第5話 叫呼召喚


「―――なん、なんでっ、いや、いやだ、何で、何でええええっ!!」


 瑠璃は友達の血がついた自分の頬を両手で掻きむしりながら必死に叫んだ。

 疑問は悲鳴となって、色鮮やかな茜空へと吸い込まれていく。


「ぁ……あ、あ、あ」


 瑠璃は混乱と、恐怖と、焦燥のなか倒れた友達に手を伸ばそうとした。かく、と膝から力が抜ける。


 瑠璃はその場にどさりと崩折れるように膝をついた。コンクリートの床に脛をぶつけたが、痛みを感じる余裕すら無い。


 伸ばした指先が空を彷徨う。身体が震え、自分が繰り返す浅い呼吸音がやたら大きく聞こえていた。 


(なんで、どうして、どうすれば。違う、助けなきゃ。そうだ、助けなきゃ)


 腰が抜けて震える身体を無理やり動かし、這いずるように倒れた友達のそばへと近づく。膝の下で友達の血がぐちゃりと擦れるのが聞こえた。


 地面に倒れた友達の周囲はまるで花が開いたように血液が広がっていた。瑠璃はその前でしゃがみ込み、


 髪が乱れた頭に泣きながら手を伸ばそうとした。


『———……』


「っ」


 指先が触れる直前、右耳の後ろ側で、誰かの声が聞こえた。


『カエ……リ……タイ』


「っひ」


 咄嗟に背後を振り向く。


 けれど誰もいない。いるはずがない。見えるのは、ただぐるりと広がる赤黒く染まったフェンスだけ。


 最初からここには瑠璃と、友達しかいなかったからだ。

 真っ赤な血色に染まる、がらんとした屋上があるだけなのだ。


「っ……」


 固まる瑠璃の意識を覚ますように、彼女の肩にぽつりと何かが降り落ちた。びくりと反応した瑠璃は動けずにいる。途端、今まで雲の気配すらなかった空から、ざあっと雨が落ちてきた。


 突然降り出した雨は瞬く間に雨足を強くして、瑠璃の身体を濡らし地面に水の波紋を描いていく。


 瑠璃はきゅっと唇を引き結び、雨を無視して友達に目を向けた。倒れた身体の下にある血が、雨のせいで滲み広がっている。


 恐怖と怯えを無理やり追い払い、瑠璃は意を決して友達の顔に触れた。

 顔にかかった髪を払い、剥がれ落ちて血だらけの筋膜と骨が剥き出しになっている面を確認する。


 まず呼吸をしているかどうかを見るため鼻のあたりに触れた。指先の震えが止まらない。


 友達の皮膚はまだ温かく、瑠璃の手にべったりと赤い血がこびりついた。けれど息の風を感じないことにぞっとして、自分の目からまた流れ出した涙が雨と交じるのを瞬きで振り払う。


(心臓、マッサージ……? でも、触っちゃいけないかもしれない。誰か、助けを、呼ばなきゃ)


 気が動転しながらも、何とか頭を動かしすべきことを考えた。夢でも見ているのだと思いたいが、匂いも、感触も、温度も、音も、五感のすべてがこれは現実だと伝えてくる。


 打ち付ける雨が冷たい。このままでは友達の身体だって冷え切ってしまう。


(動け、私の身体、動けっ!!)


 友達を助けねば。

 たとえ、もう息をしていなくとも。


 恐怖を振り払うようにぐっと身体に力を込めた瑠璃は、一度目をぎゅっと瞑ってから再び開いた。


 脚に気力をすべて注ぎ込み立ち上がる。早く誰かに知らせなければ。

 今この場には瑠璃しかいないのだ。自分がやらねば。


 雨で濡れた身体を動かし屋上にただ一つある出入り口へと向かう。

 鉄製の扉は夕暮れに暗く染まり、ひどく重たげだ。


 瑠璃はやっとの思いでドアノブに手をかけた。


『『『カエリ、タイ』』』


「っ!?」


 再び、声が聞こえた。

 それも「間近」から。


 誰かの助けならばどれほど良かっただろう。けれど、違う。瑠璃の本能が警鐘を鳴らしている。


 危険だと。


 身体が強張り、ドアノブを握った手が小刻みに震えた。

 声はまるで『すぐ耳の横で呟かれた』かのようだった。


 女の声だ。

 それも一人ではない。


 例えるならばテレビから聞こえる多重音声に似ていた。幾重にも重なった女達の声だ。


「ぅ、ぁ、ぁ……っ」


(もういや。もう嫌、もう嫌っ!!!!)


