第8話 新名(あらな)得て


『……貴女歩ける? 少し距離はあるけれど、わたし達の家に来るといいわ』


 老夫婦の妻は泣き止まない瑠璃から人ひとり分の距離を開け、しゃがみ込んで告げた。無論、伝わらないであろうことは承知のうえだ。


 それを聞いた男性、夫の方は仰天して口をあんぐりと開けた。お人好しの妻が言い出すことなど普段なら予想できたが、止める暇も無いとはこのことだった。


『お、おい、勝手に』


『だってあなた。この子をこのままにしてはおけないでしょう?』


 口を挟もうとしたが妻にぴしゃりと跳ねつけられる。夫は思わず口をへの字に曲げ渋面を浮かべた。


『それはそうだが……』


 妻の言い分はもっともだ。自分とて見捨てたいわけではない。


 ただ何かがおかしいのだ。


 見たこともない黒い髪、そして大地の色をした瞳と、この平原の異常な様子。どれをとっても不穏な気配しか感じられない。


 だが、妻はそんなことおかまいなしだ。


『ああ、そうそう。その服をどうにかしなきゃね。……えーと、確かここに……あったわ!』


 妻はにっこりと笑いながら背中の荷物袋から生成りの布地を取り出した。それを見て、瑠璃は目をぱちりと瞬かせた。

 妻が彼女にその布地をずいっと差し出してきたからだ。


「えっと……?」


 泣いていることも忘れ首を傾げる瑠璃に、妻は布地を両手で広げて見せた。


『わたしのもので申し訳ないけど、上からこれを着るといいわ。貴女のその恰好じゃすごく目立つもの』


 大ぶりの布はどうやら巻き付けるタイプのワンピースのようで、襟の合わせや長い袖、腰紐などがどこか日本の着物に形状が似ていた。裾には青い糸で細やかな花の刺繍が施されており、簡素だが愛嬌のあるデザインだ。


「可愛い……」


 瑠璃の口からつい感想が零れる。濡れた瞳は一枚のワンピースに惹き付けられていた。


 殺伐とした状況に突如として日常が戻ってきたような、ほっとした思いに胸が包まれていく。


 まだ十六歳。ついこの間まで中学生だった瑠璃にとって、今の状況は残酷過ぎて、少しでも心を逃がすことが必要だった。


 泣き濡れた顔がわずかに綻んだのを見て、妻は目尻の皺を深くした。


『気に入ってもらえたかしら? 貴女には大きいかもしれないけど、今はちょうどいいわ。帰ったら刺繍を足して、幅も調整しましょうね。きっとよく似合うわ』


 にっこり。そんな音がついていても不思議じゃない笑顔で妻が笑う。


 瑠璃が差し出されたワンピースをおずおずと手に取ると、妻が身振り手振りで着方を教えてくれた。

 言葉は通じなくとも、妻が何を伝えたいのかは瑠璃にも十分理解できた。


(着物って浴衣くらいしか着たことないけど……こう、かな?)


 指示通りに瑠璃がワンピースを巻き付け身に着けると、妻は手を叩いて喜んだ。


『まあ、上手! それじゃ、仕上げにこれを巻きましょうね』


 そして荷物袋から一本のベルトを取り出し、瑠璃の腰に巻いてくれる。布を留めておくためのようだ。


(これも可愛い……)


