東京大空襲<起> 6
いったい今は何時なのだろう。
リラは廊下にまで横たえられた怪我人の列に、もう余り感情を動かされない自分に気付く。
怪我人は年寄りや女子供が多い。
まだ生きている人。
これから死に行く人。
もうすでに死んでしまった人。
そんな人たちの間に立って、リラは喉の酷い渇きを覚える。
「花園さんどうしたの。
目を覚まして。
この方の腕を押さえていて下さいな」
遠藤婦長はリラ以上に疲れているはずなのに、柔らかな微笑みを絶やさなかった。
アメリカの戦略的理由か単なる偶然か。
今までのところ、病院には至近弾もなく空襲の被害は皆無だった。
それどころか入院患者の待避準備を段取る前に事態は急速に進行した。
傷を負った人々が続々と運び込まれ、屋内の空いたスペースを所狭しと埋めていったのだ。
病院関係者に逃げると言う選択肢は事実上なくなった。
こんな時信仰の力は強かったろうか。
四囲を炎に閉ざされた病院が、たった一機のB29の目標となったならもう全滅は免れ得ない。
そのことは懸命に立ち働く皆にも分かっていたろう。
聖マルコ国際病院は爆撃目標からはずされる。
まことしやかに囁かれている噂ではあった。
確かにその夜築地の地には、焼夷弾によって噴き上げられる紅蓮の炎をものともせず、くっきりとそびえ立つ白亜の建物と十字架があった。
地域住民に信仰を持つものは稀だったろう。
だが人々は自分達の身に降り掛かった惨劇から逃れる微かな望みの標として十字架を目指した。
そうして命からがら避難してくる人間は怪我人ばかりではなかった。
身体は健常であるかもしれない。
それでも心に傷を負い疲れ切った人々もまた、次第に増えていったのだった。
軽い火傷なら流水で冷やすのが一番と知ってはいても、外部と通じている水道はすでに断水していた。
まして火傷の一部が炭化しているような傷については、その時点で為す術がなかった。
滅菌したガーゼや油紙は早々に底を突いた。
在庫のあまり無い薬品の中でも、かろうじて使えそうなチンク油さえ殆ど残ってはいなかったのだ。
「シスター。
ローマから送って頂いた外人さん用の機材を使いましょう。
保管所は駅に近い。
焼けてしまうくらいなら使ってしまいましょう。
何、人助けのためだ。
日本人のために使ったって、主は喜んでお許しになりますよ」
事務長の諏訪内さんがいつの間にやら、介抱に追われる遠藤婦長とリラの後ろに立っていた。
遠藤婦長は廊下に横たわる被災者に巻いていた包帯を素早く止めると、口中で祈りを呟いた後で立ち上がった。
「そうですわね。
管区の司教様にはいつかお詫びを申し上げましょう」
遠藤婦長は修道女でもあり、戦前に選ばれてフランスの看護学校へ留学した経験がある。
短い間だったが、ローマで過ごしたこともある。
そのおり教皇様にお声を掛けていただいた。
教皇様との奇跡の様な邂逅が、時折挫けそうになる信仰のよすがに成っていると聞いたことがあった。
当節、クリスチャンには生き難いご時勢だった。
そうではあったが、遠藤婦長にして信仰に揺らぎのある事を知った時。
逆説的ではあったが、リラはかえって誠のある心強さを感じたものだった。
「すぐにも必要な資材の選別をお願いします。
おっつけ手の空いたものをやります。
それでも手が足りない様なら、避難してきた皆さんの中から志願者を募ろうと思います」
諏訪内さんは遠藤婦長に真鍮でできた鍵を手渡した。
「花園さんあなたもいらっしゃい。
お手伝いが必要です。
この間の分類覚えてらっしゃるわね」
リラは3ヶ月ほど前。
級友の数名と遠藤婦長を手伝って、医薬品や機材の分類と整理をした。
新橋の駅に近いビルの一室が倉庫代わりに成っていた。
休憩時間にご馳走になったビスケットの甘さと紅茶の穏やかな香りは、リラにとって忘れ難い思い出になっている。
「今夜はビスケットもお紅茶も無いのは残念だけれどもね」
空襲が激しくなっていて最早東京を含め日本の都市に安全な所などどこにもない。
それでもせめて、病院の敷地内に仮設の倉庫を造るまでと言う約束で、フランス系商社の事務所を借りていたのだ。
商社はビシー政権が倒れた後、休眠状態にあった。
先年、ヨーロッパへ連合軍が侵攻した。
そのことによりビシー政権が倒れてからこっち、フランスもまた敵国となっていたのだ。
そのせいもあってか修道会からの援助物資については、内務省警保局から病院の方へ嫌がらせのような問い合わせが何度も来ている。
当局による姑の嫁いびりにも似た下衆ないじめは、リラのような動員学徒の耳にも入っていた。
事務長の諏訪内さんは機材の山を前にしてさらりと言い放ったものだ。
「戦争に負けそうなので役人もイライラしているのでしょう」
その言には、いつものほほんとしているリラの背中にさえ、ひやっとしたものが走った。
叔父に聞いていたヨーロッパの情勢や、ラジオや新聞での目覚ましい戦果に反比例するかのような内地での空襲の激化がある。
それはリラにとり、ある厳然たる真実を指し示しているとしか思えなかった。
『この戦争はもしかしたらもういけないのかも知れない』
考える頭を持っているのなら、一女学生のリラにだって容易に辿り付ける結論だった。
日本の敗北は客観的に見ても主観的に考えても自明の理だろう。
皆もそのことは知っていると、リラは思っていた。
しかしそうしたことどもは家の外に出たら一言だって口にできなかった。
口にすべきではなかった。
戦地でご苦労をなさっているの兵隊さん達のことを考えるとどうだろう。
日本が負けるなどとは、考えるだけでも恥ずかしいことのような気がしていた。
リラは今でも駅頭で千人針に針を通したり、家政の時間には慰問袋に入れる小物を縫ったりしている。
それを煩わしいと思ったことも、無駄だと考えたことも無かった。
敗北を確信し争いを忌む信仰心とは別に、日常を生きるリラの気持ち的には、戦の勝利を祈る毎日だったのだ。
「私など朝家を出てから帰るまで、ハンチングをかぶった目つきの悪い男が二人。
まるで付け馬みたいについて回っている始末です。
今でもそこいらの角から様子を窺っていると思いますよ」
「諏訪内さん・・・」
遠藤婦長が静かに窘めると、
「いや失言失言。
お嬢さん方が一緒でしたな。
しかし体格の良い男が二人も。
私のような年寄りを終日見張るくらいなら、それこそお国のためにもっとましな仕事があるだろうに。
そう思うと、なんだか妙に腹が立ちましてな」
以前遠藤婦長から聞いた話では、諏訪内さんの息子さんは学徒出陣で大学を繰り上げ卒業したらしい。
息子さんは文字通りペンを剣に持ち替え、今は海軍の飛行予備学生として訓練を受けているとのことだった。
先年の明治神宮外苑競技場における出陣学徒壮行会のことはリラの記憶にも新しい。
学窓から戦場へと心を切り替えることはどれほど辛いことだろう。
学生さんたちの気持ちを想像してはリラも胸を痛めたものだ。
それだけに諏訪内さんの戦争に対する考えと気持ちを知って、最初少し嫌な気がしたことを後に後悔した。
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