第11話 ティファナ・ウルドゥ夫婦


「……」


 ぴちゃん、と。

 一滴の雫が湯の中に落ち、飛沫を上げた。


 湯に映し出されていたアズーロの顔が、波紋によって掻き消されていく。


 白く湯気が煙る石風呂で、彼女は俯いていた顔を前に戻した。

 今いるのは現代で言う浴室だ。

 ティファナ達の家には一番奥に板張りの小さな小屋が二つあり、そこが浴室と手洗いになっていた。


 広さは四畳ほど。石を削って切り出した風呂桶は人ひとりが入るのがやっとの大きさで、造りはいわゆる五右衛門風呂のそれだった。

 真下で火を起こすため、熱さを凌ぐために石風呂の底に木板を沈めて入る方法も日本と同じだ。


 入る時、ティファナがやり方を説明してくれたが、すぐに理解できたのは祖母の家でもう使われていない古い五右衛門風呂を見ていたからだった。

 だがまさか、それをありがたいと思う日が来ようとは。


(何が役に立つか、わからないものだね。お祖母ちゃん)


 アズーロは木の梁が巡る頭上を見上げながら、胸の中で亡き祖母に語り掛けた。

 耳をすませば、かすかにティファナとウルドゥの声が聞こえてくる。


 あの二人を見ていると、なぜか心が落ち着いてくるから不思議だ。

 祖母の持っていた雰囲気に、どことなく似ているからかもしれない。


(これからどうしようか……)


 ティファナに誘われるまま家に付いてきたが、そう何日も置いてはもらえないだろう。

 そもそも、今夜も泊まらせてもらえるかすらもわからない。

 アズーロは不安だった。


 実際のところは、ウルドゥはバルドに語った通り、彼女が落ち着くまでの間様子を見ることにしたのだが、当の本人は会話の内容を知らない。


(どうやったら元の世界に帰れるんだろう? そもそも帰れる方法ってあるのかな)


 最初に見たあの神殿のような場所も、次に目が覚めた時には消えていた。

 殺されかけて悲鳴を上げたところまでは覚えているが、なぜかそこから先の記憶は無かった。

 次に思い出せるのはティファナ達に起こされたあの瞬間からだ。


(そういえば……何かが燃えるような臭いがしてたような……?)


 ティファナ達と出会った場所を最後に見た時、平原は黒く焼け焦げていた。


(あと……赤い色、が……悲鳴も……)


 アズーロの脳裏に、燃え盛る炎の姿が映る。


 まるで全てを焼き尽くすような業火が、辺り一面を飲み込んでいたような、そんな映像が浮かんだ。あれは本当に『あったこと』なのだろうか?


(セーラー服も、焦げてたよね……?)


 今、彼女が着ていた制服は風呂場の外に置いてある。入学からまだ二週間しか経っていないのに、見るも無惨な状態だった。頑丈な布地のはずなのにあちこちが擦り切れ破れているし、それに焼けたように焦げていた。あれではもう着られない。


(でも―――熱かった覚えなんてないのに)


 これもまた不思議だった。


 制服は焼けているのに、アズーロ自身には火傷どころか熱かった記憶もまったくないのだ。


(ああもう、わからないことだらけ)


 考えても答えなど出なかった。


 真っ青な髪をした男も、白い装束の男達も確かに覚えているのに、彼らはどこに行ったのか。

 白い湯煙の中で、アズーロは深く溜め息を吐いた。


 ―――ぴちょん。


 彼女の顎下から落ちた雫が湯に波紋を描く。

 ゆらりと揺れた水面で、何か鱗のようなものがきらりと光った。

 明り取りの反射だろうか。


(……そうだ。傷も無くなってたっけ)


 アズーロは湯の中で自分の左脚を擦った。

 痛みはない。それどころか、傷らしきものも一切ありはしない。


(あんなに痛かったのに……)


