第6話 決死覚醒


『現れたぞ』

『今度はどうだ』

『使えそうか』


(誰かの声がする―――)


 薄く、人々の声が聞こえた。


 女の声ではない。今度は何人もの男達の声だった。

 ざわめきに導かれ、瑠璃の思考と感覚が僅かに戻ってくる。

 けれど、強烈な圧迫感が彼女を苦しめた。


「っ」


(っなに? 息ができない、それにすごく、寒い……!)


 息苦しさに慌てて酸素を取り込もうとした。なのに喉奥に塩辛い液体がせり上げてきて上手くいかない。


「っ、ごほ、げほっ」


 咳き込んだ喉からは空気の変わりにごぼりと水と泡の混じったものが噴き出てくる。


 塩気が鼻腔に入り込んで痛い。また覚醒した意識と感覚が、彼女に凍てつく冷たさを思い出させた。


『数値は』

『低層です』

『これもか』


 男達が口々に何事かを告げている。


 声は反響していて、それに混じり水滴が落ちるのが聞こえた。

 薄く開けた視界に、頭だけ突き出ている人影がある。


 丸く、ぐるりと囲むように並んでいるようだ。人影は、瑠璃を見下ろしていた。


(誰……? どうしてこんなに寒いの。身体も、動かない……)


 瑠璃はやっとの力で唇を僅かに動かした。その拍子に、ひゅ、と掠れた吐息が口から漏れる。


 声は出なかった。


 腕を上げようとしたが四肢の感覚が無い。手足が縫い付けられているかのようだ。それに痛みを感じるほどに身体が冷たかった。


 濡れている感覚がある。全身がそうだ。凍え死にそうなほど寒いのはそのせいで、瑠璃は自分が仰向けで水に浸かっているのだと自覚した。


(誰か、助けて)


 朦朧とする意識の中で瑠璃は助けを求めた。


 水に濡れた身体。動かない手足。声すら出せぬほどの消耗。凍える寒さ。

 このままだと確実に命を失ってしまうと本能で感じた。


『瀕死です。転移の影響でしょう』


 低いしわがれた声がする。何を言っているのかはわからない。だが、とても冷たい声だった。

 言葉は日本語ではなく、英語にも聞こえない。


『これでは使い物になりませぬ』


『ふむ』


(どうして助けてくれないの。何を言っているの)


 淡々と会話を続ける人々に瑠璃の焦りが募る。薄く浅い息を繰り返しながら、細い視界でなんとか周囲の様子を探ろうとした。


 だが人が居ること以外では天井の白さと、なにか渦巻く模様がそこに描かれていることぐらいしかわからない。


(口の中、塩辛い―――)


 潮の匂いが口内と鼻に充満していた。目から溢れているものが海水なのか、涙なのかは瑠璃自身も判別がつかない。


 ただ自分が異常な状況に置かれていることしか、彼女には知りえなかった。


『死ぬのも時間の問題でしょう』

『次なる召喚呼び水を急がねば』

『そうじゃそうじゃ』


護神長ごしんちょう、如何なさいます』


 最後に誰かが何事かを言った直後、ざわめきが消えた。


(なに……? 急に静かになった……?)


 訝しむ瑠璃の耳に、こつりこつりと靴音らしきものが響いてくる。続いて衣擦れが聞こえて、視界にひと際大きな人影が写り込んだ。背が高いのか、人影は遥か上から瑠璃を見下ろしている。


 周りをとり囲んでいた人影が消え、気配が一人分だけになった。


 ぴちゃり、と。


 水滴が落ちる音がした。


(……あお?)


