第20話 忘れ得ぬ恐怖


(―――オレイオ、可愛かったなぁ……)


友人に手を振るティファナを横目に、アズーロは内心ぼんやり呟いた。


道端には濃い影が落ち始めている。

ギーバ達の家を後にしてから、他に数件の家々を回り、畑にいた者など村民にひととおり挨拶をし終えた頃には、夕日が二人を見送る時分になっていた。


『大体みんな会えたかしらね。ああそうだわ。最後にラドグローグさんのところにいかなくちゃ』


ティファナが思い出した、とばかりにぽんっと柏手を打つ。


「ラドグローグ、さん?」


『ええそうよ。この村で唯一の先生なの』


おそらく人名であろう単語にアズーロが反応すると、ティファナは「ラドグローグ、レストロ」と続ける。

それから動作で文字を書く仕草をした。おそらく教師という意味だ。


(先生がいるんだ……そりゃいるよね。あれ? でもそうしたら……?)


ラドグローグ先生の家はあっちよ、と指差すティファナに付いていきながら、アズーロは文字や言葉を教えてもらうのをその先生にお願いすれば良かったのではないかと思った。


昨日はバルドが教えてくれたが、彼には畑があるし、わざわざ時間を割いてもらうのも申し訳ない。

それに比べ、ラドグローグという人は教える専門家なのだ。

本人から許可が出るかは別として、早く覚えるためには教えを請えるかどうか聞いてみても良いのでは、と考える。そうすればバルドに手間をかけずに済むかもしれない。


そんな風にバルドのことを思い出していたからだろうか。

噂をすれば、とは言ったもので、ちょうど彼の姿が道の向こうから見えてくる。


(あ、バルドだ)


『おーい! アズーロ! ティファナ!』


バルドはアズーロ達を見つけるなりぱっと笑顔を浮かべて駆け出した。それを見たティファナが『まあ、まるでよく懐いた子犬だわねぇ』と言って笑う。


『二人とも! 今日はみんなに挨拶して回ってたんだって?』


走ってきたバルドがやや息を切らせて聞いた。今日もよく働いたのだろう彼の頬はほんのりと赤く、夕日でより一層赤く見えた。ぐいと拭う額には汗と、作業中についたのだろう泥が少し混じっている。


『ええ。アズーロの紹介をしてたのよ』


『そっかー……これで他のやつらにもアズーロのことバレちゃったんだな』


ティファナの言葉に、バルドはがくりと肩を落とした。彼はもう少しだけ他の男達からアズーロを隠しておきたかったのだが、願いは無に帰したようだ。

昨日から彼女の噂に興味津々だったテリノ・アシュトの年頃男子達は、きっとアズーロを見て一気に色めきだっただろう。


なにせこの美しさである。夜空のような黒髪もさることながら、それを際立たせる黒玉のような澄んだ瞳と、まろやかな乳白の肌はここの女性たちとは違って神秘的だ。

そのうえ彼女のまとう空気には不思議な静謐さがあり、村に慣れていないのだろう理由をとっても明らかに別格の存在だった。


『ふふ。バルドには面白くないかしら』


『あっ、いやっ、あははー……まあ、ライバルが増えるのはやっぱさぁ』


図星を突かれ、ははは、とから笑いしつつバルドは気まずげに頭を掻いた。ティファナは意味ありげに微笑んでいる。アズーロには二人の会話はまだよくわからない。なのでこてりと首を傾げた。


『アズーロ、明日から大変だろうなぁ……ただでさえうちの村って気の強い女ばっかだし、そんな中でこんなに可愛い子が来たとなれば……』


『あら、気が強いってわたしもかしら?』


『いやっ、ティファナは違うよ! まあ、しいて言うなら……エバとか』


ティファナの手痛い突っ込みにバルドは慌てて弁解した。そして、話を逸らそうとエバの名前を出してみる。

彼の苦し紛れのごまかしに、ティファナは年長者の余裕で軽く肩を竦めた。


『エバに聞かれたら叱られるわよ?』


『どころか、殴られるなー……ははは』


くすくす、と笑うティファナにバルドが嘆息して同意する。二人は何やらエバの話をしているらしいとアズーロも隣でとりあえず相槌を打った。すると、どこからかだだだだ、という足音が聞こえてくる。


『バルドおおおおおっ!』


『げっ!?』


(あれ? エバも来た)


