第3話 不穏

(あれは一体、何だったんだろう)


「瑠璃おまたせ! 先生に言ってきたよ!」


「ありがとう」


 水飲み場で見た男のことを思い返していた瑠璃は友達の声に顔を上げた。


 今は六時限目も終わり、帰りの掃除当番を済ませたところだ。


 つまり放課後である。


 掃除はほぼ終わりかけで、後は柄から外したモップを洗って干せば良いだけになっていた。


 先走って掃除完了を先生に報告しに行っていた友達が戻ったのは、ちょうどバケツに水を張ったタイミングである。


「ねえ、もちろん行くんでしょ?」


「え?」


 青いバケツにモップと洗剤を入れたところでそう言われて、瑠璃はきょとんとした。


 隣では、友達が瑠璃と同じように自分が使ったモップを洗い始めている。

 バケツの水は瑠璃が溜めておいたものだ。


 ゆらめく水面に、頭上の青空が映り込むのが見えた。

 今日は雲の流れが早いらしい。


「手紙。呼び出されてたじゃん」


 言われて、瑠璃はあの白い封筒のことだと遅れて思い出した。


「あ、ああ。そのこと」


「なぁにー? もしかして忘れてたわけ? あっきれた!」


 友達は盛大なため息を吐いてやれやれと首を振る。


 彼女の動きに合わせて、肩まである茶色い髪が揺れた。


「手紙で呼び出されたんだよ? 絶対行かなきゃ!」


 言って、友達はざぶざぶとバケツでモップを洗うと、一度汚れた水を排水口に向かって流した。


 ざあ、と水が流れた後、ごぼごぼと汚水が吸い込まれる音が続く。


 ここは校舎の裏手にある焼却炉そばの洗い場だ。

 掃除道具はこの場所で洗う決まりになっている。


 外にあるうえ瑠璃達の教室からは離れているので正直言って面倒くさいが、他で洗うと先生に怒られるので仕方なくみんなここでやっていた。


「誰かがさ、瑠璃に告白しようとしてるんだって!」


「ええー……」


 友達は瑠璃に振り向くと、にっと悪戯めいた笑顔を見せ、おどけるように肩を軽くぶつけてくる。


「いいから行って来い! でもってあたし達のネタになれ〜!」


「やっぱり面白がってるじゃんっ」


「あはは!」


 瑠璃が突っ込むと、友達は笑いながら蛇口を捻ってバケツにもう一度水を溜め始めた。


 どぼぼ、と強い水の音がバケツの内側で反響し、いくらかの水飛沫が上がる。


 彼女は朝も話していたうちの一人だ。

 この高校に入学してから出来た友達である。


 瑠璃とは別の中学出身で、あけすけでややきつい口調の時はあるものの、瑠璃から見て『今っぽい』感じの女子だ。


 校則に触れない程度のナチュラルメイクに、先生に怒られない程度の染めた茶髪が良く似合っている。


 癖っ毛で真っ黒な髪に化粧などしたこともない瑠璃にとっては、少々意地悪な面があるとわかっていてもお洒落な彼女はちょっとした憧れだった。


「行かなきゃ駄目かなぁ」


「行かずに後悔するより、行って後悔するほうが良いってあたしの勘が言ってる」


「なにそれ」


 弱腰な瑠璃を、友達はせっつくようにまくし立てる。


 入学して半月が経ち、落ち着いてきたのもあって刺激的な話題に飢えているのだろう。


 面白がられているのはわかっているものの、瑠璃は友達の言い分も確かに気になった。


(告白って、本当かなぁ……?)


 呼び出しはされたが、告白されるかについては眉唾だ。


 何しろ、入学してから男子とこれといった話をした覚えがない。

 同じ中学出身の子もいるにはいるが、特に接点の無かった男子ばかりだ。


 それに、目の前にいるお洒落な友達ならまだしも、自分が誰かに思われるなんて想像すらできなかった。


 瑠璃は目立つ方ではないし、美人というわけでもない。

 教室の中でも地味な部類だ。


 だが、手紙でわざわざ呼び出すほどのこととなると、確かに言われてみればとも思う。


 自意識過剰だろうか。


 瑠璃は考えながら自分の手元を見つめた。


 青いバケツの水の中でモップの房が揺らめいている。

 汚れはだいぶ落ちたが、使い込まれているため良くて灰色くらいにしかならない。


 綺麗じゃないモップ。


 瑠璃は自分は良くてこの程度だな、と自嘲した。


「入学式でさぁ、一目惚れでもされたんじゃない? で、今になってようやく告白する決心が―――」


「そんなことあるわけ……」


 ないよ、そう続けようとした瑠璃は友達を振り返って愕然とした。


(え―――)


