第1話 兆し

生まれた時の記憶を、持っている人はいるだろうか。

私には少しだけある。

すべては色のイメージだ。

最初は赤。

きっと血の色だろう。

その次は青。

これは手術室の壁?

いいえ違う。

とても【熱かった】ことを覚えている。


まるで燃え盛る炎が、四肢の隅々を駆け巡るような、身体中の血液が、熱そのものであるかのような。

そんな気が、したことを―――




(嫌だなぁ)


 愛想笑いを浮かべながら、橘瑠璃たちばなるりは内心そう呟いた。


 目の前では二人の女子生徒が、教室の一番奥にある窓際の席で本を読んでいる別の女生徒を見てくすくす笑っている。


 嫌な笑い方だ。

 瑠璃は困惑した。


「ね、あの子また本読んでる。あれでごまかしてるつもりかな」


「そうなんじゃない。友達いないんでしょ」


「かわいそ」


 嘲るように言って、二人の少女はすぐに最近流行りの海外アイドルへと話題を移した。

 瑠璃はそれらを曖昧に笑って受け流した。


 本音ではこの場から立ち去りたい。

 が、そんな度胸はない。


 そっと窓際の女生徒を盗み見る。


 窓にはまだ蕾をつけたままの桜の枝葉が映っている。さながら額縁にはめ込んだ絵画のようなそれを背景に、女生徒は静かに教室の片隅に座っていた。


 大きさからして小説だろうか。


 癖のある長い黒髪は瑠璃とよく似ている。横顔にかかった髪が顔の半分以上を隠しているものの、とても綺麗な顔立ちの子だと思った。


 どこの中学出身かは知らないが。


 周りの子に距離を置かれているのも、彼女が美人なことがきっと関係しているのだろう。


 高校に入学して半月。


 すでに教室の中はある程度のグループに分かれていて、彼女のようにどこにも属していない子は周りから浮いていた。


 瑠璃はかろうじて「ぼっち」を免れたが、それが良かったかと聞かれても素直に頷けそうにない。


 目の前で話し続ける二人の新しい友人に複雑な思いを抱きながら、瑠璃はちらちらと窓際を盗み見た。


(休み時間くらい、好きに過ごしていいはずなのに)


 そう思っても、口にはできなかった。


 窓際で静かに座るあの子のような振る舞いは、瑠璃にはできない。

 わずらわしい人間関係から逃れたくとも、朝のHRが始まる前の自由時間すら、一人で過ごすには勇気が必要なのだ。


「ね、見てよ。これめっちゃ再生回数伸びてる」


「あはは。何これ。くっだらな」


「瑠璃もそう思わない?」


 スマホの画面を見せられ目を向ける。動画では、若い青年が通行人を急に驚かせて笑っている。


(迷惑……)


 ただ一言、瑠璃はそう思った。


 相手が転んで怪我をしたらどうする気なのか。それが妊婦さんだったら?


 高校一年の瑠璃ですら可能性を想定できるのに、動画の青年は楽しくて仕方がないとでも言うように次々に見知らぬ人をおどかしている。


 きっと何も考えていないのだろう。動画で配信する許可だって取っているのかすら怪しい。


 これの何が面白いのか、瑠璃にはまったくわからなかった。


「ん、そうだね……」


 だから、また曖昧な笑みでごまかした。


 見る価値もない動画。時間の無駄だと正直思う。

 けれど、これが瑠璃の日常だった。


 適当に相槌を打って、話を合わせて、学校から帰ればメッセージのやりとりと、彼女たちがやっているSNSの周回をする。


 あとは興味もない海外アイドルの情報を集めて、翌日さも大ニュースであるかのように披露するのだ。


 それはまるで義務であるかのように、入学して半月の間毎日繰り返している作業である。


 今はこうでもしないとすぐにハブられる世の中だから、仕方がない。

 教室は承認欲求で満ちていて、友達同士でそれを解消させている。

 誰かが目立てばグループチャットで話題になり、目立ち過ぎれば今度は出る杭とばかりに打たれる。


 まるで蛇がとぐろを巻くような気持ち悪さだと、瑠璃は思う。

 それは自分のことも含めてだ。


 だけど、抜け出せないのが瑠璃だった。


「たちばなさーん」


「あれ、ねえ瑠璃。呼ばれてるよ」


「え?」


 言われて振り向くと、教室の入口に女子生徒が一人、立っていた。


 その手には白い封筒が握られていて、瑠璃に向けてひらひらと振っている。


 瑠璃と同じ紺色のセーラー服を着ているが、ぱつんと切りそろえたおかっぱ頭にも、やや気の強そうな顔立ちにも見覚えがない。

 きっと別の中学出身なのだろう。


 一体何の用だろうと瑠璃が首を傾げていると、その子が入口から教室内へと入ってきた。


「貴女がたちばなさん?」


「そうだけど……」


「今日あたし、朝の掃除当番でさ。さっき玄関の掃除してたら貴女の下駄箱にこれ、入ってたんだ。だから持ってきた」


「私に?」


 おかっぱの女子生徒は笑顔でそう言いながら、瑠璃に白い封筒を差し出した。


 きらりと箔押しの封筒が光る。銀色の小さな花が蝶のように散りばめられた横型の封筒だ。

 普通の紙とは違う豪華な装飾に、ひと目で高級だとわかった。


(他人の下駄箱に入ってた封筒を、勝手に取ってくるのってどうなんだろう……)


 瑠璃は一瞬疑問に思ったが口にはしなかった。


 届けてくれたのだから、と礼を言う。


「ありがとう。でも、何だろうこれ……熱っ」


 女子生徒から封筒を受け取ろうとした瞬間、瑠璃の指先に鋭い痛みが走った。


 じゅ、と皮膚が焦げたような感覚。


 これは、熱さだ。


 まるで燃える蝋燭ろうそくの火に直接触れたかのようだった。

 熱さも、痛みも感じた。

 瑠璃は咄嗟に手を引っ込め指先を見つめた。


(何、今の……?)


