第23話 違和感

『おや、アズーロじゃないか』


 昼間、青い空に浮かぶ太陽がやや傾きを始めた頃。


 焼き場と呼ばれる場所で、腰高の石台にパン生地を置いたアズーロの背に、声がかかった。


 振り向けば、ギーバが大きな籠を片手に笑顔で立っている。足下にくっついているのは、息子のオレイオだ。


「こんにちは、ギーバさん。オレイオも」


「ああこんにちは。にしても、話すのが大分上手くなったねぇ。最初はうちのオレイオより辿々しかったってのに」


 陽気な口調で悪戯っぽく笑いながら、ギーバは片目をぱちりと閉じた。急に名前を出されたオレイオは首を傾げている。


 ―――テリノ・アシュトへ来てから一ヶ月ほどが経過した。


 その間、アズーロは約束通りラドグローグから言語についての教えを受け、今では日常会話と簡単な読み書き程度は出来るようになっている。


 昔、日本に居た頃に英語を身に着けるには現地に住むのが一番だとテレビで見たが、確かにその通りだったと痛感した。


「全部ラドグローグさんのおかげですよ」


「あの先生は出来たお人だからねぇ。こんな村には勿体ないくらいだよ」


 うんうん、と首を振りながら、ギーバは籠から未焼成のパン生地を取り出しアズーロの隣にある石台に置いた。大理石に似た乳白色の石の上には白い打ち粉がまかれ、パン生地の形を整えられるようになっている。


「アズーロ、おれとあそぼう!」


「これオレイオ!母さん達は仕事があるんだから、あんたはあっちで遊んでおいで!」


 母とアズーロの会話を様子見していたオレイオが、身を乗り出しながらアズーロを遊びに誘う。が、間髪入れずにギーバの檄が飛び、うわ、と小さく声を上げたオレイオが肩を竦める。


「ええー……」


「今夜のパンは要らないってーのかい?」


 不機嫌そうに口を尖らせるオレイオに、ギーバは留めとばかりに酸っぱく言い詰めた。さすがに主食抜きは嫌だったのか、途端にオレイオはくるりと身体を回して踵を返そうとする。


「っちぇ……じゃあ、アズーロ、あとであそぼうな!」


「うん、わかった」


 背を向けながら約束を取り付けると、満足したのかオレイオはそのまま駆け出していった。


 そんな子供の背中を、ギーバはやれやれといった風に見送っている。 ティファナに頼まれたパン生地を整えながら、アズーロは自然と口角を上げていた。元の世界にいたころは、さほど子供好きというわけではなかったが、ここに来てからは可愛いと思えるようになった。