 友達は、突然黙り込んだかと思えば、まるで固まったように目も口も開いた状態で停止していたのだ。


(な、なに?)


 瑠璃は目を見開いた。

 友達が悪ふざけで動きを止めたのかと一瞬思ったが、すぐにそうではないと気付く。


 友達の肩も、胸もまったく微動だにしていない。


 つまり、呼吸をしていないのだ。


(うそ)


 友達は瑠璃に身体と顔を向けたまま、時を止めたように完全に固まっていた。


 異常はもう一つあった。


 水の音が消えているのだ。


 というより、周囲から一切の音が無くなっている。


 風の音も、木々の葉擦れも、帰宅する生徒達の声も、何も聞こえない。


「ね、ねえっ、どうしたのっ!? ねえってば!」


 明らかな異変に、手が濡れているのも忘れて友達の肩を掴み揺さぶった。


 けれど動かない。


 微動だにせず、さながら彫刻のように、時を止めている。


「っ……!」


 瑠璃の心臓がばくばくと嫌な音を立てる。


 耳の横で鳴り響くようなそれに、ぴちょん、と水音が混じり込んだ。


(え)


 はっとした瑠璃は音の元を辿った。


 視線を下ろすと、バケツに波紋が浮かんでいる。


 ということは、つまり―――


 瑠璃は銀色に鈍く光る蛇口に目を向けた。


 下に向いているその口から、なにか白いものが覗くのが見えた。


「っひ!?」


 ずるり、と。


 白く長い『ナニか』が這い出してきた。


 頭はひし形で、ぬらりとした肌はびっしりと鱗に覆われている。

 太さは蛇口と同じで、細い。

 だがずるずると長い体躯が、後から後から這いずり出てくる。


(蛇!?)


 ひと目見てすぐにわかった。

 これは、白蛇だ。


 白蛇が蛇口から這い出し、今にも瑠璃に飛びかからんと鎌首をもたげ鋭い牙を見せている。


 蛇の喉元からしゅるしゅると不気味な音が聞こえていた。


「ぃ、や……っ」


 瑠璃の喉が引き攣れ短い悲鳴が漏れ出る。


 白蛇。


 縁起物であり神様の遣いだと言われていることを知っている。


 けれどその蛇は明らかに異様だった。

 ただの白蛇ではない。


(この蛇、目が―――っ)


 身体は凍りついているのに、思考だけがいやに忙しなく動いた。

 視界に捉えた蛇はまるで瑠璃を恨んでいるかのように怨念の籠もった『六つの青い目』でこちらを睨んでいる。


 そう。


 蛇の目は、赤ではなく青であり、なおかつ左右に三つずつ。

 つまり『六つの目』を持っていたのだ。


 醜怪とも言える姿は、およそこの世のものとは思えない。


『ヒノォオ……ムスメェェエ……』


 六つ目の白蛇が瑠璃に迫る。


 しわがれた老人の声にも似た、刃物を擦り合わせたような音を発しながら、蛇は赤い口をぱっくりと開け白い牙をむき出しにした。

 後ろに身体を引いているのは、反動をつけている証拠。

 瑠璃は咄嗟に飛びかかられる、と即座に察した。


「いやぁっ!!」


 無我夢中で顔を庇わんと両手を突き出す。

 その手が、偶然にも蛇の喉元に触れた。


 途端、


『!! ッギヤアアアアアアッッ!!』


「っ!?」


 突如響いた凄まじい断末魔に、瑠璃はその姿勢のまま固まった。

 そして刮目する。


(な、何っ!? これ、火!?)


