第24話 バルドの恋
「アズーロ!」
「バルド」
黄昏が迫る夕暮れ刻、草場に濃い影が落ちる通りの向こうから駆けくる青年がいた。バルドだ。
足下の土が撥ねるのも気にせず真っ直ぐにやってきたバルドは、簡素なシャツに土を着け、額には薄らと汗を滲ませていた。よく見れば右頬にも少しばかりの泥が張り付いている。畑仕事を終えたところのようだ。
「今帰り?」
「うん。ガストさんのところに行ってたの」
「そっか」
歩きながらの会話にバルドがふんふんと頷く。彼の逞しい首元には汗の粒が浮いていて、それがアズーロの心を少しだけ落ち着かなくさせた。
つい見てしまったことに羞恥を覚え、目を逸らすようにバルドの顔に視線を移す。すると嬉しそうに、けれど照れくさそうにアズーロを見返す水色の瞳と目が合った。
茜色に染まった精悍な面は、思わずどきりとするには十分な破壊力がある。
「あ、あのさ」
「な、何?」
口火を切ったのはバルドだったが、過剰に反応してしまったアズーロはしまったと身を固まらせた。他の人とはこうならないのに、と内心自分に愚痴を零す。
アズーロが難なく会話できるようになってから、バルドとの会話も飛躍的に増えた。
それはもちろんエバともだが、年頃の男性の中ではバルドが一番抜きん出ている。普段は障り無いのだ。エバやティファナ、ウルドゥがいたり、他の誰かがいる時は難なく話せる。
しかし、二人きりとなればどうもこう、固くなってしまう感は否めない。
アズーロとて年頃の少女だ。どうしても異性は意識してしまうし、むしろ出会った当初から殊更優しいバルドには好意しかない。
初対面で失礼にも彼を怖がったというのに、嫌な顔ひとつせず言葉を教えてくれようとしたり、毎日顔を見せては一生懸命にアズーロに村のことを教えてくれようとした。それは会話ができるようになった今も変わらずで、アズーロはバルドが自分に向けてくれる笑顔がとても好きだ。
アズーロは本来、元の世界では異性と接するのがあまり好きではなかった。高校一年の男子など何を考えているかわからなかったし、ぎゃははと下品に騒ぐ姿にも少々の嫌悪感を抱いていた。
なのに、バルドは違う。
何というか、一緒にいると落ち着くような、けれど気恥ずかしいような、嬉しいがそわそわした気持ちになる。
それは特に、ここ最近になって強さを増した。
「あー……その」
「う、うん」
互いに言いよどんでしまい、どちらからともなく立ち止まる。
落ちる日の残照に焼かれる道に二人分の男女の影が伸びている。
やがて、バルドがふ、と息を吐くように笑って「あのさ」と続けた。
「アズーロさえ良ければさ、ちょっと話していかないか?」
肩を竦めて、軽い口調でバルドが言う。しかしその面持ちは、真正面からアズーロを見つめているし、頬は暮れる空よりもまだ赤い。
「う、うん。大丈夫だよ」
「ありがとう。じゃあ俺に着いてきて」
誘われるままにバルドの少し後ろを歩く。彼は顔を傾けて今日の畑の様子や村の人々の話などを喋り始め、アズーロは相槌を打ちながら耳を傾けた。
時折、視線を流してくるバルドと目が合うのが少しだけ恥ずかしかった。けれど会話に笑みを零すのに乗じて誤魔化す。
バルドの面を見るにはアズーロは見上げる形になる。が、その前に目に入るのは彼の鍛えられた肩や腕、しっかりとした厚みのある男性的な体躯だ。
(格好良いな……)
高鳴り始めた鼓動を感じながら、称賛の言葉が胸に沸く。
元の世界でアズーロの周囲にいた男子達とはかけ離れたバルドの身体は、これまで地に足を踏みしめ生きてきた彼の人生の証なのだろう。
「今日さ、畑の水門を全部開いたんだ。だからアズーロに見せたいと思って……ああうん、ここら辺かな」
バルドに連れられ暫く歩いた先には、ちょうど村の田畑が見渡せる小丘があった。若々しい緑の草に覆われたそこは、緩やかな坂の上にあり女の足でも難なく登れた。
「わぁ……っ」
「今の時間だと特に綺麗に見えるんだ。この時期にしか見られない光景なんだけど……鏡みたいだろ?」