 愕然として、瑠璃は心で繰り返した。友達を助けねばならない。助けを呼ばねばならない。


 なのに、次から次へとおかしなことばかりが邪魔をする。

 瑠璃の足下では、空から降り落ちた雨が弾けていた。


『『『カエリタイ』』』


「っ」


 瑠璃はもう一度聞こえた声をぎゅっと手に力を入れて無視した。


 こんなものに構ってなどいられない。友達の命がかかっているのだ。

 がちゃり、とドアノブを回し扉を開ける。緊張で力の入らない肺に無理やり空気を吸い込み、口を開く。


「誰かっ……!」


 助けて!!!


 そう叫ぼうと、して。


「ひっ!?」


 背筋に凄まじい怖気を感じて、瑠璃は喉を引きつらせた。

 短い悲鳴を漏らし、焦げ茶色の瞳をくわりと大きく開く。

 背中にぴったりと、巨大な氷塊を押し付けられているような感覚だった。


(嫌だ。見たくない。振り向きたく、ない……っ!!)


 そう懇願する彼女の意思に反して、ぎぎぎ、と首がひとりでに後ろを振り返る。まるで、誰かに無理やり動かされているように。


 瑠璃が見た先、眼球のすぐ目の前には、ひとつの小さな雨粒があった。

 ただの雨粒ではない。


(う、そ……っ)


 雨が。

 雨が―――止まっていた。


 降り止んでいるわけではない。


 空から地面へと落ちるはずの雨粒が、凍り付いたようにぴたりと虚空で停止しているのだ。


 無数の雨は時を止め、まるで瑠璃を取り囲むように、びっしりと空間に張り付いている。


「な―――」


 恐怖で硬まる瑠璃は無意識に、雨粒の奥に視線を向けた。


「ぃっ、」


 向けて、喉から声ではない音を出した。


(か、かおっ……顔がっ)


 驚愕と恐怖で瑠璃の顔が大きく歪む。


 彼女が凝視しているのは、小さな雨粒に浮かぶ誰かの『顔』だった。


 女だ。

 見たこともない、黒く長い髪の女。


 生気のない青ざめた顔の女が、恨めしげな目でじっと瑠璃を見据えている。


(私を、見てる……っ!?)


 恐怖が染み込んだ瑠璃の身体は、がたがたと激しく震え始めた。


(ぜんぶ、全部あるっ……いるっ、みんな私を見てる……!)


 顔の浮かんだ雨粒はひとつではなかった。


 様々な女達の顔が、瑠璃を取り囲む無数の雨粒の中に「いた」。

 それもみな苦悶の表情を浮かべ、血走った恨みがましい目で彼女を凝視している。


(や、だ……いやぁっ!)


 強烈な視線の雨だった。

 無数の女たちの目が、鋭い針のように瑠璃の全身を突き刺している。


『『『カエリタイ!』』』


 顔が口々に叫び始めた。夥しい数の女達の声が、瑠璃の頭に大音量で鳴り響く。


『『『カエリタイ!』』』


 それは絶叫の合唱だった。


「痛ぅ、っ」


 凄まじい声量に鼓膜が破裂しそうになる。激しい恐怖と痛みに襲われた瑠璃は堪らず耳を押さえてその場に蹲った。女達の顔を見ないようにぎゅうと強く目を瞑る。眼尻から零れた生理的な涙が、彼女の頬を濡らした。


(やめてっ……!)


 夢か現か。

 自分はもしや夢を見ているのか。


『『『カエリタイ!カエリタイ!』』』


 声は止まない。


 まるで、逃げようとする瑠璃を引き摺り出すかのように。


『『『カエリタイ!カエリタイ!』』』


「っ、ぅ、ああっ」


 むしろ次第に、大きく強くなっていく。


 耳殻から脳を鷲掴みにされるようだった。脳髄の奥を杭で刺し貫かれるがごとき激痛に、瑠璃の顔が苦悶に歪む。額に脂汗が浮かび、痛みで頭の芯が痺れ始めた。


(やめて……! やめてやめて叫ばないでっ!! 頭が割れる!!)