声に振り向けば、全力疾走でこちらに向かってくるエバがいた。

彼女の美しい水色のポニーテールが茜色に輝き、動きに合わせてぶんぶんと激しく揺れている。


『やべっ、見つかった……!』


「バルド?」


狼狽するバルドの声に彼を見ると、なぜかじりじりと後退していた。どうもまずい状況のようだ。

切羽詰まった表情から察するに、エバに会うのを避けたかったらしい。


『アンタぁっ!! よっくもお祖父ちゃんに告げ口してくれたわねえ!?』


『ちょっ、来んな馬鹿っ! っぐはあっ!』


逃げ出そうとするバルドに追いついたエバが華麗な飛び蹴りを食らわせるのを、アズーロはあっけに取られ眺めていた。まるでスローモーションのように、空飛ぶエバと蹴りによって吹っ飛ぶバルド、という光景が展開される。


(うわぁ……痛そう……)


『ふん! あーすっきりした! ……あら、アズーロじゃない』


「え、エバ……」


ぽかんと固まるアズーロに気付いたエバは、ふう、とまさにひと仕事終えたように息を吐き、長いポニーテールをさらりと肩の後ろに流した。


『まあまあ、どうしたのエバ。バルドが何かしたの?』


『ティファナ。そうなのよ……! こいつ、アタシが今朝の通路掃除さぼったこと、お祖父ちゃんに告げ口したのよ!』


『あら、そうだったの』


『ありえないでしょ! おかげで共用お手洗いの掃除までさせられたのよ!』


エバはかんかんだ。少し離れた場所ではバルドが見事に地面に突っ伏しており、ぴくりとも動いていない。


(バルド大丈夫なのかな……?)


アズーロは恐る恐る彼に近付いて、バルドの肩をちょんちょん突いてみた。するとばっと顔を上げたバルドが彼女を見るなり青い顔を赤く変えた。


『アズーロ、もしかして心配してくれたっ?』


そして、そのままがばりと起き上がる。それも笑顔で。


(バルド、飛び蹴りされたのに笑顔だ……もしかして、そういう趣味……?)


アズーロがまさかそんな想像をしているなどと思わないバルドは、心底感動した、というきらきらした表情で地面の上で正座した。その姿はさながら従順な犬のそれだ。


『俺は大丈夫だよアズーロ! これでも結構頑丈なんだ! エバの蹴りくらいどってことないさ!』


『へー……じゃあもう一発食らわせてあげましょうかっ!?』


満面の笑みで言ったバルドだったが、間髪入れずにエバの声がしたため再び顔をさーっと青ざめさせた。彼の目線の先、アズーロの頭の上方向には仁王立ちのエバがいる。


『アズーロ、はいこっち』


「え、あ、エバ?」


アズーロはエバに両肩を掴まれ横に移動させられてしまう。

正座するバルドの前にエバが陣取る。彼女の細い肩から何やら恐ろしいオーラが立ち上っているのをアズーロは感じた。


(こ、怖っ!)


『歯ぁ食いしばりなさいバルド』


『お、おいっ! やめろって! お前ほんと凶暴だな!』


『なぁんですってぇ!?』


バルドは防御の体勢で背中を仰け反らせた。が、余計な一言がまずかった。いきり立ったエバが彼に詰め寄り足技を繰り出そうとする。

アズーロは思わず目を瞑った。すると。


『ほらほら、二人とも。そこまでにして頂戴。アズーロはまだ挨拶しに行くところが残ってるんだから』


鶴の一声がエバの動きを止めた。地面を離れたばかりの彼女の足裏が元の場所に戻る。そして振り向いたエバの表情は不満げではあったが、諦めたように息を吐き口を開いた。


『ティファナ。もう……わかったわよ。でもバルド、今度告げ口したらただじゃおかないからね』


『わ、わかったって。悪かったよ』


『じゃないと、他の男どもにバルドが出し抜いてアズーロに粉かけてたって言ってやるから』


『それはマジでやめてくれ! 何されるかわかったもんじゃねー……!』


『だって図星じゃない』


『う゛』


ティファナの一声は効果抜群で、エバは大人しくなりバルドも素直に謝罪した。感心して見ていたアズーロも、エバは怒らせないようにしよう、と心に誓う。


『それじゃ、ラドグローグさんのところに行きましょうか。アズーロ』


「はい」


『えっ、ラドグローグさんとこ!?』


手招きするティファナに従い行こうとすると、再びバルドが素っ頓狂な声を上げた。


『なによバルド。何かまずい事でもあるの』


『い、いやそういうわけじゃ……』


『エバ。きっとバルドは先生役を取られたくないのよ』


ティファナが一言添えるが、エバは意味がわからない、と首を傾げる。


『先生役も何も、ラドグローグさんは先生そのものじゃない』


『昨日ね、バルドがアズーロに文字を教えてくれたみたいなの』


アズーロは昨日のことをティファナ達に伝えていた。その結果、ウルドゥは今後の彼女のためにも知識をつけてやりたいと考え、挨拶ついでにラドグローグへアズーロの指導を依頼することにしたのだ。