 人影の頭と思しき場所に青い色が見える。それはぼやけた視界でも鮮明に見えるほど、深い色をしていた。


 濃い青ともいえる。しかし複雑な碧ともいえた。あれは恐ろしく深い海原うなばらの色だ。


 肌の色は白く、着ている衣装も白い。目鼻立ちが整っているのか、鼻梁の陰影が際立って見えた。服装は首元が詰まった長衣を纏っている。胸には飾りらしきものが垂れ下がっている。


『———また黒い髪の者か。瞳も土色とは。異界の者はなんと汚らしい』


 瑠璃を見下ろす人物が忌々し気に告げる。やや高い男性の声だった。声音は酷く冷たく、一切の温度が感じられない。


 不穏な空気を感じ取り、瑠璃の心が不安にざわついた。


(だれ……? 私、どこにいるの? 何を話しているの?)


 数度瞬きを繰り返し、なんとか目を凝らしてみる。身体は相変わらず動かない。まるで水に張り付けにされているかのようだ。


『なぜに御神はこのようなものを欲されるのか。理解しがたい。だがまあ、同胞を捧げるよりは、都合よいことは確かだな』


 吐き捨てるような声と嘲笑めいた響きに、瑠璃の気分が益々悪くなった。

 寒くて苦しくて助けて欲しいのに、この人は頼ってはいけないと彼女の直感が訴える。


(さっきからずっと……どこの言葉なんだろう。わからない。ここはどこ? あの女の人の顔は……一体、どうなってるの?)


『『『護神長、どうかご指示を』』』


『———ふむ』


 状況が把握できない瑠璃を追い立てるように、一斉に声がする。


(な、なに?)


本能が警鐘を鳴らしていた。脈が早まり、冷たい身体に血が巡りはじめる。


(あ———)


 途端、ぱっと眼球に一気に血が通ったかのように、瑠璃の目の前が鮮明になった。

 開けた視界では、恐ろしく美しい男が自分を見下ろしていた。


「っ」


 瑠璃の焦げ茶色の瞳がかっと見開く。


『ほう、気付いたか』


 純白の衣装を身に纏った長身の男が薄く笑った。男の青く長い髪が動きに合わせてさらりと揺れる。


 瞬間、男の瞳の瞳孔がきゅうと線のように細くなった―――まるで蛇のように。


(あお。青い、髪———)


 ここでやっと瑠璃は男の全体像を見た。


 男は長く青い髪を持っていた。

 肩に垂れる濃青が純白の衣装に映えている。


 青い頭頂には銀細工の冠があり、飾りがしゃらしゃらと揺れていた。

 長衣の絹地には一面の銀刺繍が施され、眩しいほどの輝きを放っている。

 どこか神職にも似た高貴な雰囲気を纏う男だ。


 しかし、髪と同じ青い瞳は氷海のごとく冷たく凍てついていた。怜悧な瞳孔は蛇のように細く、およそ人ならざる異質な気配を感じる。

 中性的な顔立ちのためか、年齢は見た目で判断できない。ただ硬質なほどに整った鼻梁や輪郭が、まるで造り物のように瑠璃には思えた。


 凝視する彼女の視界で、男の薄い唇が開く。


『———殺せ』


『はっ』


 男の言葉に従い白装束を着た者達が再び瑠璃をとり囲んだ。彼等は男に一度頭を垂れてから向き直り、白い懐に片手を入れ何かを取り出した。


(なん———)


 瑠璃は目を瞠った。


 白装束達が取り出したのはきらりと煌めく鋭利な刃物だった。形状と長さからして小刀だ。時代劇で観た覚えがある。


 そしてその切っ先は、限界まで目を開く瑠璃に向いている。


『次なる召喚の贄となれ。異界の者よ』


 中性的な男が冷たく言い放つ。


 白刃が七つ、動けぬ瑠璃の頭上に掲げられた。 


(っ)


 一片の躊躇いもなく、刃が振り下ろされる。


 その瞬間、死の予感に動かなかったはずの瑠璃の身体が反射を起こした。

 彼女は飛び起きて、本能的に後ずさっていた。そのために仕損じた刃が左脚を掠めた。ばしゃんと大きく水が撥ねる。


「っ、きゃあああっ!!」


 瑠璃の左脚ふくろはぎの外側に、焼けた鉄杭を押しつけたような熱い感覚が走った。


 彼女の紺色のスカートから伸びた白い足に、ざっくりと深い刀傷ができている。


(痛い……っ、痛い、痛い痛い痛いぃ……!)


