第4話 崩壊
「準備出来た?」
夕日が差し込む教室で、帰り支度を済ませた友達が、璃の机の端を人差し指でとん、と叩いた。
茜色が、彼女の華奢な指先を仄かに染めている。
「うん。待っててくれてありがとう」
スクールバッグを肩にかけた瑠璃はそう返事をして椅子から立ち上がった。
「そ。じゃ、行こっか」
「え?」
すると唐突に、友達にがしりと腕を掴まれる。
瑠璃は目をぱちりと瞬いた。
掃除当番が終わって、後はもう帰るだけだ。
友達とは帰り道が違うが、途中にある交差点までは一緒なので、入学してからはたびたび一緒に帰っている。
だけど友達は、瑠璃の腕を掴むやいなや、ぐいぐいと引っ張り、教室を出て下駄箱とは反対の方向に進んでいく。長い廊下には、四角い窓枠の影が等間隔に並んでいた。
「ちょ、ねえ、帰らないの?」
戸惑いながら友達の背中に問いかける。
「なに言ってんの。屋上に行くに決まってるじゃん」
「え……」
友達は立ち止まることなく背中越しにそう言った。瑠璃はまるで頭を殴られたかのように、その言葉に愕然とする。
手紙のことを思い出す。
あの手紙を受け取ってから、変なことがもう二回も続いている。
嫌な予感がした。
「呼び出されたんだから、いかなきゃね」
「で、でも私―――」
やけに強引な友達に違和感を覚える。
瑠璃はなんとか説得すべく言葉を続けた。
正直言って、今日はこのまま帰りたいのだ。
奇妙なことが連続しているし、これ以上いつもと違うことをするのは避けたい。
それに、どう言えば良いのか、手紙のことを考えると変にざわざわと落ち着かない気分になるのだ。
虫の知らせとも言うべきか。
もしも今日、屋上に行ってしまったら、取り返しのつかないことになるような、そんな気がした。
だから、手紙の送り主には悪いが、瑠璃は行くつもりはない。
「あのね、今日はちょっと行くのやめようかなって……」
ずんずん歩いていく友達の背中にもう一度話しかける。
すると突然、友達の足が止まった。
「っわ」
瑠璃はつんのめり、友達の背中にぶつかりそうになるのを慌ててたたらを踏んで堪えた。
やっと止まってくれた、とほっとして顔を上げれば、友達が瑠璃の腕を掴んだままこちらに振り向いていた。
どこか空虚な、焦げ茶色の瞳と視線が合い、ぎくりとする。
「だめだヨ」
無表情で友達が告げた。
少しの温度も無い、平坦な声だった。
まるで一切の感情が、抜け落ちてしまったかのような。
無機質な人形を相手にしているみたいな錯覚を覚える。
「オマエは屋上に行くんダヨ」
どこか片言で、けれどきっぱりと、抑揚のない声で命令するように冷たく断言される。
普段はころころと変わる友達の顔は虚ろで無表情だった。
瑠璃を見ているが、見ていない。
瞳は光を失ったように色を無くしている。
瑠璃は異変に顔を顰めた。
何かが、おかしい。
「どうして……行かなきゃいけないの」
「呼ばれてイルかラ」
問いかけに応じながら、友達が腕を痛いほど強く引っ張る。けれど瑠璃はその場から動かなかった。足をぐっと踏ん張り、抵抗した。
「私、行きたくない」
嫌だ、と横に首を振って腕から友達の手を外そうと指をかけた。
すると逃さないとばかりに、友達が掴ううんだ腕にぐっと爪を食い込ませてくる。
その力は驚くほど強く、ぎりりと軋む腕の痛みに瑠璃の顔が歪んだ。
「痛いっ……」
「行くんダ!!!」
「っ」
友達がくわりと顔を怒らせ怒鳴り声を上げた。
目も眉も吊り上がり、苛立たしげに歯をぎりりと食いしばる面は般若のごとく恐ろしく、瑠璃は恐怖に凍りついた。
これは一体、誰なのか。
まるで別人の友達の様子に瑠璃の頭が一層混乱する。
しかも彼女は自分とそう体格もかわらないというのに、掴んだ腕ごと瑠璃を引きずるようにして屋上へ向かって歩きだした。
どれだけ足を止めようとしても、凄まじい力で引っ張られてかなわない。
「ま、待って……!」
瑠璃の背中にじわりと嫌な汗が滲む。
様子のおかしい友達は振り返りもしてくれず、瑠璃の話など聞いてくれない。
叫ぶべきか、誰かに助けを求めるべきか、逡巡する。
けれど不思議と周囲には全くというほど人の気配が無かった。
放課後とはいえ、まだ残っている生徒や教師がいるはずなのに。
いつの間にか廊下はしんと静まり返っている。
風の音や、虫の声さえ聞こえない状況は、瑠璃の心臓をばくばくと大きく打ち鳴らした。