このことを本人はまだ知らない。


『はあ? バルドがアズーロに? ……へえええ?』


 ティファナの話を聞いた途端、エバは面白い事でも見つけたようににんまりと笑う。


『な、なんだよエバ』


『バルドお、アンタって確か字ぃ下手だったわよね? そもそも勉強大嫌いだし。な・の・に! どういう風の吹き回しよ? ほんっと抜け目ないんだから!』


『べ、別に良いだろそんなこと!』


『良くないわよ! 字ならラドグローグ先生が教えてくれるじゃない! この村の子達みんな、アンタやアタシ含めて全員そうでしょ!』


『う……』


『どうせ自分が教えたかったとか言うんでしょ! 鼻の下伸ばしちゃって、あー! みっともない!』


『ううう五月蝿いなっ!』


『先生に言っちゃうんだから。バルドは先生役するくらい勉強したいみたいですって!』


『か、勘弁してくれ……! ティファナ、俺もついてくから!』


『はいはい』


(あれ、喧嘩したかと思ったら今度はじゃれてる。仲良いんだな、バルド達って)


真実など露知らず、アズーロは二人のやりとりを微笑ましく眺めていた。苦笑しているのはすべての事情を知っているティファだけだ。


―――そんなこんなで、ティファナ達はなぜかバルドとエバも連れてラドグローグのところへ行くことになったのである。




『ここがラドグローグさんのお宅よ』


(他の人の家と比べるとかなり大きい。先生ってやっぱり地位のある職業なんだな)


夕日が地平に落ちる寸前、アズーロ達は村でも西の外れにある一軒家にたどり着いていた。

ラドグローグの家は村長であるガスト宅と遜色ないほど立派な構えをしていた。庭先には綺麗に整えられた花壇が並び、こじんまりとではあるが丸太で拵えた東屋もある。そこでは長い水色の髪の男が一人、机に座って本を読んでいた。あれがラドグローグだろうか。


腰ほどもある長い水色の髪の頭頂には装飾具が乗っており、身に付けている衣装は地に着くほどの長衣だ。アズーロは、その姿に見覚えがあった。


(あれ、は……)


男がゆっくりと振り向いた瞬間、アズーロが凍りつく。


『あ! ラドグローグ先生! ねえ聞いてよ! バルドったらね!』


『おいエバ!』


エバが明るく名を呼び、師の元に駆けていく。


『やあエバ。それにティファナとバルドも―――おや? その子は……』


『こんにちは先生。もう耳には入っているでしょうけど紹介しにきたの。アズーロよ。 ……アズーロ?』


ここでようやく、ティファナはアズーロの異変に気がついた。彼女はその場に縫い付けられたように硬直し、目を大きく見開いたまま微動だにしない。顔色は青く、唇は小刻みに震えている。

黒い瞳にあるのは深い恐怖で、彼女は呼吸すら止めていた。


『アズーロ、どうしたんだ?』


『ちょっと、アナタ真っ青じゃない……』


バルドもエバも、アズーロの変調に戸惑いを隠せない。


『アズーロ? アズーロどうしたの? 返事をしてアズーロっ』


ティファナが必死に呼びかけアズーロの肩を掴み揺すっても、彼女は身を震わせるだけで一言も発しない。


『どうした、体調でも……』


ラドグローグも心配しアズーロに近づこうとした。けれど彼が一歩踏み出した瞬間、アズーロが反応する。


「いっ――――いやあああああああっ!!!』


彼女は悲鳴を上げた。喉が裂けたかのような声だった。


「いやぁっ! 来ないで! 来ないでぇっ!」


『アズーロ!』


アズーロはその場に蹲り嗚咽を漏らしながら全身をがたがたと震わせていた。

その身体を、ティファナが抱きしめる。

エバとバルドはわけがわからずに慌てふためいていた。


けれどラドグローグだけが、じっと静かな水色の瞳で、怯えて泣き叫ぶ少女の様子を観察していた。


彼の顔、衣装のすべてが【あの男】と全く同じであることを思い出しながら―――


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