水の張られた田が広がる景色を指差しバルドが言う。アズーロは天と地に広がる荘厳な光景に息を飲んだ。昼と夜の狭間の景色が鏡面となった水田に切り取られている。一番星が二つに分身し瞬く様は、まさしく夢のように美しくアズーロの心を震わせた。
「綺麗……」
広がる景色に目を奪われるアズーロを、バルドは隣で嬉しそうに見つめていた。赤く染まった彼の瞳には、一人の少女しか映っていない。そうとも知らず、アズーロは地上の鏡を見せてくれたバルドに笑顔で振り返り礼を告げた。
「すごく綺麗! 教えてくれてありがとう、バルド」
「喜んでくれたみたいで良かった。アズーロも、好きだと思ったんだ。俺もこの景色、すごく好きだから」
言って、バルドが微笑む。少し泥のついた頬が緩むのを見て、アズーロは思わず頬を染めた。こんな風に慈しむような笑みを男性から向けられたのは初めてだった。こんなにも、綺麗な景色を見せてくれたのだって。
バルドはアズーロの前でだけ口数が多くなる、と言っていたのはエバだ。
彼女が言うには、バルドは村の女性とも普通に会話はするものの、アズーロの前では特に饒舌らしい。そう言われても、それはバルドが気を使ってくれているのだろうとアズーロは思っていた。
最初に言葉を教えてくれていたから、語りかけるのが癖になっているのだろうと。だけどもし、もしも期待しても良いような気持ちが彼にあるのだとしたら、それはとても嬉しいことだと、アズーロは思う。
「……俺の家さ」
バルドが、ふと空の向こうを見つめて零した。アズーロは赤銅より濃い色に染まる彼の横顔を見ている。
「小さい頃に父さんが死んで、母さんは身体が弱いから、畑とかずっと俺が一人でやってるんだけど、毎日毎日同じ事の繰り返しだろ? 時々何て言うか……もどかしいっていうのかな。そんな気持ちになる時があって」
静かに話し始めたバルドが、少し震える声で続けていく。ゆっくりと振り返った彼の瞳は不安げに揺れていて、弱さを見せることへの躊躇いがあるかにアズーロには思えた。
だからこそ大丈夫だと励ますように、アズーロはしっかりと頷いた。 すると嬉しそうに、どこか安堵したようにバルドが肩の力を抜く。
「だけど……この時期にこの景色を見るとさ、ああ俺がやってたのは、こんなに綺麗なものなんだな、って……その、さ、目で見て自覚できるっていうか……確かに食べるためなんだけど、それだけじゃないっていうか……土で汚れるのも、汗で目が染みたり、手や腕が痛かったのも、全部まあいいかって、思えるんだ。……ごめん、変なこと言って」
一息で吐き出すように言い終えたバルドが苦笑して付け足す。
それに、アズーロはぶんぶんと首を横に振った。ただ「わかるよ」とは言えない。アズーロとバルドでは積み重ねてきた時間の質が違うからだ。父親を亡くし、病弱な母を抱えているというバルドの背負う重荷はアズーロには心底では理解できない。
彼はきっと、村にいる若人の中でも特に早くに働き、そして長く働き続けている。
事情があるとはいえ、まだ遊び盛りの子供の時分は辛く思う気持ちもあっただろう。続けてきたということは、それだけ耐えてきたという意味でもある。
だから、彼に今、自分が出来ることは。
ただ、労うことだけ。
「変じゃないよ。バルドは頑張ってる。あ、違うね。今もずっと、頑張ってるんだね」
「……アズーロ? っ」
アズーロは言って、ぐっとつま先を伸ばして背伸びをし、そのまま手を伸ばしてバルドの頭をそっと撫でた。自分よりずっと背丈のある彼の頭に触れるにはかなり頑張って背を伸ばさねばならなかったが、なんとか指先が届いてほっとする。
「バルドはすごいよ。こんなに綺麗な景色を作ってる。これまでもこれからも、バルドは偉いし、すごい」
一言一言、アズーロは心を込めてバルドを褒め、労った。気の利いた言葉が言えない自分をもどかしく感じながら、けれども出来うる限り真っ直ぐに彼に思いが伝わるように素直に浮かんだ単語を口にした。
