第三章:本物の女
どうせ俺なんか学無しだ。
この前仕立てたばかりの外套の襟元を合わせ直しつつ、葉の黄色く変わった街路樹越しに広がる空を見上げた。
深く青く、雲一つなく澄み渡っている代わりに妙に高く遠く感じる秋の空だ。
陽射しは強いのに頬に触れる空気は昨日より冷え込んでいる。
吸い込む路地の匂いもどこかツンと鼻先の痛むものを含んでいて、季節が冬に染まり始めていると知れた。
こんな時期に一人晴れた空の下を歩くのは嫌いだ。
俺が師父の家に連れて行かれたのもこんな風に高く澄み渡った空に黄色い葉が透けて揺れる秋の日のことだった。
年は
褪せた紫の綿入れを着た化粧気のない、しかし、豊かな漆黒の髪に透けるように白い肌をした母さんは、年の頃は今の俺と同じ二十四、五だっただろうか。
時たまその屋敷の旦那様(といっても白髪の爺さんだったが)が母さんと俺の部屋を訪れてちょっとした菓子やら玩具やらくれたこと。
その貰った玩具で遊んでいると奥様(こちらも皺くちゃの婆さんだったが)がひやりとするような眼差しを向けたこと。
そこからすると、あるいは母さんは旦那様の非公式な妾といった立場だったのかもしれない。
それはそれとして、母さんは働きづめの毎日で、ある時、熱が出て床に就いたと思ったら次の朝には冷たくなっていた。
亡骸が棺に入れて屋敷から出されると、今度は孤児になった俺も屋敷の下男をしていた男に手を引かれて役者の家に売られた。
――母ちゃんに似て、お前、いい器量だな。
恐らくは気の進まない役目を押し付けられたであろう中年の下男は憐れむ風に笑って涙の跡がまだ残る俺の頬をがさついた指先で拭った。
――あのお屋敷にいるより、これから行く所の方がずっと大事にしてもらえるさ。
あの時と同じ冷えた路地の匂いがする。
あの時、こんな風に雲一つない青空の下を歩きながら、俺は自分がこれからどこに行くかより狭い箱に入れられた母さんがどこに送られたのかを考えていた。
先に死んだ人と同じようにどこかの墓地の一角に運ばれて埋められたと六歳の子供には想像は出来ても受け入れがたいことだった。
ひょっとしたら、これから歩いていく途中で擦れ違うかもしれない。
今までも俺を置いて遠くにお使いに出てもちゃんと帰ってきてくれたのだから。
街にはこんなに沢山の人が歩いているのだから。
あの時と同じく遠くまで見渡せるように背筋を伸ばし上向き加減で人混みで足を進ませていく。
突如、人の波の中から、見覚えのある褪せた青紫の上着の背中と無造作に束ねた豊かな黒髪が浮かび上がる。
その髪が秋の陽射しを受けて滑らかに光った。
耳の中から一切の物音が消える。
あれは母さんだ。
次の瞬間、ワーッと胸の奥が沸き立つ。
肌寒さに鼻先がツンと痛むのを感じつつ、すぐに人混みに呑まれてしまいそうなか細い後ろ姿を追う足を進めた。
進んでいく街並みは普段は足を向けないような古書や画材の店が立ち並ぶ、墨や絵の具の匂いがそこはかとなく漂う界隈に切り替わっていく。
だが、足を止めることは出来ない。
一見した髪型や服装もそうだが、すっくり伸びた白いうなじも柔らかな肩の線も腰高く臀の小さな体つきも朧気な思い出の中の母親を鮮やかに蘇らせたような後ろ姿だ。
振り向いてくれ。
口には出せないまま洗い晒した紺地の服の背中に念じる。
振り向いてくれ、母さん。
違う顔ならそこで諦めるから。
ああ、人違いだった、とばつの悪そうな顔を作って引き返すから。
無造作に髪を束ねた小さな頭は振り向かない。
午後の陽射しがその滑らかな黒髪の上に白く輪を作って揺れている。