そうこうしている間に、瑠璃はとうとう屋上へ続く階段の上まで連れてこられていた。
場所は校舎の西側一番奥。
炎にも似た赤い日が差す階段の段差に、真っ黒い影が横たわっている。
そこに、瑠璃達の足音だけが忙しなく響く。
友達が屋上の扉を開けた。ギィ、と耳障りな音がして、鉄製の古ぼけたドアが開く。
空間が広がり、夕日の赤が瑠璃の目を突き刺した。
「っ……わっ!」
思わず目を細めた時、ぐい、と腕を引っ張られる。
身体が前に倒れ込み、瑠璃は友達と入れ替わるように灰色のコンクリートの上に飛び出た。
足の裏に、冷たい地面を感じる。
瑠璃は後ろを振り返って友達を見た。
そして、目を見開く。
友達は扉を一歩出た状態で立ち尽くしていた。
表情は呆然としていて、まるで自分がなぜここにいるのかわからない、とでも言いたげだ。
「え……? 瑠璃? あたし、何で……?」
友達の戸惑う声が聞こえた。ああ、やっと彼女が元に戻った。
瑠璃がそう思った、次の瞬間―――それは起こった。
ずるり。
「ひっ!」
瑠璃は目に映るおぞましい光景に悲鳴を上げた。
「ぇあ……?」
友達は、不思議そうに自分の手で『顔の右側』に触れている。
ぐちゃり。
彼女の指先が触れた部分、皮膚の表面が、こそげ落ちるように剥がれた。
「っあ……」
友達がぽかんと口を開けた。
唖然とした声に、恐ろしい音が続く。
―――ずる。
―――どしゃ。
―――べしゃっ
―――ぐちゃ。
最初に、顔の右半分の肉が剥がれて落ちた。
剥き出しになった表情筋の筋から、真っ赤な血が吹き出している。
垂れた血が、瑠璃と同じ紺色のセーラー服の襟を汚した。
夕日のせいかそれはより一層赤く見え、瑠璃が見ている前でゆっくり、けれど確実に友達の顔は崩壊を始めた。
灰色のコンクリートの地面に、血と皮膚と、肉片が剥がれ落ちて、弾けて、散っていく。
右半分の次は鼻が鼻孔ごとこそげ落ちた。その下、人中から上下唇がべろりと外れる。
二匹のナメクジのようになった彼女の唇が、ぼとっ、と地面に落ちた。
波が砂を剥がしていくように、友達の顔は右から左に皮膚と肉を失っていく。
「ぃひ、ぁやぐ、っ……」
崩れていく。友達の、顔が。
日常のすべてが。
瑠璃はそれをただ見ているしかなかった。
あまりにおぞましい光景に、身体が凍りついて動けない。
友達の顔から血が吹き出し、紺色のセーラー服を濡らしていく。
夕映えを帯びた空の下、灰色のコンクリートが鮮血に染まる。
人間の顔が崩れていく様というのは、実際目にすると想像を絶していた。
だからこそ瑠璃は、友達を助けねばという思いとは反対に、その場でただ震えるしかできなかった。
瑠璃の眼の前で、友達だったはずの女生徒の顔が人間からただの肉塊へと変わっていく。
剥がれた皮膚から、肉から、真っ赤な血液が溢れ出し彼女のセーラー服をどんどん汚していった。
友達の全身が瞬く間に血だらけになった。
『ㇶ、ヒ、ヒノ、ムス、メェ……』
友達の喉から、壊れたからくり人形のような片言の声が聞こえた。
声音は友達だが、違う。
『別人』の声だ。
「い、や……」
瑠璃は怯え、震え、両目から涙を滂沱のごとく流しながら、友達が崩れていくのをただ呆然と見つめていた。
身体が動かない。
頭は真っ白で、ひどい状況に思考が追いついていない。
そうして、友達の彼女の顔の皮膚という皮膚、肉片のすべてが落ちきった頃、ぐらり、と華奢な身体が傾いた。
「ひ、ぐ」
膝がかくん、と関節が外れたように、友達の身体が斜めに倒れていく。
まるでコマ送りの映画のように、その光景は鮮烈に瑠璃の目に焼き付いた。
友達の身体がぐしゃりとコンクリートの地面に落ちる。
辺り一面が鮮血に染まり、飛び散った血が狂い咲きの薔薇のように広がっている。
そこから飛んだ血飛沫が、瑠璃の顔に数滴、張り付いた。
瑠璃は呆然として自分の頬に触れた。
目で確かめた指先には、友達の、人間の血と、ごく小さな肉片らしき固形物が付着していた。
「や―――」
瑠璃は戦慄し、幼子のようにいやいやと首を振るばかり。
ただ拒絶したかった。
こんな、酷い有り様を。
「い、いやああああああああ!!」
ばたばたと顔を泣き濡らし、絶叫に咽ぶ瑠璃の慟哭が血色の空に木霊した。
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