第2話 鱗の男
「瑠璃ー! はやく!」
「いま行くー」
その日の二時限目、体育の終わり。
(あれ……?)
校舎に戻ろうとした時、ふと何かの気配を感じて、瑠璃は目を向けた。
場所は水飲み場。
体育館の黒い影が、斜めに倒れ込むようにかかっている。
いやに黒い影だ。
奇妙なことに、いつもより色が濃く見える気がした。
(何だろう……)
光の加減かと思い、しばしじっと見つめてみる。
四月にしてはやけに寒々しい風が、掻いた汗を冷たく冷やしていく。
まだ昼前とあって、太陽の影はさほど広がっていない。
けれど、校舎へとつながる渡り廊下の横、水飲み場にくっきり落ちた闇に何かが―――そうナニかが、浮かび上がるのが見えた。
(え……)
友人たちはすでに瑠璃よりずっと先にいて、校舎の中に入ってしまっている。彼女たちの談笑が、耳に遠く聞こえていた。
やがて体育館の黒い影は、まるでそこだけ淀んだ沼であるかのように、ぼこりとその形を浮き上がらせた。
みるみるうちに影が象られていく。
最初は大人の背丈ほどもあろうかという長い形に。それから上部の少し下にくびれができ、首と、おそらく頭を作り出す。
影は瞬く間に瑠璃の目の前に輪郭を表した。
人型だ。
影は、黒い衣を纏った人の形になった。
「っ……」
こんなのおかしい。
変だ。
そう思うのに、瑠璃の身体はその場から動かなかった。動けなかった。
まるで金縛りにあったかのように、足が地に張り付いている。
瑠璃の唇が震え、歯の根が、がたがたと戦慄で揺れ始める。
その場から逃げ出したいのに、意思に反して身体も、視線もまるで固定されたように動かせない。。
混乱する瑠璃の前で、影の中、ちょうど顔の部分に、すうと誰かの顔が覗いた。
瑠璃から見て右側―――つまり男の左目辺りが、真っ黒い闇から現れる。
澄んだ水。
その瞳を捉えた瞬間、瑠璃の意識に恐ろしく透明度の高い湖底が浮かんだ。
水と光の屈折が生んだ純粋な水底の色。
その瞳の色に、強烈なほど意識を奪われる。
影の男はぞっとするほど美しい顔立ちをしていた。
左目の一部分しか見えないが、高い頬とくっきりした切れ長の眼窩からは怜悧で硬質な印象を受ける。
瑠璃をじいと見つめる視線は突き刺さるようで、瞳孔がきゅうと細まる様は人ならざるものを思わせた。
それなのに、瑠璃には男の瞳が泣き出しているように見えた。
「彼」の瞳の周りがきらきらと光っていたからだ。
まるで涙のように見えたそれは、目を凝らしてみると正体は美しく輝く虹色の鱗だった。
男の水底色の瞳は、びっしりとした鱗に覆われている。
きらり、と男の肌が光を帯びて七色に輝いた。
(綺麗……)
恐怖も忘れて、瑠璃はそう感じた。
「……アズ……ーロ……」
「っ……」
影の男が口を開いた。聞き覚えのない言語だ。
だけどどこか懐かしく、切なさすら覚える声だった。
低すぎない、耳通りの良い心地よい声音。
発した言葉の意味はわからない。
なのに、どうしてか瑠璃は自分が呼ばれている気がした。
(だれ……?)
「あ……、」
瑠璃の唇が自然と動き出す。
貴方は誰? そう聞こうとした。
「瑠璃ーっ!! ちょっとー! 何してんのー?」
渡り廊下の向こう側、校舎の出入り口で友達が大きな声で瑠璃を呼んだ。
はっと振り向くと、女生徒が二人、すでに制服に着替えて並んでいる。
どうやらいつまで経っても戻らない瑠璃を迎えに来たらしい。
瑠璃はその場で呆然とした。彼女たちの視線が自分に向いているのに気付いて、慌てて背後、つまり先程の影に目を戻す。
けれど、そこにはただいつもと同じ、黒い影が斜めに倒れ込んでいるのみで。
「もう三限目始まるよー?」
「す、すぐ行く……!」
その場から走り出しながら、瑠璃は一瞬、水飲み場の方へ目を向けた。
黒い影が横たわっている。
うなだれるように首を下げた蛇口の口から、水が一滴、落ちるのが見えた。
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