「
突如、背後から聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
呼ばれたのは自分の名ではないのに思わず振り向く。
「阿迅」
着古した外套を纏った相手は黒縁眼鏡の奥の細い目を見張った。
「
今ではごく少数の仲間しか呼ばない名前だ。
こいつにとっても俺がここにいるのは予想外だったらしい。
「
女にしては低いが澄んだ声が後ろから響いてくる。
「あら、あなた、
振り返ると、褪せた青紫の上着に白玉じみた蒼白い面をした女が大きな切れ長い瞳を輝かせて微笑んでいた。
「ご一緒なんですか?」
今まで幾度となく客席からこちらを見詰めていた眼差しが俺から横の阿迅に移る。
「いや……」
阿迅は口ごもった。
こいつは直に彼女と知り合っている、彼女は「潘」という姓で「女士」「先生」と敬意を込めて呼び合う間柄だ、そして、俺がこいつの姿に驚いたようにこいつも何故俺がここにいたのか面食らっている。
様々な気付きがどっと頭の中に押し寄せた。
「紹介しよう、画家の
阿迅は誰に対してか分からないが気まずい笑いを浮かべながらやや上擦った声で彼女を指し示した。
「
本当は目にしたのは初めてではないが、俺はこう答えるしかない。
「あなたの演技はよく拝見しています」
化粧気のない、蒼白い顔なのに笑うと周囲に光が差すようだ。
「今度、僕の
阿迅の眼鏡の並んだレンズには偽りなく微笑んでいる彼女の顔が大写しになっていた。
「ここじゃ何ですから、皆でお茶でも飲みましょう」
両目のレンズに潘珠蓮(とこいつは教えてくれた)を大写しにしたままの阿迅がまた上擦った声で告げた。
こんなに無心に、冷たく観察する風ではなく他人に見入るこいつを目にするのは珍しい。
せいぜい子供の頃、道で偶然目にした大学生(なのか確証はないが、粗末な身なりをした俺らに対して上等な長袍を纏い、金釘みたいな西洋の文字が表紙に並んでいる本を抱えた若い男だった)を振り返って眺めていた時くらいだろうか。
「お二人ともお時間は大丈夫ですか?」
彼女が俺たち二人に笑顔を向ける。
「はい」
声に出してから妙にそっけない調子だと我ながら気まずくなった。
「じゃ、行こう」
阿迅が歩き出す。
“皆で”とこいつから言い出したのだから、乗っかろう。
*****
「……それで、
しっとりとした緑茶や芳しい花茶の香りが漂う、周囲の客層も品の良いインテリ風の目につく茶館の席で、阿迅はまるで酒に酔ったように紅潮した面持ちで(といっても、こいつは本物の酒を飲む時はさして顔にも出ず淡々としているのだが)語った。
「そうですか」
俺は極力穏やかな風に頷く。
身に付けてきた外套もこの服もむしろ新しく仕立てたばかりだし、安物とかいかにも品がないと見られる類いの装いではない。
しかし、自分がどうにも場違いな席に紛れ込んでいる感じが拭えなかった。
「いつ観ても新たな発見があるんです」
一番粗末な身形をしているはずの彼女がこの場所には不思議と馴染んで見える。
「あなたは后妃でも令嬢でも妓女でも型にはまった『女』としてではなく『人』として演じられるから」
無造作に結った黒髪に茶館の灯りを受けて生じた光の輪を揺らしながら彼女は語る。
洗い晒したその紫紺の服の肩越しに、離れた席に座った
質の良い墨色の長袍を纏った、どこかの学者か旧家の旦那めいた爺さんだ。
こちらの目線に気付くと、爺さんは素知らぬ体で目をまた他所に向け、ゆったりとした所作で茶碗に口を着ける。
――わしは
胡麻塩頭の後ろ姿はそう言っている。
