第17話 お若い二人で


『アズーロ! ティファナ、おはよ!』 


 明るい声にアズーロが振り向くと、朝日が照らす道を歩いてくるバルドの姿があった。

 彼は肩に布袋を背負い、首には手ぬぐいを引っかけている。


「バルド」


『あら、おはようバルド』


 村長との面会をすませた翌朝。


 朝食を終えたアズーロはティファナと一緒に、昨日水汲みをした小川で衣服の洗濯をしていた。

 いや、この場合は洗濯の仕方を教えてもらっている、が正しい。


 洗濯機など存在しないここでは、家事はもちろんすべてを手作業でやらねばならない。

 だが現代日本で学生だったアズーロにそんな知識があるはずもなく、彼女はティファナにいちから教わることになったのだ。


 仕事をさせてくれと言っておきながら、家事の一切ができないとわかった時のティファナのなんともいえない表情を、アズーロは多分一生忘れないだろうなと思った。(実際は、相当育ちの良い子だと思われただけなのだが)


「おはよう、バルド」


 アズーロは昨日と同じく覚えた言葉でバルドに挨拶した。


 日本にいた頃は英語の成績は散々だったのに、たった二日でいくつかの単語を覚えられているのがなんだか不思議だ。


(人間、やっぱり生活がかかってると、身に付くものなんだなぁ……)


 窮地に立てば誰でもそうなるのだろうとアズーロはしみじみ思った。


 今の彼女はとにかく言葉を覚えようと貪欲にティファナやウルドゥの会話に耳を澄ませている。


 物の名前から一つずつ覚えようとする様はまるで赤子のようだが、地道に覚えていくしかないのだ。


『二人とも朝から精が出るね。アズーロもお疲れ。これ、うちで取れた芋を持ってきたんだ。三人で食べて』


『まあまあ、ありがとう。バルド。助かるわ』


 バルドが肩に掛けていた麻袋から二回りほど小さい袋を取り出し、ティファナに手渡した。

どうやら野菜のお裾分けらしい。


 彼は芋を一つ袋から取り出すと、アズーロに分かるようにぱくりと食べる仕草をした。


『結構美味くできたから。食べてくれよな、アズーロ』


「うん。ありがとう」


『へへ……』


 お礼の言葉もティファナに教わったので使ってみる。軽く微笑んで見せるとバルドも笑ってくれた。


(なんだかバルドって、人懐っこいっていうかなんていうか……クラスにいたら人気出ただろうな)


 彼とのやりとりにふとそんなことを思う。


 バルドは日本ならクラスの中心にいるタイプだ。

 見た目は体育会系で陽のキャラだが、会話してみると男子とも女子とも分け隔てなく上手く付き合えるような、そんな委員長タイプである。


 それに比べアズーロは教室の端で三・四人の女子で過ごすような、どちらかといえば大人しいタイプだった。


 あまり積極的に男子に話しかけたりもなかったが、委員長タイプの子とはある程度会話はできていたので、バルドと話すのは苦ではない。


(最初は怖がっちゃって、悪いことしたなぁ……)


 理由が理由のため仕方がなかったが、アズーロはバルドに対して少々申し訳ない気持ちを抱いていた。


 だがそんなことを知らずに、当の本人はアズーロに親しげに話しかけてくれる。


『聞いたよ。村長(ガスト)と面会したんだってね』


「ガストさん? うん、会ったよ」


 バルドが出したガストの名前にアズーロは頷いた。会う、という単語も昨日覚えたので言ってみた。


 恐らくかなり片言の文章に聞こえているだろう。

 ティファナ達はもちろん、バルドもおそらく自分より年上だろうから、できれば敬語で丁寧に話したいのだが、こればかりは致し方ない。


(お祖母ちゃんに礼儀は守りなさいってよく言われてたけど……今は許して欲しいな)


 内心で言い訳をしていると、バルドがガストの真似をしているのか、顔をむっつり顰め眉間に深い皺を寄せた。


『あの爺さんおっかないよな。いっつもこーんな顔してさ』


(に、似てる……!)


 その真似があまりにも似ていて、アズーロは思わず吹き出した。


 それが嬉しかったのだろうバルドは照れ笑いを浮かべ、こほんと咳払いをしてから彼女に身振り手振りを加えながら話しかける。


『あっは。今の似てた? あの爺さんには俺しょっちゅう怒られてるんだ。くぉら! バルド! ってね』


 バルドがジェスチャーでおどけてみせる。アズーロはくすくす笑っていた。

 二人の間に和やかな空気が流れるのを、ティファナは微笑ましげに眺めている。


『もうバルドったら。またガストに怒られるわよ。ああそうそう、エバにも会ったのよ。ね、アズーロ』


「エバ。リ・エト・デコラ。よろしくって、したよ」


 エバの名前が出たので状況を説明する。ややアクの強い子ではあるが、アズーロにとってはこの村で初めてできた女友達だ。

 しかし、バルドはなぜかエバの名を聞いて渋い顔をした。


『あー……エバに会ったのか……アイツ気が強いから大変だったろ。お疲れ様、アズーロ』


「リポ・ゾ? ってどういう意味?」


 バルドはなにやら首を左右に振り、疲れたような顔でうんうん頷いている。どうもエバは彼にとっては微妙な存在のようだ。


『嫌な奴じゃないけど性格がな……くれぐれもアズーロはあいつの影響は受けないでほしい……切実に……』


『ふふ。わたしはエバは可愛いと思うわよ。元気でいいじゃないの』


『アイツの場合は元気じゃなくてじゃじゃ馬なんだよ。それも暴れ馬に近い……』


 バルドとティファナの二人はエバについて話しているらしい。バルドは苦い顔をしているがティファナは笑顔で、アズーロには会話の内容がいまいちわからなかった。


『エバはお尻に敷いてくれる良い奥さんになると思うわよ? まあ、アズーロの方がバルドは好みのようだけど?』


(私?)


