東京大空襲<起> 7
リラは叔父のお使いで、毎日の様に陸軍省を訪ねたことがある。
お使いのついでに叔父を手伝ううち、省内に顔見知りもできるくらい馴染みもした。
そうして最初の頃にあった緊張が薄れて来ると、リラは様々な不思議に気付くようになった。
例えば、町では配給品でさえ滞りがちなのに酒保と言うのだろうか。
高級軍人用の売店は、驚く程にモノが豊富だった。
戦争中だというのに、陸軍省の退庁時間が夕方の5時だと言うことにはもっと驚いた。
高級軍人は肩からモールを吊った、良く太って血色の良さそうな人ばかりだ。
そんな軍人さん達が毎日定時にぞろぞろ帰宅する。
丸の内の勤め人みたいな軍人さん達の姿を目にして、リラは強烈な違和感を感じた。
『あんなに太ってちゃ戦地にいったら大変だろうな』
『東京が夜の時は戦地も夜で戦争も休憩なのかな』
ぼんやりそんなことを考えた。
今になって思ってみれば、たいそう頓珍漢なことを考えたものだと苦笑いが浮かぶ。
後日そうした感想を何気なく叔父に漏らした。
すると叔父は妙に真剣な目をして「見たこと聞いたことをよく覚えておきなさい」と言ったのだ。
「永遠に続く戦争はない。
いつか戦争が終わった後、新しい世の中がやってくる。
今度は間違えないようにリラたち若い世代が正しい日本を作らなければならない。
その時、リラが見聞きしたことが、間違いを見つけるための道標になる」
そう叔父は言ったのだ。
いつにない叔父の真剣な眼差しと口調が、リラの心には色濃く染み渡った。
叔父の言を思い出し、ふと遠藤さんの「戦争に負けそう」と言う皮肉っぽい口調が頭に浮かんだ。
叔父の口から出た間違いという単語のこと。
リラが目撃した“9時から5時まで”の軍人達のこと。
それらを合わせて思い起こしてみれば腑に落ちる気がする。
「日本は戦争に負ける」
そのことがなんだかとても真実みを帯びてきて、ひどく悲しいような気がしてきた。
リラは防空頭巾を被り合切袋を肩から横がけにすると、すでに小走りの遠藤婦長を追った。
ふたりは被災した人々や怪我人でごった返す正面玄関を駆け抜けた。
「あっ」
夕焼けの何倍も空が赤かった。
唸るような風鳴りと飛行機の爆音が巨人の手のひらのようにリラの身体を押した。
熱い風が四方から吹き寄せ、何とも名状しようのない悪臭が嗅覚を犯した。
新橋駅の方へと、少しでも暗い感じのする道を選びながら、ふたりは走った。
通りから通りを、建物の陰から建物の陰を幾たびか駆け抜けた。
とある辻で吹き寄せる熱風にリラはタタラを踏んだ。
立ち止まって、巻き上がる熱気をやり過ごした時、ひときわ高い爆音が響く。
リラは思わず空を振り仰いだ。
ザーッという音を立てながら無数の焼夷弾が、眩い炎の尾を引きながら降ってくる。
全ての焼夷弾がまるで自分だけをめがけて落ちてくるような気がする。
熱く輝く白い光が辺りを満たした刹那。
ラジオのボリュームを絞るようにあたりの音がいっさい消え失せる。
立ちすくむリラの周囲で跳躍するように光が爆ぜ、少し先を走っていた遠藤婦長が光の矢に貫かれる姿が見えた。
そのときリラは悲鳴を上げていたかも知れない。
何も見ようとしていないのに何もかもが見えていた。
リラはその場から逃げ出した。
炎を身に纏いながら天に手を差し伸べる遠藤婦長から。
遠藤婦長が差し伸べる手の遙か高みを横切る銀色の十字架から。
天が下してよこした無惨な咎めだてから。
かつて黙示録を絵空事のように思い、主を疑ってしまった自分から。
ふと気が付くとリラは小さな神社の鳥居の前でひとりしゃがみ込んでいた。
音が戻ってきている。
街が上げる悲鳴は耳を圧するばかりだった。
その神社は炎と風の気まぐれから少しの猶予を許されていたのだろう。
生き物が多少は息をつける空間が奇跡の様にぽっかりと空いていた。
周囲に満ちる火の悪意は燃やせる物は何であれ、塵ひとつ見逃そうという気は更々ないようだ。
その場に残された僅かな暇も殆ど時間切れであることが知れる。
信仰に篤く教えを守り続けた遠藤婦長があのような形で天に召された。
それなのに、時に主を疑い邪な想像を楽しむことさえある自分がまだ生きている。
現実を見据える認識力が何処かへ行ってしまっても、リラの頭の中ではそうした自罰的思考が回文のように繰り返し流れていた。
たまさか長らえたこの命も、迫りくるこの業火の中では無力だ。
残された時間が、むしろ不信心な自分に長く苦痛を与える為に下された神罰なのだろう。
リラは許しを請おうと天を仰ぐべく首を廻らせた。
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