『『『カエリタイ!!』』』


「きゃ、あぁっ」


 瑠璃が心の声で返すと、反発するように女達の声はより一層音量を増した。

 恨みがましい湿った声は纏わりつくようで、なおかつ恐ろしいほどの強い怒りの念も感じる。


 怨嗟に混じった悲鳴と怒声が、刃となって瑠璃の頭と心を刺した。

 あらゆる感情を含んだ音は、ただひとつの言葉だけを繰り返している。


『『『カエリタイ! カエリタイ! カエリタイ! カエリタイ!』』』


 女達は狂ったように叫んでいた。


 ただその言葉だけしか知らないとでも言うように。


「五月蝿い!! ……っやめてよ! あんた達なんて知らない!! 邪魔、しないでよお……っ!!」


 瑠璃の頭はもうぐちゃぐちゃだった。友達を助けたいのに、声のせいで頭がひどく痛み、足も竦んで一歩も動けない。


『『『カエリタイ! カエリタイ! カエシテ!カエセ! ワタシヲ、ワタシタチヲ―――……』』』


 急に単調だった言葉が変化した。それを合図に、突如として声が消える。


「……?」


 蹲る瑠璃の周囲を静寂が包んだ。


 辺りがしんと静まり返ったかに、思えた時。


 ざあ―――と。


 降る雨の音が返ってくる。


 声は聞こえない。聞こえなくなっていた。


(……?)


 その場に蹲っていた瑠璃は恐る恐る目を開けた。


「……止まっ、た……?」


 彼女がそっと顔を上げると、雨粒はいつの間にか上から下へと平常通り落ちていた。


 足元には、しとどに濡れた濃い灰色のコンクリートがある。


(おさまったの……?)


 瑠璃は立ち上がって辺りを見回した。


 やはり誰もいない。


 彼女はぎゅっと強く自身を抱き締めた。かたかたと小刻みに震える身体は先程の出来事の名残りを訴えている。


 ばくばくと破裂しそうな心臓の音が、早くここから逃げ出せと警鐘を鳴らしていた。


(今のうちに……っ!)


 恐怖に押し流されるように、瑠璃は身体を動かした。助けを呼ばなければ。

 ばっと立ち上がり、階下へ続く階段に躍り出るように脚を踏み出す。


 教師でも、生徒でも、誰でもいい、誰か―――その時ふと、潮の香りが鼻を掠めて。


(海の匂い? どうして―――)


 瑠璃が通う高校は田舎の山の麓にある。


 よって、周囲に海はない。

 あるのは川と、緑だけ。

 なのに、なぜ。


 そう、疑問を感じた瞬間だった。


『『『『『ワタシタチヲ、カエセエエエ!!!!!』』』』』


「ひっ―――」


 声は瑠璃の真後ろ。

 はっきりと。


 同時に瑠璃の身体が真後ろへと急激に引っ張られた。

 咄嗟に伸ばした手はドアノブを掴むことなく空を切った。


「!」


 身体が凄まじい速さで引っ張られていく。

 どこへ?


 フェンスの方へ―――そうして、瑠璃の身体は空へと投げ出された。


(うそ……っ!?)


 驚愕に限界まで瞳が見開く。

 全身が浮遊感に包まれ、ぐらりと傾いたそのままに倒れていく。


 仰向けの視界を、黒い雨雲が覆っていた。


(そん、な)


 叫ぶ暇もなく、瑠璃の身体は急速度で落下を始めた。


 風に煽られたセーラー服のスカートがばたばたと地団駄を踏むように鳴く。

 長い黒髪が視界に蓋をし、景色を線状にする。


(落ち、る―――!)


 瑠璃の脳裏に転落死の文字が過ぎる。


 走馬灯など浮かばなかった。

 何も考えられない。


 ただ、どうしてこんな事に、というそれだけ。


 思い返してみればおかしなことばかりだった。


 差出人不明の手紙に始まり、指先の火傷、鱗の男、六つ目の白蛇、そして友達の、顔の肉が削げ落ちたこと。女達の声も。


 そして今、自分は得体のしれない何かに殺されようとしている。


 こんな荒唐無稽な話、一体誰が信じてくれると言うのだろう。


 自分はきっと、このまま地面に叩きつけられて死ぬのだ。

 抗う術はない。もがいても、手足はただ風を抜けるだけ。


 茶色い、運動場の地面が迫る。

 瑠璃は死を覚悟した。


(死にたくないっ……!)


 衝撃で身体は潰れ、ひしゃげ、死ぬ。

 そう思った。


 しかし、訪れたのは衝突の痛みではなく、ざぶりと大きな水音で。


「っ」


 全身が大量の冷水に包まれる感覚。

 凍てつく寒さはまるで冬の海のよう。


 また同じ匂いが鼻を掠める。

 そう。

 さきほど感じたのと同じ。


 潮の匂いだ。


 あの時と同じ匂いが、今もする。


(———?)