「っ……」
アズーロに幼子にされるように頭を撫でられたバルドは、顔を伏せ、言葉を詰まらせ瞳にぐっと力を込めていた。そうしなければ泣いてしまいそうだったからだ。村ではもう大人の男として扱われているというのに。実際にそうだというのに。
バルドは、込み上げた思いと目尻に滲んだ涙を瞬きで散らしてごまかした。
頑張ったな。村の人間や友人から、そう言ってもらうことは今までにも沢山あった。
けれど今もそうなのだと面と向かって言ってくれる人はいなかった。ましてや、こんな風に頭を撫でてもらうことなどあるわけがなかった。 バルドは他の子供達より大人として扱われるのが早かったのもある。
小さな村では男手が重要なため、早く一人前の男になれと言われて育ったのだ。父親がいない分、幼い子供の頃からそうあらねばならなかった。病弱な母親に甘えることなどできなかった。六つの頃には畑も炊事もバルドはすべて自分でこなしていた。そんな彼を村のみんなが褒めてくれたけれど、身体が成長するに従いそれは当たり前になった。
「私が村に初めて来た日、バルドは畑仕事の帰りだったね」
そんな彼の邂逅をも包み込むようにアズーロは続ける。
「あの日も今も、ずうっとああやって、バルドは頑張ってて、えらいなって思ってた。私に字も教えてくれたし、いっぱい話しかけてくれた。すごく、すごく嬉しかった。今更だけど、本当にありがとう、バルド」
バルドの顔を覗き込みながら、アズーロが言う。バルドは今にも泣きそうな顔を無理矢理笑顔に変えて「俺の、方こそ」と鼻声で返した。 そうして、自分を労ってくれた少女の手をそっと掴むと、少しだけ強く握り締めた。アズーロが彼を見返している。
バルドは、最初初めてアズーロに出会った時、とにかく可愛らしい子だなと思った。確かにそれだけだったはずだった。
なのに知れば知るほど、アズーロを好きになっていく。
時折どこか遠くを見て寂しそうな顔をしている彼女も、何かに怯え恐怖しながらも、必死に生きている姿も、こうして、バルドの過去も現在も慮って労ってくれる優しさも、知ってしまえばもう、胸に湧き上がる気持ちを押し込めることは出来ない。
家族以外の人間を愛おしいと感じるのは初めてで、そしてそれが、怖いくらいに切ないのだと知った。
「アズーロ、俺さ……これからも、もっとずっと、頑張るから……だから……」
「バルド……?」
いつかこの想いを君に伝えても良いだろうか。その言葉を、バルドは喉の奥に飲み込んだ。きっと言える日が来る、そうして見せると想いを決意に変えて。
彼女が好きで、守りたくて、いつか幸せにできるようになったら、その時は、きっと。
バルドはアズーロのためなら自分はきっと何でもできるだろうと思った。それがたとえ、何かを犠牲にすることだとしても。
バルドは暮れる日が今にも沈みゆく地平に誓う。
昼と夜の狭間、星の瞬きが輝きを放つ頃、青年は真正面から唯一と決めた少女にを真正面から見つめる。
「……またこうして、俺と一緒にこの景色を見てくれる?」
そして未来への約束を告げた。
「うん、勿論」
笑顔で頷いてくれた少女を見つめ、笑って「ありがとう」と礼を言いながら、バルドは―――この先もしも彼女に危険が迫ったならばその時は、身を挺してでも彼女を守ろうと誓った。
微笑む少女の赤く染まった面が愛おしい。艶めく黒髪は星々よりも輝いて、瞳は濡れた宝石よりも艶やかだった。
(ああ、愛しいな)
心の内で、湧き出でた感情を噛み締めるように呟く。
「俺、アズーロがここに来てくれて本当に嬉しいんだ……ずっとここにいてほしいと思ってる……」
そして、叶うならいつか―――その願いを、バルドは困ったように微笑むアズーロに語ることなく、掴んでいた手をそっと外した。
いずれ自信を持って、彼女と手を繋ぐ日を夢見ながら。
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