 突き出した自分の指先から、真っ赤な炎が噴き上がっていた。 


『ギャアアア―――ッ!!』


 白い蛇の身体がぼうと炎に巻かれ、瑠璃の手の中で焼かれていく。


 鱗に覆われた身体が、みるみるうちに黒い炭へと変化した。


 生き物が燃える際に放つ、生臭くも焦げ臭い壮絶な臭気が鼻を突く。


 瑠璃の手の中で、蛇は最後身悶えるようにびくびくと痙攣を起こした。

 背筋がぞっとして、思わず手を引いた。


『……ヒノ、ムスメ』


 けれどその時、六つ目の白い蛇だったものは最後に一言告げて、瞬く間に炭の塊となって瑠璃の目の前で崩れてしまった。


 ぼろり、と。


 壊れた炭が瑠璃の指の隙間から零れ落ちていく。


「―――瑠璃? どしたの?」


「え……」


 突如聞こえた呑気な声に顔を上げれば、 友達がまるで何もなかったのかのように、不思議そうに瑠璃の顔を覗き込んでいた。


 瑠璃は驚いて、まじまじと友達の女子を見つめた。ざあざあとバケツに水が流れる音がしている。


「どう、って……今、蛇口から、蛇が、」


「蛇ぃ? あっは! もう、何言ってんのー? んなのあるわけないじゃん。もしかして、寝ぼけてる?」


 頭が追いつかず、片言になりながらも今の出来事を説明する。

 けれど、友達はぷっと吹き出してしまった。


「ち、違うよっ。本当に今さっき白い蛇がっ」


「あ! ってゆーかどうしたのその手! 真っ黒じゃん!」


「え……?」


 言われて、友達の視線を追えば黒く染まった瑠璃の右手があった。

 先ほど燃え尽きた、蛇の炭だ。


「っ」


 背筋にぞっと怖気が走り、瑠璃は慌ててバケツの水に右手を突っ込んだ。

 水がみるみるうちに黒く濁っていく。


「なに触ればそんな黒くなるのよー」


 からからと笑って、友達はバケツからモップを持ち上げ水を絞る。

 何の異変も感じていないようだ。


 瑠璃は無言で水に浸けた自分の手のひらを見つめた。


 これがあるということは、先程のはやはり夢ではない。


 だけど、全く信じていない友達に一体どう説明すれば良いのか、わからない。


 あれは白昼夢だったのだろうか。

 けれど証拠が残っている。


 バケツから手を引き抜くと、そこには普段通りの瑠璃の手のひらがあった。

 何の変哲もない。


 先ほどの出来事がまるで夢だったかのように、跡形もなくすべてが消えている。


 あるのはただ、バケツの中の汚れた水だけ。


「さーてと! 早く戻ろ! 瑠璃は屋上行かなきゃだし!」


 言って、友達はすっくと立ち上がった。


「え?」


 見上げながら、瑠璃はきょとんとする。

 展開に頭がついていかない。


「観念して、告られてこいっ!」


「っわ」


 ばん、と友達に背中を叩かれて、瑠璃は驚いて声を上げた。目を白黒させながら屋上、と心で復唱する。


 そうだ手紙。


 そういえば呼び出されていたのだと思い出す。


「こ、告白されるかどうかはわかんないよ」


「なぁーに言ってんの! じゃなきゃ、わざわざあんなの寄越すわけないじゃん!」


「でも今日とは書いてなかったし……」


「つべこべ言わずに言ってこい!」


「あ、あはは……」


 ほとんどゴリ押しで言われて、瑠璃は立ち上がりながら苦笑いした。


 今日なのか放課後で良いのか定かではないが、待っていると書かれていたのは確かだ。


(あの手紙を受け取ってから、変なことばかり。どうしよう……)


 悩みながら、バケツとモップを手に友達と連れ立って教室の方へと戻っていく。

 先程のことは友達には言わないことにした。

 自分でも説明できないからだ。


 はあ、とため息を吐いた瑠璃の背中を、春にしてはまだ冷たい風が撫でていく。

 ひやりと肌が震えたのは、不穏さを感じたからだろうか。


 人気の消えた洗い場では、いつの間に現れたのか一匹の白蛇が、蛇口に絡みつきながら瑠璃の後を追うように六つの青い目をじいと校舎の奥へと向けていた。

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