 疑問が彼女の瞼を押し上げた。

 地面に叩き付けられるという予想は裏切られ、気が付けば瑠璃は一面の青の中にいた。


(う、み———?)


 深く、濃い青だった。

 底のない、どこまでも暗い深淵の青。


 瑠璃は小学生の頃、夏休みに行った海水浴を思い出した。

 初めての海に張り切って潜り、浸水数メートルの水中で目にした海の奥には、これと同じ深い青が広がっていたと。


 頭上からは揺らめく白い光が微かに差し込んでいる。

 だが足元は———果てしなく暗く、濃く、そして青い。


 瑠璃は地面でもなく屋上でもなく、深い海の中にいた。

 全方位に広がる濃青は下へ向かうほど闇が濃い。


(私、死んで、ない?)


 てっきり地面に叩きつけられ、無残な姿になるのだろうと思っていた。

 激痛を感じ、一瞬の間に死ぬのかと。


 けれど今、瑠璃の身体はどこも痛みを感じていない。

 それともここは死後の世界だろうか。

 追いついていない頭で必死に考える。

 全身の肌を刺す痛いほどの冷たさはやけにリアルで、僅かに動けば白い泡が湧き出した。


(水……水の、なか?)


 髪が藻のように揺らめいている。不思議と呼吸はできていた。

 屋上から海の底へなんてこと、現実ではありえるはずもない。


(ってことは……)


 瑠璃は結論付けようとした。やはりこれは夢なのだと。

 もしかすると自分は屋上で待ち疲れて居眠りでもしているのではなかろうかと。

 であれば相当間抜けな話だが、そうでもなければ説明のしようがなかった。

 しかし『現実』は、彼女にもっと【残酷】で。


「「「———かえりたい……」」」


「っ!」


 希望に反して、水に浮かぶ瑠璃の頭にまた女達の声が鳴り響いた。

 けれど今回は片言ではない。はっきりと日本語として認識できた。


「ここはどこ!」

「家に帰して!」

「人違いよ!」

「私じゃない!」

「子供の所に帰して!」

「夫に会わせて!」

「殺さないで!」

「お願い!」


 全部違う女性の声だった。

 様々な女達の悲痛な声が瑠璃を責め立てるように鳴り響く。


 女達は叫んでいた。


「かえして!」

「私達を!」

「還してよ!」


 必死に、否、それ以上に決死の思いが伝わるほどの声音で、悲鳴を上げるように口々に嘆いている。それは胸が裂けるような、悲嘆に暮れた声だった。


(っ……何でっ)


 瑠璃は無我夢中で耳を押さえた。


「「「かえして! 私達を! 還してよ!!」」」


 声は消えてくれない。

 頭に直接刺すように響いてくる。


(もう叫ばないでよっ! 何で私に言うのっ。何を言ってるのっ、わけがわからない―――っ!)


 瑠璃は目を強く閉じ、歯を食いしばった。

 なおも止まない声に、とうとう限界がくる。

 本能が声に応えるなと警鐘を鳴らしても、言わずにはいられなかった。


「———いい加減にして!!」


 瑠璃は喉から声を絞り出した。必死だった。


「黙ってよ!! 私はあんた達なんて知らない!! 関係ない!!」


「還し、テ–––……」


 瑠璃の叫びに声が消えていく。


 反響音すら残さず忽然と、空気から音が消えた。


 周囲がしん、と静まり返る。

 まるで、世界から音が失われたかのように。


「?……ひっ、いやあっ!!」


 次の瞬間、不気味な静寂に目を開けた瑠璃が見たのは、深海の視界いっぱいに広がる巨大な女の顔だった。

 大樹のように恐ろしく大きな女の顔が、ぎょろりと血走った眼を瑠璃に向けている。


「ぁ、あ、あ……」


 喉奥で悲鳴が消えていく。

 呼吸は掠れ、心臓は早鐘となって打ち付ける。巨大な女の顔は一瞬ごとにその面相を変えていた。


 数えきれぬ女の、幾千、もしくは幾万にも及ぶ顔が奇妙に混ざり合っているのだ。

 吊り目の女、垂れ目の女、気の弱そうな女、強そうな女。


 どれもこれも女ばかり。みな瑠璃と同じくらいか、すこし上くらいで。

 顔は怒りに満ちているものもあれば、悲しみに暮れているものもあった。


 しかしどれも似通っていたのは、憎悪にも似た恨めし気な負の感情である。見た目が顔だから顔と形容できるだけで、その実は奇怪な肉の塊のようにも思えた。


(な、に―――!?)


