第21話 二人の少女


「いやあ! 来ないでええええ!」


『どうしたんだよアズーロ!?』


『何なの、一体……』


 泣き叫びながら震えるアズーロの尋常ならざる様子に、バルドもエバも驚愕していた。


 ティファナが彼女を抱きかかえ宥めようとするが、一向に収まる様子はない。

 それをラドグローグだけが静かに、じっと見据えている。


『アズーロ、大丈夫。大丈夫よ……!』


「お願いっ……お願い殺さないでえっ!」


 とめどなく涙を零し、真っ青な顔で頭を地面に擦り付けてまで懇願するアズーロの言葉が、足元の影に吸い込まれていく。


 アズーロの脳裏に浮かぶのは、思い出したくない忌まわしい記憶だ。


(どうして!? どうしてこの人がここにいるの!?)


 混乱と恐怖がアズーロの心を黒く覆っていた。


 覚えているのだ。忘れられるわけがない。

 自分を殺そうとした人間の顔を。


 精巧に作り込まれた端正で冷たい面、長い髪、無機質な純白の装束。

 そして男の瞳孔が―――蛇のように、細かったこと。


 その男はアズーロにとって死と連動していた。

 生まれて初めて明確に死ぬ感覚を味わったのだ。


 彼女にとって忘れ得ぬ恐怖の象徴だった。


 あの時感じたのと同じ、足元から氷結していくかのような凍れる恐怖に、身体が拒否反応を起こし痙攣している。


『ねえっ、この子、ラドグローグ先生を見た途端こうなったわよね!?』


『ああ、だけど、どうしてなんだ!?』


『アタシにわかるわけないでしょ! 先生は思い当たることはある!?』


 バルドとエバの二人は困惑しながらも状況を考察していた。特にバルドは震えるアズーロの様子があまりに痛々しくて、自分のことのように辛そうに胸元を握りしめている。


 本当はティファナのように抱きしめてやりたいのに、それも正解かわからず固唾を飲んでいた。


『……ティファナ。僕は少し席を外す。君たちも、そこにいてくれ』


『え? ええ』


 唐突にラドグローグはそう告げた。


 彼は皆から離れると、一直線に家屋の中へと入ってしまう。


『ちょっと、先生っ!?』


 エバはまさかラドグローグがそんな態度に出ると思わず焦った声を上げた。

 この状況を放り出すなど、一体どういうつもりなのか。


 と普段のラドグローグからは考えられない無責任な行動に唖然とする。


『なあティファナ、アズーロは一体何があったんだ……? すごく、怯えてるみたいだ……』


 アズーロから人一人分空けて地に片膝をついたバルドは、そっと窺うようにティファナに尋ねる。


 しかし、ティファナはアズーロを抱きしたまま静かに首を横に振った。


『わたしにもわからないの。怖い目に合ったようだけど……話は聞けていなくて』


 ティファナはアズーロの顔を覗き込みながら彼女の背を擦ってやった。


 華奢な身体は気の毒なほど小刻みに震えている。


『顔が真っ青だわ……冷や汗まで掻いてる。ねえアズーロ、ここには怖い人はいないのよ。大丈夫なのよ……』


 堪らずしゃがみ込んだエバが、幼子にするように優しくアズーロに語りかける。


 けれど、その声もアズーロには届いていない。ずっと「殺さないで」と虚ろな表情で泣いて言い続けている。その尋常ならぬ様子に、エバは涙目になりながらつい、ぽつりと零した。