 よく見ると、人差し指と中指の先がほのかに赤くなっている。


 親指で擦るように触れてみると少しひりひりした痛みがあった。


 ……同じだ。火傷をした時と。

 けれどなぜ、封筒で火傷など。


「どうかした?」


 封筒を受け取らない瑠璃を、女生徒が訝しむ。

 瑠璃は慌てて首を振った。


「う、ううん。何でもない」


 まさか封筒を触ったら火傷した、などとは言えない。


(ただの静電気、かな……)


 よくあることだ。きっと。


 半ばそう無理やり思いながら封筒を受け取る。不思議なことに、今度は熱さなど感じなかった。


「手紙とか、昭和か! って感じ」


 瑠璃の手にある封筒を見て、隣の女子生徒がくくっと笑いながら突っ込みを入れた。

 もう一人は逆にふーむ、と何やら考える素振りをしている。


「綺麗な封筒だねぇ。泊押しだし、何かきらきらしてるし。うちのお姉ちゃんが去年結婚したけどさ、その時の招待状と似てるわ」


「ね、瑠璃。開けてみなよ」


「届けたんだし、あたしも何書いているか知りたーい!」


「う、うん……」


 三人に急かされて、瑠璃は一瞬迷ったものの開封することにした。


 誰かからの大事な手紙かもしれないのに、人目に触れさせるのは正直気が引けたが、断れる雰囲気ではない。


 瑠璃は封筒をひっくり返した。

 どこにも宛名は書いていない。


 自分の下駄箱に入っていたと言うが、本当に自分宛なのだろうか?


 疑問に思ったが、好奇心もあって開けてみることにする。


 手紙には青い封蝋がされていた。

 映画などで見たことがある。

 蝋を火で炙って溶かし、垂らした上から押印するあれだ。


 こんな手間暇をかけた手紙を受け取ったのは初めてで、瑠璃の胸がとくりと高鳴った。


 蝋は綺麗なままだ。誰にも開封された形跡はない。


(この模様は……何だろう……? 蛇? ううん、龍、かな?)


 真っ青な蝋に押された印の紋章は独特な形状をしていた。


 印はとぐろを巻いた蛇にも、また龍のようにも見えるが、鱗のある長い生物が象られていることは確かだ。


 封蝋をぺりりと剥がし、純白の封筒の中に入っていた手紙を取り出す。


 今度は真っ白な便箋が一枚入っており、開いてみると中から一枚、きらきらしたものが零れ落ちた。


「あっ」


 慌ててキャッチしてみると、それは透き通る素材でできた銀色に輝くものだった。


 大きさは瑠璃の手のひらにちょうど収まる程度で、形は楕円形。厚みは便箋の紙よりやや厚く、光の加減で銀色にも虹色にも見えて、とても美しい。


「なにそれ? でっかい花びらのしおりかな? 透けて光って、きれーい」


「なんか、鱗みたいにも見えるね」


「鱗……」


 手紙を持ってきてくれた子に言われて、瑠璃はまじまじと銀色のそれを見つめた。


 そうだ―――これは、鱗。


 頭の隅で、誰かが言った。


「プレゼントかなぁ。しおりにできそう。おっしゃれー! それに封筒もだけど、便箋も綺麗だねぇ。あれ、でもなんか、短くない?」


 右手に持っていた便箋を指差し言われて、瑠璃は目を滑らせた。


 白い便箋にはやはり封筒と同じ銀色の花が散らばっていた。

 けれどそこに記されているのは、たったの一行のみだ。


『るり そらのしたで きみをまつ』


 まるで小さな子供が書いたような、たどたどしい字でそれだけ書かれている。


「何これ」


「いたずら? にしては手が込んでない?」


 二人の女子が順番に口にした。


 ついでに、手紙を持ってきてくれた子も一緒になって首を捻っている。

 瑠璃は便箋の裏側も見てみたが、そこには何も書かれていなかった。やはりこの一行だけのようだ。


「空の下ってことは屋上じゃない?」


「あ、そっか。なら屋上に来いってことかな」


「たぶんね。放課後行ってみれば? 瑠璃」


「え……」


 今日だとも、放課後とも一切書いていないが、三人の女子はそう断定したらしい。

 他人事だと思って良い気なものだ。と瑠璃は内心嘆息した。


 だが、瑠璃自身も気にならないわけではない。名指しで書いてあるのだから、自分に当てたものなのは確かなのだろう。


 無視するには、この美しい便箋は好奇心を刺激し過ぎる。


(行ってみよう……かな)


 瑠璃はひとまず、便箋と「綺麗な鱗」を封筒に戻した。


 それを見計らったように、朝のHRのチャイムが鳴り始めた。


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