 裂けた肉から真っ赤な血がマグマのように溢れ出し、彼女の濡れた身体を伝い床———先程まで彼女が浸かっていた水に落ちた。


 血が水に混じり溶けていく。それは小さな泉。瑠璃がたった今まで横たわっていた、そして『現れた』場所だった。


 刀傷は瑠璃の手のひらの長さと同じほど長く、かなり深い。ここまで深い傷を負ったのは生まれて初めてだった。 

 傷の熱さと強い痛みに瑠璃の額に脂汗が浮かぶ。

 は、は、と短い息で痛みを逃そうと試みるが効果がない。


『ほう。動けるか』


 青い男が一歩瑠璃に近付きながら彼女を見下ろし告げた。彼女に意味が伝わらないことを知りながらそうしているように見えた。


 恐怖と寒さ、激痛に青褪める瑠璃を、一人の少女を、男は酷薄な笑みを浮かべ眺めている。


(なんでっ、なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのっ!?)


 痛みで立ち上がれない瑠璃は、少しでも逃げようと重たい身体と脚を引きずりながら腕だけでずるずると後退した。泉から抜け出せば周囲は白い石畳で囲われていた。

 ここがどこかなど見当もつかないが、混乱と激痛で何も考えられない瑠璃はとにかく逃げたくて動く。


 石畳の床に、瑠璃が流した血の跡がべっとりと付いた。服に滲んだ水がその血を泉へと運んでいく。


(このままじゃ殺されるっ、そんなの嫌っ、死にたくない! 嫌だ、誰か、誰か助けて……っ)


 死への恐れ。

 心にあるのは、ただそれだけだった。


「ひっ!?」


 泉からいくばくかも離れていない瑠璃の前に、白装束達が再び刃を構えて立ち塞がった。


 退路など最初からないも同然なのに、彼等は瑠璃の逃げ道を失くした。

 そうしたのは次で彼女を殺す気だからだ。

 それを、瑠璃も悟った。


『逃げるな小娘。往生際が悪い』


 悠然と歩いてきた男が冷酷に告げる。

 人の情など微塵も通っていないような声音だった。


(なんで……っ、どうして!?)


 身体が凍り付く。痛みで思考が動かない。視界が点滅しているようだ。何が起こっているのか。どうして自分がこんな目にあっているのか。理解できない。なのに逃げられない。悪い夢なら冷めてくれと願っても、一向に冷める気配はない。


「いや、嫌、嫌だっ、やめてっ! 私が何したっていうのっ……!!」


 瑠璃は泣きながら懇願した。わけがわからないけれど、きっと人違いだと。

 自分がこんな仕打ちを受ける云われはないのだと、わかって欲しくて。

 けれど。


『やれ。ヌドマーナ神が供物として捧げよ』


 男が無情に告げた。


『ヌドマーナ神が御為に』

『ヌドマーナ神が御為に』

『ヌドマーナ神が御為に』


 同じ言葉が連なるように唱えられた。


 瑠璃は声も出せずに振り下ろされる白刃を眺めた。修羅場慣れしていないただの少女が、傷ついた脚を抱えてどんな抵抗ができるだろう。


(殺される―――)


