第13話 第一村人バルド


 鳥の声が聞こえる。


 一瞬だけ、アズーロ———瑠璃は自宅のベッドの上にいるのだと錯覚した。

 けれど目を開けてすぐ見えた天井に、二度目の絶望を味わう。


(そんなわけ、ないじゃない……私の馬鹿)


 目覚めたら元の世界に戻っているかもしれない、という一抹の期待が泡へと消える。


 大きな木の梁は亡き祖母の家と似ていたが、やはり違っていた。

 正直、まだ心の片隅では帰れるのではないか、夢から覚めるのではないかという思いがあるが、目の前の現実はどうしようもない。


 ふう、と一息ついてアズーロが起き上がると、古い木枠がぎしりと音を立てた。

 隣を見てみると、二つ空になったベッドがアズーロのと同じように東向きに置いてある。

 それらはティファナとウルドゥのものだ。


 本来は二つしかなかったところに、無理矢理三つ目を置いたせいで寝室は少々狭くなっていた。


 昨日、アズーロがここに置いてくれと頼み込むよりも前に、ウルドゥが納屋から昔使っていたベッドを引っ張り出して用意しておいたのだ。

 古いが綺麗に磨かれており、艶のある木肌が朝日に輝いている。


(そうだ昨日……ここに居ていいってウルドゥさんが月を描いて教えてくれて……って、私、もしかして寝過ごした!?)


 ぼんやりしていた思考がはっきりするにつれて、自分が初っ端からやらかしてしまったことに気づいたアズーロは、飛び出すようにベッドを降りると、ばばっと急いで髪を手櫛で梳かして服を整えた。


「今、何時なんだろう?」


 部屋を見回しても、時計らしきものは見当たらない。アズーロはベッドの薄い布団をティファナ達と同じように畳んで揃えてから、足早に土間へと向かった。


 服は昨日風呂上がりにティファナが用意してくれていた、合わせ襟の生成りのワンピースのままである。

 

 昨夜、アズーロは受け入れて貰えた嬉しさと、未来への不安が一気に解消されたことで糸が切れるように力が抜けてしまった。床にへたり込んでしまった彼女をティファナが寝室へと案内し、ベッドに寝かせたのだ。


 そうして、眠りこけてしまったというわけである。


(初っ端から寝過ごすなんて駄目過ぎる……! 言った以上は守らなきゃ!)


 働くから置いてくれと言ったのは自分だ。だからきちんとしなければ、と気合を入れる。


 何をすればいいかわからないが、まずは起きるのが遅くなったことを謝って、それからやる事を教えてもらおう。そう決めて、アズーロは土間に立っていたティファナに声をかけた。


「ティファナさん、おはようございます」


 挨拶をしてから、ペコリと頭を下げる。


『アズーロ。起きたのね。おはよう』


 振り向いたティファナが笑顔で「ヨルノ」と答えてくれた。どうやら朝のあいさつらしい。


「ヨルノ、がおはようってことですか?」


『そうよ。おはよう、で合ってるわ』


 アズーロが聞けば、ティファナがうんうんと頷きながら「ヨルノ」と繰り返した。


(朝だけど「ヨルノ」って不思議な感じ……でも短いから覚えやすいかも)


 それに日本語だと反対の意味になるので逆にわかりやすかった。昨日ティファナとウルドゥの会話を聞いていたが、言語事態は発音がはっきりしていて聞き取りやすいかもしれない。


「あの、昨日はありがとうございました。起きるのが遅くなってごめんなさい。何か、やることはありませんか?」


「ヨルノ、ティファナ」と伝えてから、身振り手振りを加えて仕事はないかと聞いてみる。


 ティファナはアズーロの言葉をじっと聞いてくれていた。言葉ではなく、表情や動きでちゃんと理解しようとしてくれている。それが、アズーロは嬉しかった。

 彼女が話し終えるのを待って、ティファナはうーんと考えるそぶりをした。


『やることはあるかって聞いてるのね? そんなに気を遣わなくてもいいのに……あ、でもそうだわ』


 ティファナは少しだけ困ったような顔をしてから、ぱっと何かを思いついたように表情を明るくした。


『アズーロ、目の前の小川で水を汲んできてくれる? はい、これが桶(セチ)よ』


 ティファナは土間に置いてある水がめの横にあった桶を取ってアズ―ロに渡した。そして彼女を玄関先まで連れて行き、家からほど近い場所にある小川を指差す。そして両手で顔を洗う時の動きをし、桶で水を汲む動作をした。


