幕間 異女

 ―――雨が降っている。


 夜の闇にしとしと振り続ける雨粒は高窓の格子に溜まり、硝子に幾つもの線を描いていた。


 その窓の向こう。


 明かりを落とした薄暗い室内で、一人の『女』が悠然と、意匠と贅を凝らした長椅子の上に横たわっている。


 女の真っ赤な唇から伸びた精緻な金細工の煙管からは、細い白煙が立ち昇っていた。


 窓際に灯る鬼灯のような橙色の洋燈が、冷たい白磁のような面をぼんやり照らしている。


『ふうん……黒い髪の女、ね……? 本当かしら……それ、どこ? テリノ・アシュト?……ああ、リジャの神院があるところね? ……へえ、消えたのあそこ。ふぅん……いいわ、お下がり』


 女が一言告げると、部屋の隅にある影の中に潜んでいた気配が消えた。女は一度ゆっくりと長い睫毛を伏せ、次に真っ赤な唇と同時に『黒い瞳』を開く。


『また「偽物」だと思う?』


 女の声に、長椅子の後ろに控えていた一人の男が一歩、前に歩み出る。


 それは静かで、およそ人の気配を一切感じさせない動作だった。むしろ、存在感というものが微塵も感じられないほどに、男は自らの気配を消し去っている。ただ今は、それをほんの少し出しただけ。


『……確かめないことには、何とも』


  男の返答に女は煙管を口に含むと白い煙をふう、と吐き出す。女の目はどこか愉快げで、そして酷薄な光を湛えていた。


『もう偽物を殺すのにも飽きたのよねぇ……それにああ、もう本当に、この鬱陶しい雨ときたら……』


 ここ、海上帝国ヌドマーナの首都は一年中が梅雨の季節だ。雨が降らない日は無く、それはここに住まうものすべての力の源が『水』を元にしていることに理由があった。


 水があればあるほど【アヴェ―レ】達は力を増す。より強大な力を発揮できるのだ。ゆえに彼らは雨を欲し、雨を愛で、雨を求める。全ての水は天から降り落ちるものも、地上にあるものもすべて彼らの傘下にある。


 河川も、湖も、海ですら。


 此の世界の神は水を統べる。龍と蛇の身を持つ異形の神は、すべての生命を生み出した根源だと伝えられている。そんな神と同じ能力を持った者達、それが彼ら【アヴェーレ】なのだ。


 彼らは己の異能に誇りを持ち、また傲慢だった。それはこの女も然りだが、水への執着においては、なぜか著しく例外だった。


 男は思う。この女は、どこかおかしい―――と。


 殺戮を好む残虐性のことだけではない。倫理観など知らぬように狂った思考の持ち主であるというだけではない、本来己の能力を増幅させる水を鬱陶しいと吐き捨てることも他のアヴェーレとは異なるが、それだけではない何か―――そう何か異質さが、この女にはあるのだ。


 男がこうして囚われ傀儡となっているのも、この女の奇妙な質のためであった。


 彼らはよく身体に青い血が流れていると揶揄されることがある。実際、水は深まれば青くなり、人体のおよそ半分以上は水で成り立っている。


 それでも、彼らの血は赤い。だからこそ血が滾れば『炎のごとく』熱くなる。

 人を殺す時が、特にそうだ。だがこの女の血だけは水と同じ色をしているのではないかと、男は感じた。


『久方ぶりに、外に出てみようかしら……ねえ? ザクセン?』


『如何様にも』


 ぱしゃり。


 女がわざと、ワインを自らの手にぶち撒けた。女は赤く濡れた白魚のごとき手を明かりにかざしながら、うっそりとほくそ笑む。


『たくさん、たぁくさん、力を使いたいわ。近頃身体がなまってしょうがないもの……ふふ、ふふふふふふ』


『……御手が』


『ええそうね。舐めて? ほら』


 女が男に向かい白い手を差し出した。細い指の先には真っ青に塗られた長い爪がある。爪は男を真っ直ぐに指している。まるで刃物のように。


 男の水色の眼に束の間ふっと影が差した。けれどもそれは、銀縁の眼鏡に嵌ったガラスによって女が気づく間も無く隠される。


『……失礼します』


 断りを入れ、男は一切の感情を見せずに女の希望に沿う行動を取った。


 ―――それを、雨を吹き出す曇天だけが、見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異界奇伝 火出づる国の娘 国樹田 樹 @kunikida_ituki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