東京大空襲<承> 1

 ひんやりとした湿り気の中に微かな森の香りが潜むのが分かった。

斜めに落ちかかる木漏れ日の中にはねる光の粒子が目に眩しい。

草いきれに蒸れた汗を冷ますコップ一杯の冷たい水の味が初夏を実感させる。

時折テエブルの上を吹き抜けていくのは、海の記憶をいっぱいにはらんだ南風だ。

封筒から出した便箋が立てる乾いた音に息を呑む。

五感を構成する細い糸に、ほんの一瞬交錯する音の刺激で心拍が上がる。

不穏な気持ちの原因に注意が向き、ある思い出に貼り付けた付箋が気になり出す。

そのことで、いつもはあまり考えることのなかった人の笑顔が、意識の表に呼び覚まされた。

まるで過去を覗き込む機械装置に、突然電源が投入されたかのように。


 「パイよ。

何をボーっと考え込んでいるんだ。

その手紙はラブレターって訳ではあるまいな?

えっ?

そうなの?」

「アメリカに留学してる友達からちょっと野暮スジのお知らせが・・・」

「・・・そいつを飲んじまったらケツを持ち上げてくれ。

怠惰な日々に倦怠感をもよおしているってなら、病院に帰ったらお猫様の避妊手術をやらせてやるから」

手紙を読んでいた僕は実に微妙で曖昧模糊とした顔付きだったのだろう。

ともさんは手紙のことをそれ以上は聞いて来なかった。

ともさんは大きくのびをするとお昼休みが終わったことを告げた。

「えっ。

本当ですか。

嬉しいな」

「どうしたい。

『嬉しいな』に心がこもって無いねえ」

ともさんが意外だなと言う顔をした。

「ねえ、ともさん。

このオレンジジュースの味・・・・・・」

「んっ。

オレンジジュースがどうかしたかい。」

「いや、良いんです。

すみません。

さあ早く帰って楽しいお仕事お仕事」

ともさんは怪訝そうな顔をして伝票を掴み立ち上がった。

 春分と夏至の間のある日のこと。

南中を少し過ぎた頃、僕らはロイジーナにおもむき、涙さんが発案した実験ランチの試食に挑んだ。

その日の気温とはいささかも関係の無い大汗をふたりしてたっぷりかいた。

仕切り直しで、本来のお目当てであったマスターによる新ランチメニュー。

チキンポットパイを、生き返る思いで堪能した。

そのことはるいさんには秘密だ。

 食後、コーヒーとは別に供された小さなグラスに入ったオレンジジュースを口にすると、頭の中で突然光がはぜた。

僕は読んでいた手紙を危うく取り落とすところだった。

今の今まですっかり忘れていた遠い思い出。

子供の頃に体験した不思議な思い出がいきなり蘇ったのだ。

紅茶に浸したマドレーヌが引き起こすらしい無意志的記憶なんって言う上等なものでは無かったけれどね。

きっかけはそのオレンジジュースの今時珍しい粉末ジュースに似た安っぽい味と匂いにあったのだと思う。

マスターのランチについて来たコーヒーは香りも味も申し分なかった。

けれどもオレンジジュースは、るいさんの実験ランチとセットに成っているものだった。

お料理ともども、いつもながらの残念るいさんだったことは言うまでもない。

 僕がぼんやりしていたの手紙のせいではなかった。

原因はオレンジジュースがもたらした思いでの爆発にあった。

けれどもオレンジジュースで爆発的に蘇った記憶は誰あろう。

手紙をくれた人のすっかり忘れていた笑顔が呼び水になった。

そのことは明らかだった。

僕の人生と切っても切れない、真の意味で比翼連理の片割れが日本に帰ってくる。

手紙はその知らせだった。

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