『もしかして、この子……その、アヴェーレに、』


『エバっ!』


 言いかけた言葉をバルドが咄嗟に制止した。

 彼の目線の先は、ティファナに向いている。


 エバは自分の口元を抑えてはっとした。青ざめた顔に浮かんでいるのは、後悔だ。


『あ……』


『いいのよ、バルド。エバも。気にしないで』


 ティファナが眉尻を下げて優しく言った。けれど、その顔には明らかに苦悩が浮かんでいる。


『ご、ごめんなさい』


 エバはティファナの古傷を抉ってしまったことを侘びた。


 つい口を突いて出てしまったとはいえ、決して言葉にすべきではなかったと悔やむ。


『大丈夫よエバ。わたしよりアズーロが心配だわ。このままでは、心が壊れてしまいそうで……』


 ティファナは沈痛な表情でアズーロを見つめた。彼女の腕の中にいる少女はずっと震えながら泣いている。


 恐らく何かが彼女の触れてはいけない琴線に触れたのだろうが、これでは話を聞いてやりたくとも難しい。三人は途方にくれた。


『―――待たせたねティファナ。悪いが少し彼女から離れてくれないか。僕が話をしよう』


 声にティファナ達が振り向くと、そこには先程とは違った様相のラドグローグがいた。


『え、先生?』


『だけど……ええ。わかったわ』


 ティファナは一瞬逡巡したが、頷いてアズーロを抱いている手をそっと放した。そして少し後ろに下がる。


 対して、エバとバルドの二人は初めて見るラドグローグの姿にぽかんとした顔で呆気に取られていた。


 ラドグローグは長髪を右側に流していたのを右側にひとつ結びにしていた。


 そのうえ頭に乗せていた『学者の証』である装飾具も外している。服も純白ではなく蓬色(よもぎいろ)の落ち着いた長衣に着替えていた。


『アズーロといったね』


「ひっ……」


 彼はアズーロの前に膝をつき、彼女の顔を真っ直ぐ見た。


 びくりと身体を震わせ身を引くアズーロに、優しくそっと語りかける。


『僕は君の知っている人物と似ているかな。同じに見えるかい?』


 ラドグローグは小さな子供に語りかけるようにしてアズーロに尋ねた。怯えきった少女の瞳は泣き濡れて、硝子玉のように澄んだ透明な色をしている。


 その奥にあるのは、この村、いやこの国では誰も持っていないはずの大地の色だ。


 なんと美しい色だろうか。


 ラドグローグは久方ぶりに純粋に、ただ目の前にあるものを賛美した。


 アズーロの持つ色にはすべてぬくもりがあった。


 瞳の虹彩は命を育む大地の色を映し、髪もただの黒ではない。身体に巡る血脈が滲む、人間が生きる上で決して失ってはならない熱を含んだ色彩である。


『僕の名はラドグローグ。ここで教師をしているんだ。だから―――神官ではないよ』


 膝を付き、片手を自分の胸元に添えてゆっくりと彼はアズーロに語りかけた。

 慈愛を含んだ声に導かれ、アズーロが恐る恐るラドグローグに目を向ける。

 彼女の焦げ茶色の瞳が、目の前の人物を捉えた。


「あ……」


 するとそこには、ただ柔和な笑みを浮かべ、服が土で汚れるのにもかまわず地に膝をついてアズーロと目線を合わせる中年の男性がいた。


 年の頃はおそらく三十代後半。

 目元には優しく薄い皺があり、瞳の瞳孔は細いが、眼差しには『あの男』とは違った人間らしい温かみがある。


(この人、は……?)


 先程とは服装も髪型も変わっているせいもあって、アズーロの記憶にある人物とは全く違う人間に見えた。


 いや、事実そうなのだ。


 それがようやく認識できる。


(髪……青くない。目も……怖くない。あの人とは、別人……!?)


 少しずつ、段階を踏むようにアズーロの脳内で理解が進む。

 すると同時に彼女の身体から震えが消えた。


 目の前にいる人は、あの蛇のような冷たい男ではない。瞳の色は暖かく、表情もあるれっきとした人間だ。


 そう思った瞬間、凍ったように冷たくなっていたアズーロの手足から体温が一気に戻ってくる。痺れたように麻痺していた五感がようやく風の匂いや土の手触りを思い出した。


『わかって、もらえたかな?』


「あ……わ、私……っ私、ご、ごめんなさいっ……!」


 我に返ったアズーロだが、今度は違う意味で青ざめた。今ならはっきりわかる。目の前にいる人はあの冷酷な男とは全くの別人だ。


 だというのに、勝手に人違いをして、泣きながら怖がるなんてとんでもないことをしてしまったと。


(わ、私何てことを……!)