 色々なことを経験し、辛さも知ってしまったからだろうか。

 未知数の未来を抱く小さな身体が、愛おしくも切なく思える。


 かつては対応に困る子供を敬遠すらしていたアズーロにとって、ある意味カルチャーショックともいえた。


「ったく、末っ子で甘やかされてるから我が儘でいけないねぇ」


 そんな風に顧みていると、ギーバが長嘆しながら、けれども温かい母性を滲ませた声で言う。


「ふふ。でもすごく可愛いですよ」


「ま、そりゃアタシの子だからね」


 離れた場所で笑い声を上げながら他の子供と遊び始めたオレイオを遠目に見つめるギーバの瞳には、どこの世界の母親にも見られる慈愛の念がありありと見て取れた。


 ここテリノ・アシュトでは『釜の日』と呼ばれる集まりがある。


 一週間が八日あるうち二日がこの釜の日とされ、この日、女達は釜場に集まり一斉に数日分のパンを焼くのだ。


 この世界での主食は小麦、つまりパンが主流であり、他にパスタに似た麺料理などが最も多く口にされている。


 日本の稲とは品種が異なるようだが、国の首都であれば米食も嗜まれているらしい。


 釜の日は女達にとっての井戸端会議日でもあり、石造りの釜が並ぶ焼き場では女性達の明るい笑い声が高い空に軽やかに響いていた。


「こんにちはアズーロ、ギーバ」


「こんにちはベルタさん」


「おやベルタ。今日は早いね」


「下の子が珍しく寝てくれたの」


 言って肩を竦めるベルタは、ギーバの幼馴染みの女性だ。


 軽やかに波打つ髪を高く結い上げた姿は、おっとりした彼女の淑やかさを良い意味で底上げしている。まさに人妻、といった容貌だ。


「あ、ギーバ、ベルタ! アズーロも来てたのね」


「こんにちは」


「わたしも来たわよー」


 焼き場に次々と顔を出した女性達が、楽しげな世間話に興じていく。

 みな片腕で抱えられるほどの籠からパン生地を取り出し整えると、火の入った釜の中へと入れていた。


 釜の大きさは大人二人が手を伸ばした程度の大きさで、三つほど並んでいるが一度に焼ける量は限られているため、順番は来た順だ。


 後々火が弱まれば焼師という役割の男性が炭を足しにくるが、そうなると帰りが遅くなるので割と争奪戦でもあった。


「アズーロ、今日はヤヌの実を持ってきたの。ティファナに渡しておいてくれる?」


「わかりました。いつもありがとうございます」


 ベルタに子籠に入った果物を渡されたアズーロは深々とお辞儀をし礼を述べた。

 ベルタは村にある果樹園の手伝いをしており、時々こうして果物を分けてくれるのだ。


 今日くれたヤヌの実は簡単に言えば林檎ほどの大きさの葡萄で、味は日本で食べたことのあるものより濃く、アズーロはとても気に入っている。


「村にはもう慣れたかい?」


「はい。みなさんが良くしてくださるので助かってます。この間はエバと一緒に、夜祭りに参加したんですよ」


「ああ、そういやあったねぇ」


 アズーロが持ち出した夜祭りの話題にギーバが反応した。


 夜祭りとは、毎週末に開かれる若者たちだけのお祭りである。


 と言っても内容はたんなる飲み会で、一応羽目を外しすぎないように村長が監視役を担っている。


 テリノ・アシュト村に住む年頃の男女の出会いの場であり、単に飲んで楽しみたいものもいれば、お見合いとして利用しているものもいる。もちろん、アズーロにはそんなつもりはないので今回はただエバとバルトと楽しむためだけに参加させてもらった。


 お酒についても、世界が違うとはいえ未成年なのだし、と断り、果実水のみで過ごした自分は固いのだろうか、とアズーロはちょっと自嘲したほどだ。


「楽しかったかい?」


「ええ、すごく。エバとバルドと一緒だったんですけど、二人がすごく沢山話してくれて。面白かったです」


「そりゃあ良かったねぇ。まあ、エバはわかるけど、バルドはねぇ……牽制するのに必死なのが丸わかりだねぇ」


「え?」


「あははっ! 気にしないで良いよ。夜祭りは独身の子だけの催しだからね。これからも楽しめばいいさ。アタシも旦那とのきっかけはそうだったしねぇ」


 誤魔化すように言ったギーバの横で、ベルタがにこにこしながら「あれは熱烈だったわぁ」とやや照れたように話し始めた。


「聞いてアズーロ。ギーバは飲み比べでは村で一番強かったのよ。しかもアタシに勝てない男とは結婚しない! って言い張ってたの。だけどこの子の夫……グレルモはギーバが好きで仕方なかったから、絶対勝ってみせる! ギーバを俺の嫁にする! って豪語して、本当は下戸なくせにギーバに飲み比べで挑んで、結果倒れるまで飲んじゃって……あれは本当、涙ぐましい努力だったわ」


「ベルタっ!? よしてよ、そんな昔の話っ!」


 滔々とベルタに過去を暴露されたギーバは慌てて彼女の話を止めようとする。


「うふふ。あんなに熱烈に求婚されて、嬉しかったくせに」


「っう……」


 しかし、にーっこりと深く笑んだ友人の圧に押されて黙らされる。慌てふためくギーバの姿が新鮮で、アズーロはくすくすと声を上げて笑った。


「ベルタ~~~~っもうその位で勘弁しておくれ!」


「うふふ」


 どうやら、ベルタにとって夫との馴れ初め話は気恥ずかしいらしい。


「アズーロにも良い人が見つかると良いわね」


「え」


 流石にこれ以上ギーバを虐めるのは気の毒だと思ったのか、ベルタが話をアズーロに降ってきた。虚を突かれたアズーロは思わずきょとりとしたが、良い人、の言葉に自分にはまだ遠い話な気がする、と思った。