 異様な光景に瑠璃は戦慄した。

 絶句して声も出せない。


 身動きも出来ず、浅く呼吸するのがやっとだった。人とは言えぬ幾人もの女の顔が彼女に告げる。


「お前も同じ」


 女の顔は恨めしげに瑠璃を睨んだ。瞳から滲み出した赤い血が、巨大な顔を汚していく。


「お前も」


 血は口の端からも漏れ出て、鼻からも額からもあらゆる場所から赤い筋が雨垂れのようにいくつも落ちている。


「ぃ、や……」


 瑠璃の歯の根がかたかた鳴った。異様な女の顔が鮮血で真っ赤に染まっていく。血に塗れた顔が瑠璃に告げた。


「お前も」

「お前も」

「お前も呼ばれる」

「私達と同じように」

「そして、殺される」


 台詞の一つずつが違う女の声だった。

 だが彼女たちが何を言っているのか、瑠璃にはわからない。


 あるのは恐怖だけ。


「殺して。あいつらを」


「復讐して。私達の恨みを、晴らして」


 女達は理由も述べずに、瑠璃へ復讐を命じる。


「どうして!? どうして私に言うのっ!?」


 瑠璃が声に絶叫した。叫んだ彼女の周りで涙が飛び散った。


『『『ワタシタチヲ、カエシテ―——!』』』


 その声を、女達のさらなる悲鳴が掻き消した。


 ざざ、と音が続く。

 瞬間、海の水がぐるぐると周り始めた。


 水が引いていく。


 さながら栓を抜いたように、潮はとぐろを巻きながら瑠璃の周囲を周り、下へ下へと下がっていく。


 やがて海の青が地に着いた頃、足元から赤い色がちらつき始めた。


 ぼう、と何かが燃える音がする———炎だ。


 炎が爆ぜている。

 それも瑠璃の足元で。


(火が————)


 じりじりと焼かれる熱さが、『彼女』から発せられていた。

 赤い炎はたちまち燃え上がり、瑠璃の視界を明るく照らした。


 炎は火焔となり、海の残り香を燃やした。

 水を蒸発させ白い煙柱へと変え、空に舞い上げていく。


 瑠璃の視界が炎の赤と、白に染まった。


(不思議———)


 瑠璃は白煙に手を伸ばした。炎に巻かれているというのに、不思議と熱くはなかった。

 彼女の足元では海の水が炎を飲み込まんと抵抗している。


 水位を落とした潮はからくも満ち引きを繰り返していた。


 けれど炎は水を走り、白い泡と蒸発した白煙を次々に生み出していく。


「———私達を還して———どうか———」


 憎悪と恨みに満ちていた声が、悲しい啜り泣きに変わる。

 瑠璃の目の前で、女面が泣いていた。


 さきほどまでの狂気を消し、ただ悲しみにむせび泣く女性達の顔は、瑠璃の胸を痛いほどに締め付けた。


「……お願い……」


(あ―――)


 か細い声を合図に、せめぎ合う二つのぶつかりを見ていた瑠璃の意識はやがて、引き剥がされるように遠のいていった。


 同時期。


 瑠璃の通う高校の屋上に、黒い影が佇んでいた。

 フェンスのすぐ前にじっと立ち止まり、虚空を見つめている。

 まるで、消えた瑠璃の後を追うように。

 『影』はやがて、風に紛れて掻き消えていった。

 一人の少女の遺体とともに。


 瞬間、地の奥底より咆哮が上がった。

 それは大地の叫び。


 大和神やまとがみの憤怒が溢れ出したかに思えるほどの轟音だった。

 瑠璃の消えた校舎からは残っていたのだろう幾人もの人々の悲鳴が聞こえた。

 世界は震え、その振動にすべてが呑み込まれていく。

 地を裂いた亀裂は深い底無しの谷となり、建物や人、樹々を闇の腹へと落とし込んだ。

 何が起こっているのかわからない人々は世界が沈んでいくのをまざまざと目にしていた。

 大和の国を包む海が巨大な幕を引くように緑の大地へと押し寄せる。

 雪崩れこんだ潮が青く大地に充ち満ちていき、家も土も人も全てを覆い尽くした。


 ―――そうして。

 この日、日本を中心にすべての世界が青き海へと沈んだ。

 古来より変わらないものがあるとすれば、時折もたらされる自然への回帰であろう。

 人は海から産まれ、土へと還る。

 雨に流された土は再び、海へと還る。

 すべては巡り、循環しているのだ。

 過去と未来が共存する海は今、その胎に一人の少女を抱いて、遥か異界へと運ぶ———

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