「同じ舞台を繰り返し見ても、前には見落としていた何かを見出だせるんです」
発光するように白い笑顔の瞳の輝きが陰の差した胸の内に温かな灯りを点した。
「そうですか」
余裕のある風に答えたつもりが、自分の声が妙に素っ気ない響きになって舌打ちしたくなる。
「僕は文化がどうとかそういう難しいお話は分からないので、ただ、演じる役を掘り下げるだけですけど」
阿迅が小さく肩を竦めて取り上げた茶碗に口を付ける。そうすると、眼鏡のレンズがパッと白く曇った。
――お前、もうちょっと考えて話せよ。
レンズの奥の目は確かめられないが、そんな苦々しさがごく何気ない所作から立ち上る。
向こうで背を向けて座っている胡麻塩頭の爺さんとどこか似通った気配だ。
「だから、人としての厚みがあるんですね」
彼女は瞳を輝かせたまま、静かだが、温かな声で答えた。
*****
「それじゃ、次の舞台も楽しみにしています」
秋の早い夕暮れの中で、白玉じみた小さな顔が微笑んだ。
夜に浸されていく街で、そこだけが温かで清らかな、優しい灯りが点いている風に思えた。
冷えた埃っぽい匂いのする風が並んだ俺たちの間を吹き抜ける。
こんな洗い晒した服で彼女は寒くないのだろうか。
「是非、観に来て下さい」
考えている内に俺より先に阿迅に言われてしまった。
「必ず行きます」
頷いた彼女の目は作者と役者の双方に注がれているようだ。
そこに幾何かの安堵と不満を覚える。
*****
「客席で良く見掛ける顔だとは思ったけど、絵描きとは思わなかったな」
女学生でも
「彼女の絵は素晴らしいんだ」
阿迅は何だか贔屓の役者に会った取り巻きのように浮き浮きした調子で言ってから、そういう自分が急に照れ臭くなった風に眼鏡の目を伏せて付け加えた。
「一目見て感銘を受けた」
*****
「前よりはだいぶ良くなったな」
阿迅はちょっと聞くと素っ気ないが、しかし、どこかに温かさの感じられる調子で告げる。
俺はもちろん、鴻哥や萩香にもホッと和らいだ空気が漂う。
「魚玄機らしさが出てきた」
俺が意識したのは潘珠蓮、彼女らしさだ。
詩人と画家で表現する形は異なるが、どちらも男に伍して芸の世界に生きる女だ。
「あともう少しだな」
阿迅は焦れったい時の癖で蓬じみた黒髪の頭を掻くと、眼鏡の奥のもどかしげな目をこちらに向けた。
「まだ何かが足りない」
*****
「一本くれ」
温かに甘酸っぱい匂いの漂う屋台の前。
俺は串刺しの飴かけ
たっぷり飴を掛けられてピカピカ光る、毒々しいまでの真っ赤な実。
役者の家に弟子入りしてから小遣いが手に入る度にこの駄菓子を買った。
今もこんな風に空き時間にちょっと一人で外歩きして見つけると何となく買ってしまう。
飴が手に垂れて来ないように角度に気を配りつつ串の先の一個目を齧る。
口の中にドロリとした甘ったるい飴と生の実の酸っぱさが相次いで広がって、いつものことながら顔をしかめる。
これをゆっくり噛み砕いて
それで甘味が強過ぎる時は串の残りから実の方を多めに噛み、逆に酸味が強過ぎる時は飴側を舐める。
今は飴の甘味が強過ぎるから実の方を齧ろう。今し方齧った跡から本来の一口の半分ほどまた齧る。
――まだ何かが足りない。
新たに広がる酸味と共にふと先程の阿迅の声が蘇った。
俺の演じる女には何が欠けているのだろう。
それを新たに加えるのも自分しかいない。
埃っぽい風が通り抜けていく。
戯子《やくしゃ》 吾妻栄子 @gaoqiao412
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