第22話 テリノ・アシュトの賢人


『もう日も暮れてきたことだし、中に入ろうか』


 ラドグローグの勧めで、アズーロ達は彼の家に招待された。


『ここに来るのも久しぶりー!』


 真っ先に先頭を歩き始めたエバが嬉しそうに言う。続いてバルドが頷いた。


『俺はたまに野菜を届けに来てるから、そうでもないけどな』


『バルドは居残りさせられたことの方が懐かしいんじゃない?』


『それを言うなよ……』


『うふふ』


 楽しげに会話を交わす二人を眺めていたアズーロだったが、玄関に一歩立ち上がるなり口角を上げた。


 瞳をぱちぱちと瞬かせる彼女の唇は、驚きと小さな感動でうっすら開いている。


(可愛い……! ここが教室なんだ)


 まるで物語の世界に立ち入ったような感覚に頬が緩む。もとより異世界であることからアズーロのいた現代世界とこのテリノ・アシュトは全く様相が違っているが、それでもここは格別だった。


 子どもの頃に映画の中で見たような、愛らしくも純朴な景色がこには広がっている。


 入ってすぐの小ぶりな広間には左右に大きな作り付けの本棚があり、これでもかというほどぎっしり本が詰まっている。色はとりどりで、よく使い込まれ大切にされているようだ。


 中央には経年劣化が微笑ましい木机や椅子が等間隔に並び、六人ほどが腰掛けられるようになっている。


 板張りの床にはところどころ凹みや傷があるが、落ち着いた深い緑色の絨毯が上品に敷かれていた。


 天井には子供が作ったのだろう枝を組み合わせた吊るし飾りが下がり、吹き込む涼風にゆらゆらと揺れている。木の質感と人の手のぬくもりが詰まった、温かい空間だ。


 初めて見る場所なのに、どこか懐かく感じた。


(バルドもエバも、ここで学んだのかな)


『アズーロはここに座るといい。そうだ、最近気に入りの薬草茶を出そう。エバ、悪いが手伝ってくれるかい?』


『はあい』


 ラドグローグに促され、アズーロは一番右端の席に腰を下ろした。その隣にバルドが座り、そのまた隣にティファナが座る。ラドグローグはエバを伴うと、教室の左奥側にある扉へと入っていく。

 あちらが住居スペースになっているのだろう。


『この机、懐かしいなぁ。あ、俺が彫った跡が残ってる。アズーロ、ほらこれ』


 バルドが指差した机の一部分を見ると、そこには以前彼が教えてくれた通りの文字で小さく『バルド』と掘られていた。昔の時分に彫ったものなのだろう。


 いたずらっ子なバルドの幼い姿が容易に目に浮かんで、アズーロはくすくすと笑った。


 そうすると、バルドの目元がさっと赤みを帯びる。隣にいるティファナは微笑ましいと言わんばかりにふふ、と笑みを零したあと、足音につられて室内の左側に目を向けた。ラドグローグとエバが盆を手に戻ってきているところだった。


『お待たせ。少し飲みながら話そうか。彼女の紹介と、今後のことについて話があるのだろう?』


 ラドグローグが切り出したのをきっかけに、ティファナはアズーロを預かることになった経緯と、今現在バルドが教えている字について相談を始めた。

 アズーロも自分の名前を紹介されたことに会釈を付け足す。


 反面、続いて文字の読み書きについての話が出た頃にはバルドは居心地が悪そうにしていた。


 本当は二人っきりで教えてやりたかったからだ。せっかくの特等席を失うのは残念どころではなかったが、今は口を挟める状況ではないと口を噤んだ。隣では、後ろの席に座っているエバがにやにやしながらバルドの背中を小突いている。


『バルドってね、ほんっとうに悪ガキだったんだから』


『お、おいやめろよっ、エバ!』


 ティファナとラドグローグが話し込むのを横目に、エバは身振り手振りを加えながら昔のバルドの話をしてくれた。


 ラドグローグに悪戯を仕掛けようとして返り討ちにあった話や、テストの点が悪いのを隠そうとして植物紙を畑に埋めようとして見つかっただとか、どれも可愛らしい話題ばかりだ。


