第7話 名も知らぬ世界の片隅で


 土を踏む音が近付いていた。


 緑に覆われた大地に、突如として黒い土が広がっている。

 辺りには焦げた臭いが立ち込め、まるでそこだけ焼き尽くされたような有様だ。


 それを眺める二人の人物は、驚きと困惑が入り交じった表情で互いを見やる。


『おかしいわねぇ』


 年老いた女性が口を開いた。


 歳の頃は六十前後といったところ。淡い水色の髪には白髪が多くみられる。

 丸顔でややぱっちりとした目の端には柔和な皺が刻まれ、ゆとりのある長衣がふっくらした体形を包んでいた。


『ねえ、貴方。わたしの勘違いかしら? リジャ神院じんいんはここにあったと思ったのだけど』


 白髪交じりの女性は片手を顎に当て、うーんと首を捻りながら隣に立つ夫に訊ねた。

 ここには千年を越えて建つ神祀かみまつりの院があったはずだ。

 だが、今はどこをどう見ても見当たらない。

 こんなことがあるだろうか。


『もしや道を間違ったかな』


 妻の問いに夫が答える。

 こちらも同じく水色の髪に白髪を多く生やした初老の男性であった。

 服装は妻と似ているが、下は茶色い木綿のズボン姿だ。

 背は妻よりも頭一つ半ほど高く、体格がしっかりしていることから長年力仕事をしているのが窺えた。

 二人とも、背中に小ぶりの麻袋を背負っている。 


『う〜む……』


 夫は白が混じった無精ひげを右手で撫でつけながら、辺りをぐるりと見渡し低く唸った。


 「星啼き」と呼ばれるこの時期、信仰神である龍蛇神りゅうだしんヌドマーナにお参りに来るのが、この夫婦の慣例である。

 毎年のことなのだ。

 けれど今回は不思議と辿りつけなかった。


 道順は間違っていなかったはずだが、院が無いのだから言い訳もできない。

 それに、こんな風にぽっかりと黒い土がある場所など覚えがなかった。


『何度も来ておるというのに。まさか間違えるとは……。儂も耄碌もうろくしたかの』


 男性は愚痴をこぼしながら苦笑した。


 自分ではまだ若いと思っているものの、実際にはそうでもないのかもしれない。

 こうして実感するとやはり少し辛い。


『ふふっ。二人そろって間違えるなんて、間抜けもいいとこだわねぇ!』


 しかし妻である女性は、それがどうしたとからから明るく笑う。

 草原に空いた土の場に、あっけらかんとした声が響く。


『……間抜けか』


 そんな妻の様子を見て男性は一瞬きょとりとした後、短く呟いた。

 彼は妻を眩しそうに眺め、それからまた黒い土肌に目を移す。


 老いを悲観的に捉えていた自分がなんだか馬鹿馬鹿しく思えた。失敗すら笑い飛ばしてしまう妻の性格に、これまで何度も救われたことを思い出す。


『まったくだな』


『ねぇ』


 男性は左脚にそっと触れながら妻と同じ場所を眺め微笑んだ。


 こういう妻だからこそ、老いるまでやってこれたのだ。


 【ヌッラ《無い者》】として生まれた不幸も、妻とならそう悪くない人生だった。

 むしろ、これで良かったのだとすら思う。

 愛する人と四十年連れ添えた喜びは、何物にも代えがたい。


 そう思いながら男性は歩き出した妻の背中を見つめ目を細めた。


『だけど、ここにこんな開けた場所があったなんて知らなかったわ。芝も生えてないなんて。……もう少し行ったら何かあるのかしら? ね、見に行ってみましょうよあなた』


『わかったわかった』


 振り向いた妻に笑顔でそう言われて、男性はまあいいかと頷いた。お参りは特に急いでいるわけでなし、また来れば良いだけのことだ。


 若い頃は慎重すぎると言われたものだが、好奇心旺盛な妻と一緒になってからは幾分か和らいだ気がする。

 とっつきやすくなったと仲間内では言われた。

 夫婦は似てくるというが、歳を取れば取るほどその実感は強くなっている。それが割と気に入っていた。


『あら』


 先を歩いていた妻が突然、足を止めた。

 男性はおや、と思いながら妻の横に並び、同じ方に目をやる。


『どうした』


『まあ、あらあらあら! 見て下さいな! あそこ! 誰か倒れてるわ!』


『なんだと』


 妻が指差す方向に目を向けて、しばらく行った場所に確かに人がいるのを認めて驚いた。


 ぼろぼろの服を着た人間が、黒く煤けた大地の中心に一人ぽつりと倒れているように見える。

だが、周囲の様子はどこか奇妙だ。


『あんなところに人が……』


