東京大空襲<承> 3

 あの朝、いつもの様に青白い薄明の中。

僕は露に濡れた下生えが密生する斜面を漕ぎ渡っていた。

狩場の重要拠点である秘密の木を目指していたのだ。

ところがお目当ての木にたどり着いたつもりだった僕は、いきなり知らない平場に出た。

そこは見たことのない横穴の前だった。

土地柄それが防空壕であることは容易に想像がついた。

横穴には扉が無かった。

扉が無いのに煉瓦で組まれた立派な入り口がある。

防空壕にしてはそれが変と言えば変だった。

僕はこの辺りのことを知り尽くしているはずだった。

けれどこの場所の記憶が全くなかった。

そのことはもっと不思議だった。

 低学年の頃から何年もさ迷い歩いているフィールドではある。

その横穴は、半ば見慣れた風景の中に突如現れた戦争の遺物だった。

年長の者や同級生たちからの噂話ですら、この辺りに防空壕があるなどと言う話題が上ったことは無かった。

代々の悪ガキどもがこんな素敵な防空壕を見逃してきたのだ。

奇跡としか思えなかった。

 僕も悪童仲間の付き合いで様々な防空壕を探検してきた。

それでも入口を煉瓦仕立てで設えたような立派な代物には、一度もお目にかかったことは無い。

子供心ながら、不安に思い恐れを感じぬわけでは無かった。

それでも僕の胸は高鳴り持ち前の好奇心がむくむくと膨れ上がった。

ことによると僕は、悪ガキワールドで後々まで語り草になるような世紀の大発見をしたのかも知れなかった。

当時はまっていた世界の謎の定番であったツタンカーメンの墓と、それを暴いたハワード・カーターのことが頭に浮かばなかったと言えば嘘になる。

秋田書店発行の庄司浅水ものは、昭和の少年にとっては聖典だったからだ。

 その横穴は住宅地からさほど離れていない場所にも関わらず、今まで子供達に知られることがなかったことになる。

防空壕一般からすれば豪邸の様な仕様で入口を晒している。

そんな、嫌でも人目を引く立派な防空壕が、歴代の放課後男子による探索活動の目を逃れて僕を待っていてくれたのだ。

 この発見は、日々冒険を求めて止まない悪童連の一員としては、みんなに胸を張れるまたとないお手柄と成るだろう。

誰からも知られていない防空壕を見つけ、それが他に類を見ない程に珍しいものだった。

この大発見は皆からの熱狂的称賛を持って迎えられるに違いない。

僕の頭の中からはカブトムシやクワガタムシのことはすっかり消し飛び、もう目の前の横穴の事しか考えられなくなっていた。

 僕は感性的にはいたって普通の小学男児だった。

チラッと頭をよぎった警戒心や臆病風はすぐに雲散霧消した。

取り敢えずは穴の中に入ってみる。

それが心に従う自然な成り行きだった。

 蛇足ながら。

どんな時代でもある種の子供には、好奇心の赴くまま、なんでもかんでも首を突っ込まずにはおれない悪ガキ魂が宿っているもんさ。

そんな子供は相対的に女子より男子に多いだろうよ。

で、それこそが女子より男子の方が成年に達する確率が低い一番の理由だと思うぜ。

 『奥行きがかなり深そうだな』

それが横穴に対する初見の印象だった。

耳を澄ますと微かな風が頬をなぶり、小さな響音が遠くの方から聞こえて来る。

本格的な探検には懐中電灯と巻紐が必要なことは承知していた。

だが穴から流れ出る微風は闇の向こうに別の出口ある事を予感させる。

ここで一気に踏み込むことに、もちろん躊躇いは無い。

今思えば、この時に限らず高校の頃まではいつも見切り発車で、危険なことばかりしていた。

成年に達する確率云々ではないが、良くぞ命永らえて五体満足なまま成人できたものだと思う。

 横穴に足を踏み入れてしばらく進むと、ふと爽やかな春風の様な空気が流れて来た。

湿気た土臭さでは無かった。

僕はますます別の口が何処か外に開いているとの確信を深めた。

ただ不思議なのは、頬に感じる風は本当に微かなものなのに、前に進もうとする身体が、抵抗を感じることだった。

まるで大風に押し返されるような、目に見えない力だった。

それでもプールの中で移動するほどの困難は感じなかったので、左の掌を壁に這わせながらそのまま奥へと歩き続けた。

 風を頼りに何度か角を曲がったところで、突然目の前に光が満ち溢れた。

僕はまるでブレーカーが落ちたかの様に気を失った。

それまでの短い人生で、僕は気を失ったことなどついぞなかった。

どれくらいの間意識を失っていたのかは分からない。

覚醒はまるで夢を見なかった眠りから覚める様だった。

意識を取り戻す。

即ち目が覚めるきっかけは、仰向けに寝転がっていた僕の頬を嬲る温くてざらざらする妙な感触だった。

それは余り心地の良いものでは無かったので僕はすぐに目を開いた。

・・・一匹の犬が面倒くさそうに僕の顔を舐めていた。

犬は僕が目を開いたのを確認するや頭を上げて後ろを振り返り何度か吠えた。

 僕は防空壕を探検していて、出口の近くでいきなり何やら訳が分からなくなったことを思い出した。

多分突然意識を失ったのだろう。

『もしかするとこれが物語に時々出てくる気絶ってやつかもしれないな』

そう思い付きちょっぴり嬉しくなってしまった。

パニックにはならなかった。

気絶なんて自慢の種にしかならないからだ。


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