。
ファーストデートが楽しく終わって本当に良かった。
三月二十七日、金曜日。この日がずっと終わらず、幸せがずっとずっと続いてくれますようにと祈りながら私は眠りについた。
この時の私は、思いがけない幸福があるように思いがけない不幸もあることを知らず、そう長くは続かなかった先生との幸せな時間を、永遠なものと信じ込んでいた……。
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