『小川(リュイ)で顔を洗って、ついでに水(クアラ)を汲んできて頂戴。わかるかしら?』


「あそこで顔を洗って、水を汲むってことですね」


 アズーロが桶で同じ動きを表すと、ティファナが頷いてくれた。成程、と頷いて、仕事を貰えたことを喜びながら一歩踏み出そうとして―――『アズーロ』と呼ばれた。


『ごめんなさい。言うのを忘れていたわ。外に出る時は必ずこの上着を着てフードを被っていきなさい。貴女はわたし達と目や髪の色が違うから、良くも悪くも目立ってしまうわ』


 慌てて駆け寄ったティファナがアズーロの肩にケープに似たものをかけ、それからついていたフードをそっと頭に被せた。そして自分の水色の髪を指で差し、アズーロの黒髪を示す。


(髪の色が違うから……隠すようにって言ってるのかな。確かに私、ここの人達と違うものね)


 アズーロは頷き、深くフードを被ってから歩き出した。


 すぐ目の前にある小川はきらきらと水面が輝き、たおやかに流れている。


 周囲には緑の草が生え、蓮華に似た白い花もちらほら見える。人が通る所だけ土の地面が覗いており、田舎道らしい光景だ。


(太陽が真上に来てないってことは、まだ午前中なのかな)


 空を見上げれば太陽はまだ東側にあった。日本での日の位置と時間がここと同じかは不明だが、昼にしては気温が少し低いことから、八割方午前で合っているだろうと見当をつける。


 気候は日本でいえば春の終わりに近いだろうか。


 暑くはなく、やや肌寒い風が吹いている程度で、おそらくお昼頃にはぽかぽかと温かい陽気が降り注ぐだろう。

 田んぼに水が張ってあったことから、もう少しすれば日本でいう夏がくるのかもしれないとアズーロは思った。


 小川の澄んだ水で顔を洗い、桶に汲み上げてから家の方向にくるりと振り返る。すると、後ろの方から自分を呼ぶ声が聞こえ、ぎくりと身体を強張らせた。

 男性の声だったからだ。


『アズーロ、待って! あの、ええと、俺だよ。バルド……!』


 バルド、と昨日聞いた青年の名前に、アズーロは恐る恐る振り向いた。すると生成りの上着を腕まくりした濃い肌の青年が、息を切らせてこちらに走ってくる。


(昨日の人だ……ティファナさん達の知り合いだよね。でも……男の人、ちょっと恐い)


『あ、ごめん! 急に話しかけて吃驚させたよね? ここ、ここで止まるからっ、逃げないで』


 思わずアズーロが後ずさろうとすれば、気付いたバルドが三メートルほど離れた距離で立ち止まった。

 そして片手を慌てたようにぱたぱたと身体の前で振り、頭を下げて「ごめん」の仕草をする。


(良かった。止まってくれた)


 それ以上近づこうとしないバルドにほっとしたアズーロは、何か用だろうかと首を傾げて見せた。


 すると、バルドの頬がぽっと赤く染まる。

 彼は腕に籠をいくつか抱えていた。

 額からは汗が流れており、かなり急いでいたことが窺える。


(顔が赤いの、走ってたからかな? 何か急ぎの用でもあるのかな)


『あー……言葉がわかんないんだよな。ええと、これ、籠! これをティファナに持ってきたんだ。うちの母さんから。ホントは昨日持ってくるはずだったんだけど……俺、疲れて寝落ちしちゃって』


 あはは、と照れ笑いしながら頭を掻くバルドに、アズーロは何を話しているのかはわからないながらもうんうんと頷いていた。籠をティファナに渡したくて持ってきたのだろう、という部分だけは理解できた。


(籠を持ってきてくれたんだよね。ええと、私が受け取って渡せば良いのかな。近付くの、正直言えば恐いけど……勝手に恐がる方が、失礼だよね)


 それに今日からここで暮らすのだから、村の人間とはできれば仲良くしたい。

 ティファナとウルドゥを覗けば、バルドはアズーロにとって『第一村人』なのだ。彼との接触が上手くいけば、これからもきっとなんとかなる気がした。


(よし)


 やや緊張しつつ、アズーロは勇気を出して自分から一歩だけバルドに近づいた。

 するとバルドは目を丸くして、それから逆に一歩後ろに後退る。彼の顔はなぜか真っ赤になっていた。


『あ、えと、だ、大丈夫? 俺のこと恐くない? いや、俺は変なやつじゃないよ。って何言ってんだ俺。ああああの、アズーロ? え、ちょ、待っ……』


(ティファナさん達と話してたし、結構仲も良さそうだった。うん、たぶんこの人は大丈夫。たぶん……)