 通常、今の季節なら〖リジャ平原〗は緑の草で覆われている。平原の真ん中には夫婦が目指していたリジャ神院が建ち、人々が時節に応じて参拝に訪れるのだ。


 そもそも、この平原にこんな荒れた土地があったなど男性はついぞ聞いたことがなかった。それに、この焼き払ったような荒れた土の面はどこか異質だ。


 草原を焼き、その灰を肥料として畑に利用する方法があるにしても、ここは人里から離れているし、畑にしては範囲がどうも巨大すぎる。


 なにかがおかしい。


 男性は不穏な気配を感じていた。


 足下に残る草に目をやれば、葉が根元から焼き切れていた。緑が忽然と途切れ、真っ黒な焦げ目が出来ている。


 黒ずんだ地面を目で辿れば、妻が指差した人の倒れた場所に行き付いた。まるで『そこ』を起点として、この黒焦げの大地が広がったかのように。


『どうしましょうっ。早く行かないと、ほらっ』


『あ、ああ……』


 男性の考えをよそに妻は早く助けにいかなければと焦っている。

 服の裾をぐいぐい引っ張られながら男性は戸惑っていた。


 先程からやけに黒土が広がっているとは思ったが、道を間違えたといっても、こうも突然様子が変わるものだろうか———と。


 人が通るために草が刈られた茶色い小道とは別に、まるで巨大な焼き鏝(ごて)を当てたかのように地面が開いている。

 しかもその中心と思しき場所には人が倒れているのだ。


 強い違和感を抱いたが、男性は妻に急かされるままに開けた土の中心、最も黒く焦げた痕のある場所へ辿り着いた。


 倒れていたのは一人の少女だ。

 横倒れになった頭から長い髪が地面に広がっている。顔は煤で汚れ、頬には涙の跡があった。


 少女は見覚えのない奇妙な服を身に着けていた。

 それを見て、男性も妻も驚きに目を瞠った。しかし、互いに意味は違っていた。


『まあ女の子だわ! 可哀想に、こんなところで』


『……黒い、髪』


 見たことも無い色に戸惑いつつも、男性はまず少女の手首に指先を当て脈があるかを確認した。どくりどくりと血の通う感触がして、ほっと安堵してから妻に頷く。


『息はあるようだ』


『よかった……!』


 妻の顔に笑みが浮かぶ。それを複雑に思いながら男性は妻に促した。


『あとはお前さんが見てやってくれ。どこか怪我をしているようだ』


『ええ。貴方はお茶でも用意しておいてくださいな』


『わかった』


 四十年の年季がそうさせるのか、夫婦は手際よく分担し作業を進めていく。


 妻は少女の身体をさっと確認した。擦り傷や黒い煤が頬についている。驚くほど短いスカートからすらりと伸びた脚には血がついており心配したが、目を通したところ特に深い傷は


 緊急で処置すべきものはないと判断し、妻はそっと少女の頬に手を当て優しい声で呼びかけた。


『ねえ、ねえ貴女。起きて頂戴な。こんなところでどうしたの。怪我は目立つところには無いようだけど……あまり動かさない方がいいかしら。ねえ、お嬢さん、大丈夫?』


 妻が少女———瑠璃に語り掛ける。


 労わりに満ちた声が、奈落の淵に沈んだ少女の意識を目覚めさせていく。


 黒い睫毛がふるふると震え、涙の名残りを残した瞳がゆっくりと開き始めた。


『どこか苦しい所はない? わたしは———』


「……っ、ぃ、っいやああああっ!!」


 妻が名乗ろうとした瞬間、瑠璃の瞳が勢いよくかっと開き、飛び起きた彼女はすぐさま悲鳴を上げた。


『きゃっ』


『おわっ』


 その声に老夫婦二人が驚く。


「やめてっ! お願い殺さないでぇっ!!」


 直前の出来事のせいで恐怖に駆られた瑠璃は叫びながら後退し、身を守るように自身を腕で抱いてその場に蹲った。


 彼女の髪は地面に倒れていたせいで土にまみれ、顔は煤と涙でぐちゃぐちゃになっていた。


 瑠璃の脳内に振り下ろされた刃が蘇っていた。


 躊躇いなく自分を殺そうとした人達。

 彼女は怯え、酷い混乱と恐怖に陥っていた。


 そんな瑠璃を老夫婦は驚いた表情で見ていたが、彼女の肩が震えているのを見て気の毒そうに眉尻を下げた。


『可哀想に……よほど怖い目にあったのね……』


 瑠璃の尋常ではない様子に妻の方が言葉をこぼす。しかし異界の言語は瑠璃にはわからない。彼女は怯え泣きながら周囲を見回し、あの白装束達がいないか確かめていた。


(あれから私、どうなったの!? 生きてるけど、また知らない人たち……! もう、嫌!!)