 慌てて平謝りしながら、アズーロは穴があったら入りたい心地だった。


『どうやら正気に戻ったようだね。良かった』


 しかし目の前の男性は優しく微笑むだけで、怒った素振りは全く無かった。


 彼はティファナ達に振り返ると『もう大丈夫だ』と一言告げる。


『アズーロ、元に戻ったのね。大丈夫? 立てるかしら?』


 歩み寄ったティファナが手を差し出してくれた。アズーロはおずおずと握り返し立ち上がると、みんなに向かってぺこりと頭を下げる。


「さ、騒がせて、ごめんなさい」


『あ〜良かったー! 震えも止まってるし、もう大丈夫みたいだな!』


『ちょっと、アナタ顔すごいことになってるわよ。ほら、こっち向いて』


 安堵したバルドが大きく息を吐き出しにかりと笑い、エバはスカートのポケットからハンカチを取り出してアズーロの顔を拭き始めた。


 二人ともかなり心配してくれたようだ。エバに至っては、まったくもう、と文句を言いながらも涙目になっている。


「心配させてごめんなさい……ありがとう」


 アズーロは覚えた単語を使って謝罪と感謝を伝えた。すると、顔を拭いていたエバの手がぴたりと止まり、そのままがばっと抱きつかれる。おかげで後ろによろけてたたらを踏んだ。


「わっ、ととっ」


『アズーロの馬鹿……! 心配させないでよっ……!』


「え、エバ、苦しい……」


 今度はエバが泣き出す番だった。アズーロがちょっと苦しいくらい強く抱きついてきた彼女は、だばだばと涙を溢れさせながら怒っている。安心して気が緩んだのだろう。


 だが、エバの頭がもろにアズーロの顎に当たっている。少し痛いのを我慢して、アズーロはエバの背中を擦ってやった。


 それを見たバルドは驚きで口をあんぐりと開けている。


『うわ、エバが泣いた!』


 エバは高飛車で豪快なのが特徴で、そんな彼女が泣くのは子供のころ以来だった。


『あらあら』


『おやおや』


 ティファナとラドグローグは微笑ましげにアズーロ達を見つめていた。村長の孫であるエバは性格もだが、立場的にも他の女の子たちからやや敬遠されているきらいがあった。


 けれどアズーロのおかげで、本音を出せる友人を得たようだ。

 それはきっとアズーロにとっても良い影響を及ぼすだろう。二人はそんな風に思った。


『わたしにも、あんな頃があったわ……』


 少女二人を眺めながら、ティファナが呟く。ラドグローグはその横顔に目を移すと、ただ黙って静かに頷いた。


 ティファナの過去を知る彼は、当時の【彼女達】がどんな凄惨な目に合ったか知っていた。


 ここテリノ・アシュトの村民は全て【ヌッラ】だ。


 力無き者を総称するこの名をラドグローグは好まない。けれど、それが事実でもあった。


 首都から遠く離れたこんな僻地に、なぜ彼らは住み、生きているのか。

 理由はひとつしかない。


 そう【強いられた】からだ。


 そこに至る道程に置いて、ラドグローグは【ヌッラの女性達】こそが真の被害者であり犠牲であったことを理解していた。実際、目にしてきたからだ。


 ラドグローグも、ティファナも、この少女達には同じ不幸が訪れぬようにと、そう心の内で願っていた。


 重ねて。

 ラドグローグは、自分と瓜二つの顔を知っているアズーロについて、一つの仮説を抱いていた。


 またその仮説が、ともすれば世界を変えてしまうかもしれないことも―――

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