 ぐるぐると思いを巡らせながら、アズーロは一歩、もう一歩とバルドに近付いていく。

 緊張している彼女は、わたわたしながらバルドが言った言葉が耳に入っていなかった。


「あの、私これからここでお世話になります。なので、よろしくお願いしま……」


 言葉は違うが、きちんと言っておきたくてアズーロは挨拶の口上を口にした。がバルドの様子が先程までと違っていることに気付いて、ん? と疑問を浮かべる。

 なぜかバルドがかなり後ろに後退していた。

 一歩進めば、一歩後退されていたのだ。さっきはこっちに近付こうとしてくれたのに。


(……なんで?)


 不思議に思いながら、足を前に出してみた。すると、バルドが顔をさらに赤くして、同じだけ後ろに下がる。


『うわ、うわ、うわぁ……』


 しかも彼は何事かを呟いている。同じ言葉を繰り返しているようだが、意味はわからない。

 これはもしや避けられているのだろうかと自信が無くなったアズーロは、悲しい気持ちになりそこで立ち止まった。


(嫌われた、のかな……?)


 それか警戒されているのだろうか。


 突然村に来た知らない人間を相手にすれば仕方ないことなのかもしれない。


 彼女はがっくりと肩を落とした。眉尻も下がり、地面に目を落とす。

 第一村人との接触は、どうやら失敗に終わったらしい。


 そう思ったアズーロは胃の底に冷たい感覚を覚えた。これからここで、ちゃんとやっていけるのだろうかと不安を抱く。


『あ……』


 だがそれに急激に反応したのがバルドだ。


 アズーロが傷ついた表情を浮かべたのを見て、これはやばい、何か勘違いされてる! と自分の行動を激しく後悔し青褪める。


 そして後悔した結果、彼は籠を放り投げてその場に突然土下座した。


『すいませんでした! 君が可愛いから照れてただけです!!』


「っきゃ、……え、あの? バルドさん?」


 急に青年に土下座されて、アズーロはわけもわからず慌てた。


(な、何で土下座……? いや私も昨日したけど! でもこの人にされる理由、ないよね?)


 会ってからまだ数分しか経っておらず、こんな風に謝られるようなことはなかったはずなのに、何がどうなってこうなっているのかとひたすら疑問がわく。


「あの、頭を上げてください……」


 いたたまれなくて声を掛けてみるが、バルドは地面に伏したまま顔を上げない。

 アズーロは心底困惑した。


(ど、どうしよう……うーん、よしっ)


 仕方がないので、桶を一旦その場に置いてからバルドの傍まで行き、恐る恐る彼の肩をとんと叩いてみた。

 逞しい肩がびくりと震えてアズーロ自身も驚く。


(うわ、筋肉すごい……!)


 バルドは同年代の男子とは全く違う体つきをしていた。本当にスポーツ選手みたいだ。日本にいたら、運動部に引っ張りだこだったろうな、と明後日な感想を抱いてしまう。


 が、バルドがぱっと顔を上げたため、驚いたアズーロはぴょんっと飛ぶように後ろに引いた。


『肩とんって……動きまで可愛い。なにこの子。うちの村の女子と全然違う……』


 しかも、バルドは何かに感動したように打ち震えている。姿勢は土下座のままで。顔だけあげて。

 ある意味、かなり奇妙な光景だった。


 だがそれも仕方のないことなのだ。女性の少ないこの村では、男性は選ばれる側にある。つまり女性が優位ということだ。ともすれば自然と女性は男性に対して強い態度と口調になりがちで、大人しい女子というのはかなり珍しく、それはバルドにとっても同じだった。


(な、なんか様子がおかしいんだけど……大丈夫なのかな。この人)


 けれどアズーロは彼の行動が全く理解できないため、逆に不審がっていた。その事に、バルドは気付いていない。

 微妙な空気が二人の間に流れる。


 大丈夫なのかこの人は、とバルドをやや不気味に思うアズーロと、村の女性とは全く違う彼女を前に勝手に感動しているバルドという、珍妙な光景がそこにあった。


 しかし、突然その空気を打ち破る声がした。


『……バルド。お前さん、何をやっとるんだ』


 呆れ帰ったウルドゥの声である。

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