 なぜ、傷が消えているのか。

 刃物で切られた瞬間の痛みも、恐怖もまざまざと覚えているというのに、痕跡が跡形もない。

 だが絶対に、夢ではなかった。その確信だけが不思議とあった。

 あれは現実だ。

 そして、すべてに説明のつく現実などありはしない。

 そのことを、今の自分は知っている。


(いつか、わかる時がくるのかな)


 なんとなくそう思った。

 次に村の人々を思い出す。

 ティファナにウルドゥ、バルド。道中見かけた村人。


(ここじゃみんな髪が水色とかみたいだけど、今までに私みたいな人っていなかったのかな)


 自分がいるのだから、同じようにここに来てしまった人もいるのではないか。

 そんな風に考える。

 だが確かめる術はない。尋ねることさえできないからだ。

 言葉が通じないというのは全くもって不便だ。それを今日、心底思い知った。


(どうにかして聞けないかな。あとできれば、しばらくここに置いて欲しいってお願いしたい。図々しいのは、わかってるけど)


 またできることなら、言葉を教えて欲しかった。

 我ながら厚かましいと思うが、何かを知るためには言葉が扱えねば文字通り話にならないからだ。


 まずは居場所が欲しい。安心して過ごせる場所が。


 それはできればティファナ達のそばでありたいと、アズーロは願っていた。

 自分だったら見ず知らずの人間を家に置くなどしたくない。


 けれど今頼れる相手は彼らしかいないのだ。それに不思議だがアズーロの直感が、彼らでなければと訴えていた。

 断られるかもしれないが、今はなりふり構っていられる状況ではない。どうにか頼み込んでみるしか。


(仕事……っていえるかわからないけど、洗濯でも掃除でも、なんでもやりますって伝えてみよう)


 すべてジェスチャーになってしまうのが辛いが、役に立つかもしれないと思ってもらえれば、置いてくれるかもしれない。


 アズーロは擦り切れた心をなんとか奮い立たせ、明日への希望を胸に抱いた。

 ティファナ達は良い人に思える。

 実際、あの場所で独りだった自分を家に連れてきてくれた。その上、暖かい風呂にまで入れてくれている。

 必死に願えば、もしかしたら受け入れてくれるかもしれない。そうであって欲しい。

 アズーロは強く願いながら、シャンプーもリンスもない風呂を済ませた。


***


『あら、さっぱりして綺麗になったわねぇ。顔色も少し良くなったみたい。安心したわ』


 アズーロが風呂から出ると、ティファナは笑顔で出迎えてくれた。


「あの、その、お風呂、ありがとうございました。着替えも」


 アズーロは礼を言いながら頭を下げた。たとえ伝わらなくとも、礼儀は通すべきだと思ったのだ。

 服については指で指し示しながらもう一度頭を下げると、通じたのかティファナはひらひらと片手を振った。


『まあまあ、お礼を言ってくれているのね? いいのよ! わたしの若い時の服が着られて良かったわ。やっぱり女の子は良いわねえ』


 ティファナは満足そうに頷きながら、少女のようにくすくすと笑った。


 彼女は土間にある炊事場で食事の用意をしていたようで、素朴な木の大皿に料理を乗せて運んでくる。

 小上がりになった板張りの床にはテーブルと椅子が置いてあり、すでに三人分の用意がされていた。

 今ティファナが運んで来ているのはメインの料理らしい。

 ほかほかと湯気が立ち上る大皿には肉と野菜を煮込んだものがのせられ、ほんのり甘い果物の香りも入り混じっている。


(美味しそう……)


 今になってようやく、アズーロは自分が空腹であることを思い出した。

 そういえば学校で給食を食べて以降、一切飲み食いをしていない。あれからどのくらい時間が経っているのか見当もつかないが、気づけば喉もからからだった。

 またそうと認識すれば人間の体とは現金なもので、早く胃に食物を入れろと途端に騒ぎ始める。

 くうぅ、と情けない犬の声に似た音が、アズーロの腹から鳴り響いた。


(やだ、恥ずかしい……!)