 通り魔と同じだ。予期せぬ出来事に対応できずにいる。先ほど咄嗟に動けたのは、無意識だったからに過ぎない。


 しかし、再び銀光が焦げ茶色の目に映った時、瑠璃の瞳の虹彩がくわりと開いた。


 そして―――


 ―――ぼう、と。


 僅かな、音がした。


「っ———いやぁああああああっっっ!!」


 迫り来る恐怖に瑠璃は叫んだ。

 彼女の濡れた身体から白い飛沫が上がる。

 そして瑠璃が最初に『現れた』小さな泉がさざめいて、波飛沫が飛び散った。


『なんだ!?』


 白い泡が弾け、装束を着た男達の上に無尽に降り注ぐ。


『これは一体……!』


 驚愕の声が上がった。


 瑠璃の叫び声に向けたものではない。

 彼らの周囲が、地が、今いる場そのものが、変動を起こしていたからだ。

 足元から大きな唸り声が聞こえていた―――地響きだ。


『うわぁっ!?』


 どん、と大地を突き上げるような衝撃に男達は悲鳴を上げた。

 ごごご、と神の怒りにも似た激しい振動に、立つことさえままならなくなる。


『ぎゃあぁぁ……』


 天井から剥がれた大理石の塊が落下し、ひとりが押しつぶされた。


『ひいぃ……!』


 突如として起こった天変地異に、場は阿鼻叫喚の地獄絵図となる。

 男達は逃げ惑った。


『護神長、避難を……!』


 真っ青な髪をした男のそばについていた者が、男に退路を示した。青髪の男が頷く。


『うわああっ……!』


 またひとり、瓦礫にだれかが押し潰される。白い装束が真っ赤に染まり、さながら炎の如く場に広がった。


『ご護神長あれを! 泉が……っ泉の水が!』


 誰かが、泉を指差し告げた。


 大地が激震する最中、泉からはもうもうと白い湯煙が立ち込めていた。


『なんと……!』


 長と呼ばれた青髪の男が驚愕の声を上げる。

 泉の水は蒸発していた。

 一滴の雫にいたるまで、すべて。


『泉が、炎に……!』


 瑠璃が現れた泉は今や赤く染まっていた。

 露わになった底がひび割れ、裂け目から火炎が吹き出している。

 それは青髪の男にとって、白装束達にとって、ありえない、あってはならない現象だった。


『護神長、娘がっ!!』


 声にはっとした青髪の男が瑠璃を見ると、紺色のセーラー服がほの赤く光を帯びていた。当人に意識はない。過ぎた恐怖に心が限界を迎えたせいだ。


 気を失った瑠璃は無防備にも石畳の上に横たわっていた。なのに、天井から降り落ちる一片のかけらも彼女を傷つけてはいない。


『この娘は―――』


 愕然とする男の目の前で、瑠璃の身体は燻る炎に包まれていく。


 全身、髪の一筋にいたるまで。


 まるで地から湧き出た炎が彼女を守っているかのようだった。


 赤い焔は燃え広がり、石造りの神殿をたちまち火で満たした。

 侵食された石畳が黒く焦げていく。人の皮膚が燃える臭いがした。衣服が消し炭に変わっていく。


 最早、退路は無い。


 人々の叫ぶ声は瑠璃には聞こえない。


 囂々と燃える赤き焔が火の龍となって周囲を呑み込んでいくのを、青い男は呆然とした表情で見つめていた。


 その目線の中には、火炎を纏う黒い髪の少女がいる。


 男の唇が動く。


『そうか……そうか【贄】とは……はは、そうか。ははっ、はははははははは!!』


 狂ったように嗤い出した男は瑠璃の身から『生まれた』焔の龍に『喰われ』て消えた。


 声なき声と肉の焼ける臭いが、一瞬で炎に溶けていく。


 骨すら残さず、灰すらも場には無く、熱は地面ごとすべてを「蒸発」させていた。

 しかし、白装束も青い男も焼き尽くしても火焔は収まるところをしらない。


 意識の無い少女は一人、大地に横たわっていた。

 瑠璃を起点として、あらゆるものが物質としての沸点に達し上限を迎える。


「―――」


 地獄の業火と同じ灼熱が爆発的に膨らみ、建造も空間も、何もかもを灼いた。

 一片の影すら残さず。


 やがて収束を迎えた時、ぽっかりと空いた土地の真ん中に一人の少女が横たわっていた。


 彼女を中心に辺りは静けさに包まれ、まるで最初から何も無かったかのように、殺伐とした景色を残すのみとなった―――

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