 瑠璃は目を血走らせながら身を固くしていた。訳のわからないこと続きで心が壊れそうだった。


 明らかに知らない場所、知らない人。知らない言葉。


 目の前にいるのは先程見た白装束ではないが、何をされるかわからない恐れが瑠璃の身体をがたがたと震わせる。


『ねえ貴女、急に動くと身体に障るわ。見慣れない服だけど、』


「ひっ」


 老夫婦の妻の方が心配そうに彼女に近づこうとして、びくりと強張った瑠璃の様子にそれ以上進むのをやめた。


 距離を挟んだまま妻は瑠璃に再び話しかける。


『貴女、こんなところでどうしたの?』


『怖がらんでいい。儂らはこの近くにある神院にお参りにきたんだ。確かこの辺だったはずなんだが……歳のせいか道を間違えたらしくてな。それでお前さんを見つけたんだ』


 妻の言葉に男性が付け加える。


 瑠璃は二人を交互に見比べ、自分に話しかけていることは理解できるものの答えていいかどうか戸惑った。


 何を言っているかわからないからだ。


(この人達、一体何て言っているの? 日本語じゃない。英語にも聞こえない―――)


 異界の言語を前に瑠璃は混乱するしかなかった。直前に経験したことにより恐怖心が強く、下手に返事をすることは憚られた。


 老夫婦達はそんな彼女を前に困惑したが、やがて妻の方がもう一度そっと彼女に歩み寄る。

 妻は両腕を広げ、傷つける意思はないことを瑠璃に示す。


『……大丈夫。大丈夫よ。わたし達は何も怖いことはしないわ。だからお願い、怯えないで。助けたいだけよ』


「あ……」


(この女性、何も手に持ってない。刃物みたいなものもない。それに、さっきの人達とは着ている服とかも違う……)


『泣かないで。可愛いのに勿体ないわ』


 妻が自分の頬に指先をあて、涙を示す仕草をする。


 それから、手で拭う動作をして、自らの胸をぽんと叩いた。その拍子に、妻が首から掛けている首飾りがしゃらりと鳴った。


『わたしは貴女に何もしないって誓うわ。だからどうか、今はお節介を焼かせてもらえないかしら』


 妻が瑠璃に柔らかく微笑む。丸顔で少しふっくらした妻の笑顔は、どこか瑠璃の亡き祖母に似ていた。


 夫である男性は妻と瑠璃のやりとりをじっと静かに見守っている。


(この人、たちは……)


 瑠璃は二人の夫婦を交互に見た。あの青い男の冷たい目とは全く違う目をしていた。


 それに、彼等の瞳は青ではなく薄い水色で違う色だ。嘲るような様子などなく、どこか温かく、瑠璃をちゃんと『人』として見てくれている。


『喉は渇いていない? お茶でも飲めば少しは落ち着けるかしら』


 妻は根気よく瑠璃に語り掛けた。そのおかげで、妻の意思は正常に彼女に伝わった。


 この人たちは大丈夫だ。


 そう理解した途端、瑠璃の瞳から大粒の涙が溢れ出す。


「わから、ない……。私、貴方たちの言葉、わからないの……」


 異界の言葉に瑠璃は呆然と呟いた。そうして認めたくなかった事実を認める。

 ここは日本ではない。


 そもそも、同じ世界ですらないのだと。


 老夫婦二人は彼女が見たこともない水色の髪をしていた。白髪混じりだが綺麗な水色だった。


 染めているかどうかは生え際を見ればわかった。着ている衣装も民族衣装のように見えるが、現代のものとはどう見ても違っている。 

 そもそも、首から提げている大振りのペンダントが仄かな明かりを放っているのだ。

 嵌め込まれた石の中では文字が躍っていた。


『あらあら……ごめんなさいね。何か嫌な事を言ってしまったかしら……』


 泣き出した瑠璃に妻がおろおろと狼狽える。


『いや、違うようだ。もしかすると、この子は儂らの言葉がわからないんじゃないか?』


 男性の予想に妻が頷く。


『そういえば、身に着けているものもわたし達とは違うわね』


 白髪交じりの髭を撫でながら、男性はふむ、と息をついてから結論を出した。


『この子は異国から来たのかもしれん……黒い髪を持つ人間など、初めて目にしたが』


『そうねぇ。とても綺麗でわたしは好きだけど。でも、どうしましょうか』


『うーん』


 妻に聞かれて、男性は悩んだ。


 言葉が通じないならばどこから来たのか聞きようがない。

 見たところまだ若い少女だ。泣き腫らし怯えてはいるものの身体は健康そうに見える。それなりの家で育った娘なのだろう。

 ならば親も案じているはずだ。できれば親元に帰してやりたいが、言葉が通じないのでは少々厄介だ。

 それにこんなところで倒れていた事情も気になる。

 かといって、このまま置いていくのも躊躇われた。何より、妻が許さないだろう。


「……っ…、ぅ、ここは、どこ……お願い、帰して……っ、お願い……っ」


 帰りたいと零しながら、瑠璃は泣き続けた。


 ここは異世界。


 自分は全く異なる世界へ来てしまったのだと実感して、彼女は絶望した。


 はらはらと涙をこぼす少女を前に、老夫婦二人は困った顔で互いを見合わせた。


 ———異界の片隅で、一人の少女が泣いていた。

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