 正直過ぎる自分の腹の虫にアズーロは赤面した。いくらなんでも今鳴ることはないだろう、とそんな無意味な突っ込みを己にしてしまう。

 なにしろ彼女はこれからティファナ達に居候を許してもらねばならないのだ。だというのに、流石にこれはない。


『ふふふ。ちょうど良かったわ。食事を用意したからぜひ食べて頂戴な』


 顔を真っ赤にしながらお腹を抑えるアズーロに、ティファナは話しかけながら椅子へと促した。


(食べてって、言ってくれてるみたいだけど……)


 手の動きでどうぞ、と示されたものの、アズーロはすぐに応えてよいものか悩んだ。

 先にお願いをすべきではないかと思案するが、その時ちょうどウルドゥが外から戻ってきたのに気づく。


『よいせっと。おお、こりゃ美味そうだ』


 彼は片腕に薪を抱えていた。炊事場の脇に薪の束を置くと、土間で手を洗ってから肩をほぐすように回しつつ食卓の方へと上がってくる。


『ん? どうした。食べないのかね?』


 さっさと席に着いたウルドゥは、アズーロの顔を見上げて不思議そうに首を傾げた。


『遠慮しているみたい。いいから、どうぞ食べて。わたし達二人じゃ余ってしまうわ』


 アズーロを安心させるためか、二人ともゆっくりと喋ってくれている。ティファナはそっとアズーロに近づくと、彼女の肩に手を添え椅子に座らせた。


「あ、ありがとう、ございます……」


 ぼそりとお礼を言い、小さく頭を下げた。すると二人はわからないながらもうんうんと頷いてくれた。


『それじゃあ、いただこうか』


『ええ』


 ティファナとウルドゥの二人は互いを見やってから、そっと瞼を閉じる。

 アズーロは二人の仕草をじっと見守った。二人が食べ始めてから手を付けようと考えたのだ。それくらいの分別はある。

 すると、ウルドゥが何かを唱え始めた。


『母なる海とヌドマーナ神様に、我らが糧をお与えくださった感謝を捧げます』


『感謝を捧げます』


 ウルドゥが言い終わった後に、ティファナもやはり同じ単語を繰り返した。

 どうやら食事の際に唱えられる祈りの言葉のようだ。


 アズーロは小学生の時にクリスチャンの友達がいたことを思い出した。彼女の家に遊びに行った時、おやつを出されて「いただきます」と言ったら「うちではこうしてるんだよ」と教えてくれたのを懐かしく思い起こす。


 ここでの生活や文化は、服装などの外見的特徴は古代日本を感じさせるものの、習慣などは少し西洋に似ているのかもしれない。そう感じた。

 だが、ひとつだけ気になることがある。


(今、「ヌドマーナ」って聞こえたよね……?)


 アズーロは聞き覚えのある言葉に自分の記憶を辿った。それは【あの時】、青髪の男と白装束達が口にしていたのと同じ単語だ。何かの名前のように思える。もしかすると、友達が口にしていた「神様」に近い存在の名前なのかもしれない。


(なら、あの時、私を殺そうとしながら言っていたのは……)