 ちなみに、アズーロは今回、エバとバルドが左右を固めてくれたため、他の人間と話すときも二人が間に入ってくれて助かった。


 実のところはバルドが他の男を牽制どころか威嚇し、エバも同じく変な虫が付かないように見張っていたりしたのだが、それは本人のあずかり知らぬところである。


「アズーロまだ!? はやくおれとあそぼうぜ!」


 ギーバとアズーロ、そしてベルタの生地を焼いている最中、痺れを切らしたのかオレイオが焼き場の中へと入ってきた。


「これ、オレイオ!ここに来ちゃだめだって言ってるだろ!」


 それを、ギーバがすかさず叱りつける。


「だってひまなんだもん! なあ、あそぼうよアズーロ~~~っ」


 オレイオに袖を引っ張られて、アズーロは困ってしまった。まだティファナに頼まれた分のパンが焼けていない、あともう一度最後の分を焼きに入れねばならないのだ。


「ご、ごめんねオレイオ、」


「ったく、仕方がないねぇ。アズーロ、悪いけどこの子を見ててくれるかい? あんたんとこの分はあたしが焼いておくからさ」


「いいんですか?」


 断ろうとしたアズーロを見かねたギーバが助け船を出してくれた。


 そして椅子から立ち上がり両手を腰に当てると、オレイオに向き直る。


「いいかいオレイオ。アズーロの言うことをよく聞くんだよ。悪戯したらただじゃおかないからね!」


「う……わかった……」


「よし、じゃあ遊んでおいで!」


「うん! アズーロ、きゅうけいじょにいこう!」


「うん」


 小さな手に引かれるまま、アズーロは焼き場の隣へと連れて行かれた。


 焼き場の隣には、パンを焼き終わった人や子供達のために小ぶりな東屋が建てられており、休憩場所として利用できる。


 石造りの床の中心では大きなやかんが焚き火にかけられ、その周囲をぐるりと木椅子が囲んでいた。ちょっとしたお茶の時間が過ごせるようになっているのだ。


 アズーロ達が行くと、すでに小さな男の子が一人、焚き火を覗き込んでいるところだった。幼げな様子からオレイオより一つ二つ下に見える。三歳くらいだろうか。

 紅葉のような手には小瓶が握られている。


 周りを見ても母親はおらず、他に付き添っている者はいない。

 どうやら待っているのに飽きて、焚き火をいじっているらしい。


 アズーロは嫌な予感に子供から目を離さないままオレイオに訊ねた。


「ねえオレイオ、あの子、」


「しってる! ミエリのとこのルキだよ! さいきんむらにきたんだ。おーい! ルキ!」


「あ、待って今呼んだら……っ」


 案の定、ルキは声に驚いたのか、手にしていた瓶を焚き火の中に落としてしまった。


「あっ!」


 途端、焚き火の火が勢いよく燃え上がり、子供の背丈をゆうに越してしまう。瓶に入っていたのは油か何かだったよようだ。


 そのせいで、かけられていたやかんは、赤々とした焚き火の炎に瞬く間に包まれていく。それだけではない。勢いを増した炎はルキの身体すらまるごと呑み込もうとしていた。


(危ない……っっ!)


 アズーロは無意識に地を蹴った。

 無心でルキに向かって手を伸ばす。


 小さな身体が赤い炎に巻かれる寸前、指先がルキに届いた。代わりにアズーロの腕がまるごと炎に包まれる。


「っ……え?」


 ルキの身体を炎から遠ざけながら、アズーロはたった今自分に起こった出来事が信じられずにいた。


(熱く、ない?)


