東京大空襲<起> 8

 異教の社の小さな生け垣の間から、天使がこちらを覗いている。

リラは初めそう思った。

しかしそうした奇跡は、主に祈りを捧げることにすら中途半端な思いでいたリラの様な人間には起こりそうにない。

リラは改めて、天使が四才くらいの女の子であることに気付いた。

幼女は頬が少し煤けている。

大きな目には恐怖と言うよりは深い悲しみを湛えているように感じられる。

リラはこの幼女を天使と見まごうた理由にはたと思い至った。

幼女は小さな金色の額に納まった天使の顔に面差しが良く似ているのだ。

幼女に似た天使の絵はリラのお気に入りで、武官を務めた叔父の欧州土産だった。

幼女は茶色のむくむくしたものを胸に抱きしめ、そうして声も立てずにじっとリラのことを見つめている。

「お嬢ちゃま。

お家の人は。

お母様はどうなさったの」

リラは思わず知らず幼女にそう問いかけていた。

まだ自分が人の言葉をしゃべることができたのが不思議だった。

すると今まで悲しげな表情だけで、まったく恐怖の色のなかった幼女の顔つきが変わった。

幼女はしゃがんだまま後じさる。

まごうこと無き怯えを露わにして、胸元に納まった茶色のものを力一杯抱きしめた。

「ニャー」

子猫の鳴き声がした。

もう何年も子猫など見たことがなかったリラは、そのあまりにも場違いな甘やかな音に陶然とした。

甘やかな音を、ためらいなく子猫の鳴き声と認識できた自分に、リラは驚いてしまった。

「猫ちゃんが居るのね。

お嬢ちゃまの猫なの?」

リラはこれ以上幼女を怯えさせないようにと、微笑みを作って問いかけを続けた。

幼女は微かに頷くと緊張を解いて小さな口を開いた。

「お姉ちゃま猫はお好き」

「もちろん大好きだわ。

特に茶色の子猫がね」

周囲を炎に取り巻かれ、次の瞬間、ふたりとも至近弾で命を落としても不思議ではない修羅の場だった。

それでも少女達はいっそ美しいまでに優しい笑みを浮かべて子猫を見つめた。

 そのとき、“ぼん”と鈍い音たてて神社の社が炎をあげた。

リラは全身に緊張という名の生きるため意志がみなぎるのを感じた。

猫を抱いた幼女を前にして、リラが本来持っている快活で理想を重んじる性格が息を吹き返したのだった。

この子を死なせてはならない。

この子と共に今を生き抜くことこそ、主が私にお与えになった試練だ。

強烈な思いがリラの胸を奮わせた。

「お姉ちゃまと一緒にいらっしゃい。

喉が渇いているでしょ。

何処かでミルクを飲みましょう。

もちろん猫ちゃんも一緒にね」

リラは近所の子供をおやつに誘うように、のんびりとした口調で幼女を誘った。

そう口にしたとてミルクの当てがあるわけではない。

小さな子をただただ怯えさせないようにというとっさの口調だった。

幼女はさっと立ち上がると飛びつくようにして片手に猫を抱き、空いたもう片方の手でリラにかじり付いてきた。

幼女は今はもう震えていた。

 この子の親はどうしたのだろう。

たった独りぼっちでこの空襲の中どんなに心細かったろう。

ここに至って初めてリラは、本来最初に考えるべきことに思いが及んだ。

藤原婦長の理不尽な遭難を目の当たりにして、リラにも余裕がなかったのだ。

もし炎に追われてただ逃げるだけであったのなら、この幼女と子猫には気付かなかったろう。

よし気付いたとしてもそこで立ち止まって、果たして手を差し伸べることができたかどうか。

遠藤婦長の最後を目にした自分は、生きようとする意志を無くしていたに違いない。

だから目に付いた暗がりにしゃがみ込んでしまったのだ。

そうして幼女を天使と見間違えた。

リラは幼女を抱きしめ目から涙が溢れるのを感じていた。

こうしては居られない。

リラは辺りを見回すと暗がりが少しでも炎に抵抗していると思える方へ駆けだしていた。

その後は無我夢中だった。

どこをどう走り、幼女と出会ってからどのくらい時間がたったのか。

何れも判然としなかった。

首に掛かる重みと何処か懐かしいような幼女の匂いを頼りに、リラは自分の生を現世に結びつけることに必死となった。

それだけが生き残る術であることを直感していたからだった。

 やがてリラは背後には炎の饗宴が続くものの、強制疎開で広くなった大きな通りにたどり着いた。

通りの向こうにはほとんど火の手が上がっておらず、そこにはまだ夜の帳が残されていた。

にわかに希望が形になったことを知り、リラは口中で主の祈りを呟き続けていたことに気付いた。

「・・・我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ・・・」

するとさっきまで無我夢中のあまり遠ざかっていた恐怖が、突然降り出した夕立のように全身を打った。

リラはその場に膝をついてしまった。

幼女とはいえそれなりの質量を腕に抱えて走り続けた生理的な疲労も大きかったろう。

「お姉ちゃまもう走れない。

ここまで来れば一安心だから、ちょっと息を整えさせてね」

リラは地面にペタンと座り込むと少女を横抱きにした。

少女は頬をリラの胸につけ安心したように擦りつけた。

リラが防空頭巾越しに少女の頭をなでたそのと時、圧迫を解かれた子猫が少女の懐から飛び出した。

今までまるでぬいぐるみのようにじっとしていた子猫が、どうしてそのとき突然本来の子猫らしい動きを見せたのか。

それは分からない。

少女は「アッ」と声を上げると身を捩り、リラの胸から滑り出てそのまま後ろも振り向かず小猫を追った。

子猫は飛び跳ねるようにして暗がりに向かい、少女はその後を走った。

「だめよ!」

リラが肺腑を振り絞る様に絶叫したとき、それを打ち消すようなB29の爆音が頭上を通り過ぎた。

藤原婦長を天に召したのと同じ眩い光のカーテンが辺り一面に降り注いだ。

リラと少女の間には一瞬のうちに熱く輝く壁ができる。

今まで通りの向こうに広がっていた暗がりが禍々しい炎に包まれた。

リラは言葉にならぬ叫び声をあげながら目の前の熱から身を引いた。

リラの瞳は絶望の色を湛え、幼女が消えた白い光の壁の向こうを唯ひたすらに見つめ続けていた。

 リラの口の端に祈りはもう無かった。


 「そのリラというのが・・・」

「岩田さんのおばあちゃんですよ」

スキッパーがいつに無く感慨深そうな顔つきで僕を見つめていた。

岩田さんのおばあちゃんがこの話をなさったときも、スキッパーはまるで彼女に寄り添うようにして耳を傾けていた。

彼なりに思うと処、大であったのだろう。

 「・・・そんな話をね」

ともさんは誰に言うでなし、ボソッと呟くとこちらに背を向けてお湯の中に沈んだ。

 岩田さんのおばあちゃんは、お話を傾聴してしんみりしてしまった僕を前に、口調をがらりと変えた。

そして僕を慰めるようにお連れ合いの武勇談を聞かせてくださった。

かの“ラバウル航空隊”でゼロ戦を駆って打ち立てたお連れ合いの手柄話しは、正に手に汗握る空戦記だった。

このことについは稿を改めねばなるまい。

 岩田さんのおばあちゃんが「またおじゃましますね」と腰を上げた帰り際。

スキッパーの頭をポンポンしながらのこと。

「あの子の名前も。

子猫の名前も。

わたしは聞いていなかったんだわ」。

そう呟いて静かに目を伏せた彼女の横顔を、僕は今でもありありと覚えている。




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