 銀色の蔓モチーフのバックルが付いたベルトはやや洋風で、服と合わせると和洋折衷のコーデになった。


『とっても似合うわ! 貴女の黒い髪に青い糸が映えて、すごく素敵。瞳は大地の色なのねぇ。暖かくて優しい色だわ』


 ほう、と感嘆しながら妻が言う。


 瑠璃はその言葉を首を傾げながら聞いていたが、突然妻がはっとした表情で何かを思い出したように手を打ったので肩をびくつかせた。


『あらいやだ! まだ名前も名乗っていなかったわ! ほんとわたしったら抜けてるんだからっ』


 何事か言いながらくすくす笑いだした妻を前に瑠璃は疑問符を浮かべるばかりだ。


『わたしの名前はティファナよ。わかる? ティファナ』


 妻は瑠璃に歩み寄ると、自分の名前を名乗り自らを指差した。


『儂はウルドゥだ』


 続いて夫の方の男性が名乗った。


 老夫婦はそれぞれ自分を指差して瑠璃に名前を教えた。

 彼女を少しでも安心させようとしているのだろう。


 にこにこと笑顔で示してくれる二人を前に瑠璃は何か言わなければと口を開く。動作から二人が名乗ってくれているだろうことは推察できた。


「てぃふぁな……うるどぅ?」


 人を指差すのは気が引けたが、伝わっているのだと示すために瑠璃は妻と夫の一人ずつを指し示しながら、彼らに教えてもらった名を口にした。すると妻はにこりと笑みを見せた。


『ええ。そうよ』


(……この人、なんだかお祖母ちゃんに似てる……)


 妻の笑みを見て、瑠璃は亡くなった祖母を思い出した。この女性は祖母よりもいくらか若いけれど、笑い皺の絶えなかった母方の祖母によく似ている。


 それに女性が自分を安心させようとしているのが感じられて、瑠璃は残っていた身体の強張りが溶けていくのを感じた。


『貴女のお名前も聞いていいかしら?』


 妻が自分を指差したままもう一度『てぃふぁな』と名乗る。それから今度は瑠璃を指差して、質問を示すように首を傾げて見せた。


(名前が知りたいってことかな……?)


 質問の意味を汲み取った瑠璃は自らを指差し名乗った。 


「私は、瑠璃、です」


『うり?』


「ええと、瑠璃……って発音しにくいのかな」


 どうやらこの世界の言語では瑠璃の名前は発音が難しいらしい。


 何度か伝えてみるも、やはり『うり』の音になってしまう。ティファナ達もなんとか発しようと苦心してくれたが、どうも難しいようだ。


『ごめんなさいねぇ……貴女の名前なのにちゃんと言えなくて……』


『言葉が違うのがこうも難しいとは』


 困り果てる二人に申し訳なくなった瑠璃はどうしたものかと考えた。


(確か……私の名前ってお祖母ちゃんがつけてくれたんだよね……瑠璃色が由来だって言ってたっけ。あ、そうだ)


 悩んだ末に、瑠璃はティファナが首から下げている石を指差した。それは青い色をしており、瑠璃色と表現されるラピスラズリによく似ていた。中には文字が浮かんでいるため瑠璃の知る石ではなかったが、色の概念ならば通じるかと考えたのだ。


 この世界の空と草葉が、元の世界と同じであるように。


「その石の色……この世界だと何て、言うんですか?」


 瑠璃はティファナが身に着けている石を指差し、そして自分を指差した。

 するとウルドゥがふむ、と一呼吸つき、瑠璃の意図を図るように頷く。


『護符? この護符が気になるのかしら』


『護符が名前なわけはないだろう。ということは、石の色のことを言っているんじゃないか』


 考え込むティファナにウルドゥが助け舟を出す。村では寡黙で通っているウルドゥだが、彼は元来思慮深く口にする言葉は明確で的を得ていることが多い。


『色?』


『この子の名前は色からきているんだろう』


 老夫婦二人が会話する。瑠璃には意味はわからなかったが、二人の様子から自分の意図を考えてくれているのだと察した。


『ということは、アズーロ(瑠璃色)のことね。貴女、アズーロ(瑠璃)って名前なのね。綺麗な名前ね』


 気付いた妻が満面の笑みを浮かべる。


 「アズーロ」と言いながら石を指差し、次にその指を瑠璃に向ける。


 そして今度は自分の耳元に指先を持っていき、首に下げた石と同じ青い色のイヤリングを示した。


『アズーロ(瑠璃)、貴女の名前と同じ色ね』


 妻がにっこりと笑い、次々に青い色を指差していく。

 どうやら瑠璃の意図は正しく理解されたらしい。色の概念は通じたようだ。


(「瑠璃」って、ここではアズーロって言うんだ……)


「アズーロ」


 瑠璃は自分を指差してアズーロと答えた。


 本当は日本語で瑠璃だが、彼等にわかる音の方がいいかと思ったのだ。

 それに、やっとこの世界について一つだけでも知ることができたと安堵していた。


 知らないのは怖い。

 未知は恐怖でしかなかった瑠璃にとって、たった一つの色名でさえ貴重な知識だった。


(あの白装束の人達……青い男の人もどこに行ったんだろう)