 突然自分の名前が出たのでアズーロは首を傾げた。

 すると、なぜかバルドがわたわたと慌て始める。彼の顔はほんのり赤く染まっており、焦っているような照れているような、複雑な顔をしていた。


『ちょ、ティファナ……!』


『うふふっ。さあて、わたしは洗濯籠を置いてくるわ。バルドはアズーロの話し相手でもしてあげなさいな。その方が早くここの言葉を覚えられるでしょうし』


 慌てるバルドを無視して、ティファナが洗い終えた洗濯物の入った籠をよいしょと持ち上げた。


 アズーロは自分が持とうと思っていたため慌てて受け取ろうとしたが、なぜかティファナに首を振られる。


『アズーロはバルドと話してていいわよ』


 そしてバルドの名前を出された。


『ティファナ、あの、俺、いいの?』


『ええ。でも、ウチの人に怒られない程度の話にしなさいね』


『わかってる!』


 バルドが戸惑ったようにティファナに何かを確認し、それにバルドが元気よく返事をした。

 二人の間で何かが決まったらしい。


『アズーロ』


 呼ばれてアズーロがティファナを見ると、彼女はなんだか楽しそうにくすくす笑いながら話し始めた。


『バルドと話してあげて。あの子、貴女が気になって仕方ないのよ。彼のことはもう怖くないでしょう? それに、同年代の子と話した方が早く言葉を覚えられると思うわ。じゃ、また後でね』


 ティファナはそうバルドの方を目で示して告げると、彼女はさっさと籠を持って帰って行ってしまった。


 残されたアズーロは一瞬ぽかんとしたが、すぐにバルドに声をかけられ振り返る。


『あの、さ、アズーロ、ここに来てくれる? 座って、話そう?』


 バルドがアズーロに手招きをして、自分の肩に掛けていた手ぬぐいを草の地面の上に敷いた。そして広げた手ぬぐいを手でとんとんと叩き、ここにおいでと示してくれる。


(なるほど……ティファナさん、私にバルドと話しておいでって言ってくれたのかな。バルド……年上っぽいし、男の人だから二人きりはちょっと緊張するけど……ま、いっか)


 アズーロが素直に言われたとおりにすると、バルドがやや緊張した面持ちで隣に座った。彼の方は何もないただの草の上だったため、アズーロは申し訳なさに立ち上がろうとしたが、激しくぶんぶんと首を横に振られてしまう。


『いいから。アズーロはそこに座ってて。俺は大丈夫』


 両手で『そこに、いて』と示されて、アズーロは渋々その場に座り直した。バルドの気遣いは申し訳ないが、正直ありがたくもある。


 今アズーロが着ている服はティファナの若い頃のものだが、いわゆる借り物のためあまり汚したくなかったのだ。


 元々着ていたセーラー服は今はティファナの家に畳んで仕舞っていた。


(バルド、なんかすごく気を遣ってくれてる……レディファーストってこんな感じ? 紳士なんだなぁ)


 男性にこんな風に扱われたことのないアズーロは内心少し気恥ずかしかった。が同時に嬉しくもあった。


 異性から、女性として大切にされるなんて経験は初めてなのだ。


『えーと……話していいって言われたけど、何話せばいいんだろ……アズーロって可愛いな、じゃなくて、いやそうなんだけど、目、綺麗だね、じゃなくて、いや、えっと』


(あれ……独り言が始まっちゃった)


 バルドが何を話すのかとアズーロは待っていたが、彼はなにやら地面に向かってぶつぶつ言い始めてしまった。


 仕方なく風景に目を向けると、柔らかな風が頬を撫で、小川の水が朝日にきらきらと輝いているのが見えて、アズーロはなんともいえない心地よさに瞳を細めた。


(ここってすごく綺麗で長閑……空気が澄んでるっていうか……)


 アズーロが住んでいた所は田舎の方ではあったが、普通にコンビニもショッピングモールもある街だった。

 都会の人から見れば高層ビルがほとんどない平坦な土地なのだろうが、車もそこそこ走っているごく平凡なところだ。

 それに比べ、ここには一切の科学的空気がない。


 車が無い世界というのは、こんなにも空気が澄み切っているものなのかと、アズーロは内心感動していた。


『あの、アズーロっ』


「バルド?」


 そうぼんやり風景を眺めていると、バルドが急に勢い込んで話しかけてくる。首を傾げると彼は顔をやや赤くして、はあ、と大きく息を吸い込んでから言った。


『す、好きな食べものは!?』


「え?」


 アズーロは初めて聞く単語に、ん?と再び首を傾げた。


 一方、バルドの方は『俺は何言ってんだ』と妙に気落ちした表情に様変わりしている。


(あれ……バルドなんか落ち込んでる……今の、何て言ったんだろ。やっぱり言葉がわからないと会話って大変だなぁ)


 がっくり項垂れるバルドを横目に、人との対話は中々に難しいと、アズーロは思った。

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