 だが当人は焦りっぱなしで、エバが出す過去話一つ一つに必死になって言い訳をしている。


 体躯の大きな男が慌てるのが可笑しくも可愛らしくて、アズーロは楽しげな二人の幼少期を自分のことを思い返しながら聞いた。


 ややあって十五分ほど経った頃だろうか。


 ラドグローグがうん、と一つ頷いた。


『事情はわかったよ。バルドには悪いが、アズーロには僕が教えたほうが良いだろうね。彼女には、他にも色々と教えておかねばならないことがあるようだから』


 柔く微笑みながら言うラドグローグの言葉に、ティファナが頷く。


『それが良いわ。バルド、ごめんなさいね?』


『あ、あはは……』


 付言するティファナにバルドはただバツ悪気に笑うしかない。ただ首はがっくりと肩の下に落ちているあたり、深い諦念に駆られているらしい。


『一人で来るのが不安なら、誰か友達を連れてくるといい。誰か当てはあるかい?』


 ラドグローグに目を向けられアズーロはひとつ瞬く。


『ああ、まだ友達の語句はバルドに習っていないのだね。そうだな、どう表現しようか……』


 言葉の意味を伝えるためラドグローグが逡巡していると、バルドが『あ、なら俺が』と片手を挙げた。まるで授業中のような所作である。彼の後ろでは、エバが『結局あんたが教えたいだけでしょ』と文句をつけていた。バルドは続ける。


『アズーロ、『アミクォ』っていうのは友達って意味なんだ。えーっと、おいエバ、お前手貸せ』


『何よ』


『これが『アミクォ』、友達ってことだよアズーロ』


 バルドがエバと自分を指さしてから、彼女と握手を交わした。それを見て、アズーロは意味に思い当たる。


(友達……って意味なんだ。だったら……)


「エバ。アズーロ、アミクォ」


『えっ?』


 得心したアズーロはさらりとエバのもう片方の手を取ると、ぎゅっと握りしめた。そしてにこにこしながら彼女と繋いだ手を軽く掲げ、ラドグローグに友達は彼女だと伝えて見せる。


 ラドグローグはふわりと笑んで応じた。


『ああ、わかったようだね。そうか。君の最初の友達はエバか。なら彼女と一緒に来るといい。エバ、頼めるかい?』


『っ……ええ、かまわないわよっ』


 訊ねられたエバが一瞬言葉に詰まりながら了承した。彼女の声は少し上擦っていて、顔もかなり赤くなっている。アズーロはエバと手を繋いだまま、なぜ赤くなっているんだろう? と小首を傾げた。


『アズーロ……俺は……? っておい、もしかしてエバお前、照れてるのか』


『ううう五月蝿いわねっ!』


 真っ赤になったエバが容赦なくバルドの頭を叩いた。無論、アズーロと繋いでいない方の手でだ。


『痛ぇ! 何すんだよエバ!』


『アンタが悪いのよ!』


「ふふっ。エバ、バルド、アミクォ』


 前後の席で喧嘩を始めた二人をアズーロは楽しい気持ちで眺めていた。


 元の世界で、自分は男子とこんな風に過ごしてはいなかったけれど、似たような光景を教室で見た覚えがあったなと少しだけ郷愁の念に駆られた。


 けれど、目の前の二人がやいやい言っている中に今は自分も含まれているのだと思うと、寂寥感とは別に嬉しさも抱いていた。


『―――ティファナ。少し話しておきたいことがある』


 はしゃぐ三人の隣で、ラドグローグが抑え声でティファナを呼んだ。


『どうしたの?』


『あくまで噂だが。―――【アヴェーレ】が、珍しい髪色の少女を探しているという話だ』


 彼の話に、ティファナの顔色がさっと青褪める。用意された薬草茶のカップを握る手は僅かに震えていた。


『そ、れは……』


『黒髪の少女かどうかはわからない。だが用心した方がいいだろう。このような僻地に彼らが足を運ぶとは到底思えないが……既にこの子の髪については村民の目にも触れているだろうし、口外しないよう僕から言っておこう。ウルドゥにもそう伝えておいてくれないか。何も無ければそれに越したことはないんだが』


 そうであってほしくない、と言いたげに首を横に振ったラドグローグは、起きたことへの後悔よりも未来への対処を口にした。これこそが、彼がテリノ・アシュトで賢人と呼ばれる所以である。


『ええ、そうね……』


 ティファナは束の間浮かんだ眼裏の景色にそっと蓋をし、ただ静かに長嘆した。



『―――文献には確かに【赤い髪の少女】とある……よもやとは思うが……』


 アズーロ達が帰った後。


 ラドグローグはひとり、宵の月を見上げていた。


 丸々と太った月は今夜はやけにほの紅く見える。


 まるで生き血が一滴滲んだように不気味な色をしている、とラドグローグは感じた。


 赤い月は血が流れる前兆とも言われている。


 やがて流れてきた雲が月を隠し、辺りは闇と閑寂に包まれた。しん、とした空気に不思議と生ぬるい風が交じる。


 不吉な風だ。


 東から吹く風は死を運んでくるのだと伝えられている。


『……いや、よそう。たとえ彼女がそうだとしても、これもまた神々の思し召しだろう。はたして我らの信じる神が、まこと神であるかはわからないが―――』


 テリノ・アシュト村の賢人は、ただ一人胸のうちに深い疑念をしまい込んだ。

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