東京大空襲<承> 2
それは僕がまだ小学生だった頃のことだった。
鮮明な記憶の射程範囲は長くても一週間がせいぜいだったろう。
未来への展望だって明日まで描ければ上出来という子供時代だった。
とある夏休みの朝のこと。
そんな子供だった僕に、非常識極まりない椿事が、何の前触れも無しで突然降り掛かった。
その椿事は“僕が確かに体験した出会い”だったのかも知れない。
それでも夢だったと開き直る方が道理が通る、それは型破りな出会いだった。
出会いは不思議で切ない四日間の物語となって、僕の記憶保管庫の奥底にファイルされたのだった。
その四日間をきっかけに僕は荒唐無稽をこよなく愛する子供であることをやめた。
つまらない大人になることを納得の上で承知する決心を固めた。
あのとき僕の内なる“がきんちょ”に残っていた最後の乳歯が抜けた。
それだけは確かなことだった。
あの夏、明け方から午前十時頃までの時間帯を中心に、僕は一人遊びにはまっていた。
長い夏休みの午後は、永遠の友情を誓いあった親友達と毎日のようにプールに出かけた。
だが、午前中、特に朝食前は意識して単独行動をとっていたのだった。
例年、夏休みともなれば男の子達は早朝からおきまりのカブトムシやクワガタムシの採集に出かけたものだ。
獲物の数と姿形を競う訳だが、ことこの狩猟にまつわる狩場や技術の情報については、永遠の友情すら鴻毛より軽かった。
互いを出し抜いて相手の行動を探り、掴んだ手掛りを頼りにした抜け駆けなどお手の物だった。
自分だけの秘密の木を捜し出し何本守り通せるかが勝負だった。
時代は長かった戦後昭和の中盤を少し過ぎた頃だった。
高度経済成長の勢いがいや増しに増し、大阪で万国博覧会が開かれようとしていた。
日本中が熱に浮かされて、世間が丸ごとお祭り騒ぎのるつぼに投げ込まれる直前のことだった。
その頃はまだ大多数の大人が太平洋戦争の惨状をよく覚えていた。
岩田さんのおばあちゃんみたいな人が何処にでもいらっしゃった。
戦時中、東京の西郊に位置する多摩地区では、空襲から身を守るために防空壕が沢山造られた。
多摩丘陵の斜面や多摩川水系の河岸段丘に横穴を掘り、それを防空壕として利用した。
防空壕の中には千里穴などと呼ばれる今で言えばダンジョンめいた規模の大きな横穴もあった。
そんな面白そうなものが家の近くにあるのだ。
子供たちが放っておくわけがない。
そこここの防空壕は当然の如く、少年達の秘密な遊び場と化した。
もちろん、そうした防空壕跡に潜り込むことは学校や親から固く禁じられていた。
生き埋めになる危険が大きかったからだとは思う。
同時に大人達に残る戦争の記憶が、防空壕に対する忌避感となっていたようにも思える。
だが、好奇心と無謀を頼りに少年時代を謳歌する悪ガキどもが、そんな大人の言いつけを守るわけもなかった。
放課後に懐中電灯を片手に探検に出掛ける。
そのことは、度胸試しと秘密の共有という、男子特有の馬鹿げた友情の証を手に入れる為の、丁度お手頃な企みとなっていた。
あの夏のあの朝、僕はいつものように早起きをしてとっておきの狩場へと向かっていた。
秘密の狩場は多摩川の支流である浅川が形成する段丘斜面にあった。
狩場があるフィールドはシイやクヌギなど落ち葉が堆肥として利用される人工林だった。
稲作を行う地帯の平地林としては珍しくも無い、雑木林と呼ばれる森だった。
雑木林は樹勢管理のため定期的に伐採しなければならない。
切り倒された木材は薪や炭として活用され、下生えは刈り取られて飼葉や堆肥の一部として利用されきた。
田んぼで米作りが始まった遥かな昔から、雑木林はエコでお得な農村の歴史的資産だった。
ところが昭和の時代には減反政策が進み、東京郊外の農村部は広く宅地化された。
田んぼが無くなり利用価値を失った雑木林は荒れ放題となった。
農家が堆肥を作らなくなることに比例してカブトムシも減少傾向にあった。
一方で手入れが行き届かなくなった雑木林は各種クワガタムシの宝庫となった。
僕達昭和の少年が渉猟して回った狩場は、段丘斜面に広がるそうした廃れかけた雑木林の中にあった。
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