 神の名を唱えながら誰かを殺す。

 それは、小説などの物語でありがちな『生贄』というものではないだろうか。

 そんな考えが忽然と浮かぶ。


『さあ、食べようか』


 そうぼうっと考え事をしていたら、瞼を開けたウルドゥがさっそくメイン料理を覗き込み、うん、とひとつ頷いた。


『これは昨日の羊肉だの。良い具合に煮えとるな』


『でしょう。アズーロ、はい、貴女の分よ』


 ティファナが最初にアズーロへメインの料理を取り分けてくれた。

 掌より一回り大きいくらいの木の器に、たっぷりと肉と野菜の煮込みらしきものが彼女の前に置かれる。

 グリーンカレーに見た目が似ているが、香りはトマトとほぼ同じだ。

 他に丸い小麦のパンと、取っ手の無い木のコップ、木を削って作ってある先割れスプーンが用意されていた。


 素朴で、どこか懐かしい感じのする食卓だ。

 日本で見た、指輪が出てくるファンタジー映画の小人達の暮らしのようだ。


『おお、こりゃ美味い』


 一口食べてウルドゥが溢す。彼の表情は幸せそうに微笑んでいる。それに、ティファナも『ふふふ。今日は上出来だったのよ』と笑顔で応えていた。


 アズーロも遠慮がちではあったが料理を口にした。肉と野菜を煮込んだものの味は、ミネストローネによく似ている。それよりも具材が大きく、ごろごろとしていて食べ応えがあるが。


 ソースの色が緑なので混乱してしまうが、トマトと同じ少しの酸味と甘味があってとても美味しい。肉は羊肉のようだ。中学の修学旅行で食べたジンギスカンと食感がした。


「美味しい……」


 ほっと心も身体も温めてくれる優しい味に、思わず呟きを漏らす。すると、ティファナがにこっとしながら首を傾げた。


『今、なんて言ったのかしら。口に合ったか知りたいけど、どう聞けばいいかしらね?』


『普通に話しかけてもいいんじゃないか。アズーロ、どうだ? 妻の料理は』


 ウルドゥはなんと言えばいいかわからないティファナに代わって、アズーロに声をかけた。そして器を指差し、質問の意味を示す。


「とても、美味しい、です」


 アズーロは正しく意味を汲み取って、ほんの少し口元を緩ませ笑みを浮かべた。心の底から笑うことはまだ難しいが、あたたかい味に心がぬくもり、微々たる余裕が生まれていた。


『気に入っておるみたいだぞ。良かったの』


『ええ。それに、この子笑うと本当に可愛いわ』


 嬉しそうに言うティファナを見てから、ウルドゥはふうふうとスープを冷ましながら食べているアズーロをそっと窺った。あどけない表情にはまだ憔悴が漂っていて、見ているのが痛々しい。


『若い娘がなぜあんなところに独りでおったのか。不思議でならんの』


『そうね。ご両親はどうしたのかしら……』


 ティファナとウルドゥの二人はゆっくりと食べ進めていくアズーロの様子を見ながら話し合った。


 食事を終えたら事情を聞きたいと思っているが、言葉が通じないのは困ったものだ。


 出会った時の途方に暮れた様子からして、悪しき人間でないのは明らかだった。

 最初警戒していたウルドゥすら、数時間アズーロと一緒にいただけでただの少女だとわかっている。

 出会った状況はおかしかったが、アズーロ自身はまったくの普通の少女だ。

 であれば、あんな場所に独りでいた理由は、おそらく何かに巻き込まれたか、連れ去り等のどちらかだろう。


『自ら臨んで来たようには、見えんな』


『そうね……』


 ウルドゥの考えを肯定したティファナが沈痛な表情を浮かべた。

 夫婦ともに同じことを考えていたからだ。

 身ひとつで少女が平原に一人ともなれば、理由は限られる。


(【彼ら】の遣いにでも、拐かされたのかもしれん……)


 珍しいものを好む彼ら【アヴェ―レ】なら、アズーロのような珍しい黒い髪、大地の瞳を持つ娘を見逃しはしない。たとえ異国の少女であっても、無理やり連れてくることぐらい造作もないだろう。


 自分達【ヌッラ】が彼らにされたことを思えば、生きているだけでも上々に思えた。


 一人だったということは、何事かあって逃げてきたのかもしれない。


(だとすれば、いつか問題が起こるやもしれんの。ならば、それまでに術を身に着けさせてやらねば)


 もしも見つかれば、過酷な状況が待っている。


 この子が故郷へ帰れる術が見つかるまでは、暫く匿っていたほうがいいかもしれないと、長年連れ添った夫婦は口に出さずとも互いに感じていた。

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