 名前を教え合った事でようやく落ち着いた瑠璃は周囲を見回した。


 辺りには荒涼とした大地が広がっている。


 まるでクレーターのように黒く焦げた地面を中心に茶色い地肌が円状に伸び、その先には美しい草原の緑が続いていた。


 今初めて気付いたが、どうもここは広大な平原らしい。大地を吹き抜ける爽やかな風が、瑠璃の頬を撫で髪を靡かせている。


 緑の隙間に細い小道が伸びており、人の通りがあることを示していた。

 花が澄んだ空に顔を向けている。美しい景色だった。


 そんな景色が目の前に広がっていることに、瑠璃は今初めて気付いたのだ。

 そしてもうひとつ。忘れていたことを思い出す。


(そうだ、私、脚を……あれ?)


 彼女は自分の身体に痛みがほとんどないことに驚いた。


 着物をめくって脚を見ればそこには普段と何ら変わりない姿がある。

 瑠璃は確かめるように左脚を撫でる。やはり、傷が無い。


 左脚ふくらはぎの外側に確かにあった傷が無いのだ。確かにあったはずなのに。

 かなり深く裂けていたはずだ。あの激痛はまざまざと思い出せる。

 なのに今、傷は跡形もない。


(え……私、脚を怪我してたはずなのに。どうして治ってるの?)


『アズーロ。こんなところに女の子が一人でいるのは危ないわ。それに酷い顔色よ。……事情はわからないけど、一旦わたし達の家においでなさいな』


 混乱している瑠璃にティファナが手を差し伸べる。おいでと言われているのだとわかった。


 ウルドゥの方は「やれやれ」と苦笑しながらも優しい目をしていた。そのことに、なぜか救われた気持ちになる。不安しかない心に温かい湯が満ちていくようだった。


(ここがどこなのか。どうして私がここにいるのか、何もわからない。わからないけど……今はこの人達について行こう。優しい人達に見えるから……それに、独りでいるのは嫌だ)


 瑠璃は縋るような気持ちで、亡き祖母に似た女性の手を取った。


『よし。ではそろそろ行こうか』


 ウルドゥが視線を西へ向け告げる。


 ティファナはそっと労わるように瑠璃の背に手を添えた。


『アズーロ。貴女の髪、とても綺麗だけど今は目立たないように頭袋(フード)を被っておきましょう。帰ったら温かいお風呂に入って、食事にしましょうね』


 そう言ってティファナは着物風のワンピースについていたフードを瑠璃の頭にかけた。長い黒髪をその中に押し込み隠していく。


(この世界では、黒髪は珍しい……? ううん、いないのかもしれない)


 髪を覆い隠した意味を瑠璃は一瞬考えた。すべてが異質なこの世界では、自分こそが異物なのかもしれない。


 そう思った瞬間、すっと冷たい風が背を通り抜けた気がした。


(これから一体、どうなるの……)


 大きな不安を抱えながら、瑠璃はティファナに手を引かれ、先頭を行くウルドゥの後に付いて歩き出した。


 黒く焼けた大地から三人の人影がゆっくりと離れていく。


 ティファナ達に付いていきながら、瑠璃はほんの一瞬だけ後ろを振り返った。


 緑の大地に忽然と在る黒い地。


 最初に見た、あの恐ろしい体験をした場所がどこにいってしまったのか、それはわからない。


 けれど瑠璃は、自分がこの世界で初めて立ったであろう場所を目に焼き付けた。

 彼女の焦げ茶の瞳と、焼けた大地の色はよく似ていた。


 瑠璃が背を向けた時、風が吹き抜けいくばくかの土と平原から解き放たれた草の葉を空の彼方へと連れ去った。


 風になびく彼女の黒髪も数本が抜け出て、道連れのように風に攫われていく。


【リジャ神院跡地】を去りゆく三人の一行を見守るのは、ただ過ぎゆく風ばかり。

 焔の跡を残した土は、天高く舞い上がり……消えた。


 こうして、橘瑠璃は新しい名『アズーロ』を得たのである。

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