 愕然としながらも、焚き火の横に置いてある消火用水の入ったバケツを持ち火にかける。


 途端、じゅうぅ、と煙を上げながら火が消えていった。

 こげ臭さが鼻を突いた頃、ルキの盛大な泣き声で我に返る。


「びええええ!!」


「アズーロ、だいじょうぶ!?」


 心配したオレイオが駆け寄ってくる。それに大丈夫だよと返しながら、アズーロはルキの状態を確認した。


「ええと、ルキ? 私はアズーロだよ。急に引っ張ってごめんね。吃驚したよね。怪我は無い?」


 努めて笑顔で、安心させるように優しく語りかける。

 泣かせてしまったのは申し訳なかったが、見る限り火傷はしていないようで安堵した。


「おいルキ、なくなって。どこもいたくないんだろ?」


「ふぇ……いたく、ないぃ……」


「よかったな! おれがきゅうによんだからだ。ごめんな」


「うん……」


 オレイオがルキを慰めてくれたおかげで、漸くルキが泣き止んだ。ちょうどその時、パタパタという足音が聞こえ、振り向く。


「ルキ!」


「あ、ミエリだ」


 若い母親が慌てた顔でこちらに駆けてきていた。ルキの母親だろう。


「目を離した隙にこの子は……! 泣いたの? オレイオ、もしかして、ルキが何かやった?」


「たきびにびんをおとしちゃったんだ。でもルキはわるくない。おれがきゅうによんだせいなんだ」


「瓶? って、あ! これツネオイルのだわ! ああ、それで焚き火が……よく火傷しなかったわね。貴女が消してくれたの?」


「あ、はい」


「ありがとう。貴女がいなければどうなっていたか……怪我は無い?」


 しゃがみこんで我が子の無事を確認していた若い母親は、アズーロを見て礼を言った。丸い目が特徴的な可愛らしい女性だ。二十代も中頃といった外見で、淡い水色の髪を顎下で切り揃えている。


 確かオレイオはミエリと言っていた。


「あら? もしかして、貴女がアズーロ?」


「はい。そうです」


 女性はアズーロが頷くなり合点がいったとばかりに大きく頷いた。そして立ち上がり、やや前のめりにアズーロに話しかける。アズーロはバケツを地面に置いて居住まいを正した。


「まあやっぱり! 黒い髪の女の子がいるって聞いてはいたのだけど、本当だったのねぇ! とても綺麗で素敵だわ! 私はミエリっていうの。先週テリノ・アシュトに越してきたばかりよ。見た通り勿論【ヌッラ(無い者)】なの。これからよろしくね!」


「はい。こちらこそ」


 笑顔で差し出された手に握手を返しながらアズーロはラドグローグに教わったことを思い出していた。


 会話ができるようになったおかげで、この世界のことについても少しずつではあるが知識がついてきている。


 まず、アズーロが今いるのは【ヌドマーナ帝国】と呼ばれる海に囲まれた国であること。


 その国の最西端にあるのがここ、テリノ・アシュトだ。


 国の規模については見当もつかないが、ラドグローグによれば多くの村や街が散らばっていることから比較的大国にあたるらしい。


 中央には首都があり、帝国民の中でも【アヴェーレ】と呼ばれる者達がそこで暮らしている。


 彼らは所謂『力有る者』であり、帝国主神である龍蛇神ヌドマーナの血を色濃く引くがゆえに水の魔力を操ることができるのだとか。


 それを聞いた時、アズーロはまさしく異世界だと驚嘆した。


 けれども、聞き覚えのある【ヌドマーナ】の言葉に恐怖を感じたのも事実だ。


 彼女を殺めようとした男達、彼らが口にしていたのも確かにヌドマーナという言葉だった。


 国名を聞いただけで黙り込んでしまったアズーロを、ラドグローグがつぶさに観察していたことを、当人は知らない。


 この世界では、人間は二つの分類で分けられている。


 ひとつは【アヴェーレ】と呼ばれる青い髪の有魔力者達。そして、その逆である【ヌッラ】、つまり魔力を持たない人々だ。


 ヌドマーナではアヴェ―レというだけで手厚い保障を受けることができる反面、ヌッラにはまったくと言って良いほど救済措置がない。


 話を聞く限り、アズーロはこの世界は持つものと持たざるもので差別的な境界があるのだと理解した。


 ラドグローグに魔力はあるかと聞かれたのには驚いたが、アズーロはもちろん無いと伝えた。


 当たり前だ。そんなものがあれば元の世界では大事だったろうし、この世界について身についたような感覚もない。ラドグローグはなぜか納得がいっていない様子だったか、どうしてなのかはアズーロにはわからなかった。


 どちらにしろ、この国で【ヌッラ】は大抵が首都ではない場所に住む人々だ。ティファナやウルドゥ達然り、ミエリ達然り。


 正直、アズーロは【アヴェーレ】に会ったことが無いためどんな人々なのかはわからない。


(いつか、会うこともあるのかな……)


 そんな風に考えながら、オレイオと遊び始めたルキを眺めるミエリの話に耳を傾けた。


 炎に巻かれたにも関わらず熱さも、少しの火傷も負わなかった腕のことは……考えないようにして。

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