東京大空襲<起> 5
「何だ、警報が出てからまだそんなに時間が経ってやしないぞ」
今夜が当直の外科医長が険しい顔で叫んだ。
無い無い尽くしの物資をやりくりして、戦時下の聖マルコ国際病院は運営されている。
聖マルコ国際病院は、ローマに本部を持つ修道会が経営する病院だった。
病院のバックにバチカンが付いている事実は大きい。
『何もかもが足りない』と資材課長は嘆くが、同時期の他院に比べれば御伽噺のように恵まれているのは確かだった。
主イエスキリストの名の下に、中立国を経由して細々ながらも供給される医薬品や物資は、真の意味で天の加護と言えたろう。
神様のおかげで、聖マルコ国際病院は医療機関と名乗る体裁を辛うじて保つことができたのだった。
戦時下の世相はキリスト教徒には辛い局面しかない。
ましてやそれが敵国の人間であれば、信仰に注がれる眼は一層に厳しいものに成ったろう。
聖マルコ国際病院にはそうした訳で、中立国や日本に取り残された欧米系の人々が収容されている。
一般の病院では受け入れられない人々を多数引き受けて来ていたことになる。
とは言うものの、修道会とは別に赤十字を通して行われた援助も、他の一般病院に比べれば余程手厚いものがあった。
そのことは日本政府のキリスト教徒に対するスタンスを考えると、大層皮肉な事のように思えた。
病院の中では英語やフランス語が自然に使われている。
何処をどう通って持ち込まれたものだろう。
日本の庶民にとっては、ここ何年かはその存在すら忘れていた果物や洋菓子を見かけることもあった。
花園リラ達の女学校は山の手の西の端に在った。
築地の聖マルコ国際病院とは山手線を挟んでちょうど反対側に位置し、おなじ東京市内とはいえ随分と距離が離れていた。
「B公のやつ今日はやけに低空を飛んで来る。
いよいよいかんかもしれん」
外科医長の普段から余り良いとは言えぬ顔色が、今晩はいっそう悪く見えた。
婦長の遠藤女史はいつもながら冷静だった。
自分の為すべきことがあらかじめ全て決まっているとばかりに、てきぱきと指示を下し始めた。
「時間がありません。
訓練の手順を思い出して重症の患者さんから順に、防空壕へ避難する準備に掛かってください」
花園リラと級友の佐野静は、他の看護婦たちと共に外科の控え室を飛び出した。
「ここは爆撃されないはずじゃないの」
静が掠れたような声で言う。
「戦争だもの。
ドイツじゃ教会や学校も爆撃されているって、叔父が言っていたわ」
リラは先年まで武官としてベルリンに駐在していた叔父の、年の割に童顔で笑うと目尻にしわの寄る軍人らしからぬ優し気な顔を思い出していた。
「マリア様がきっと守ってくださるわ」
静は震えながら息を吐き唇を噛んだ。
「そうね」
リラは短く相槌を打った。
敵の兵士の殆どがクリスチャンで、神父や牧師から祝福を受けて戦場に出てくる。
リラは武官の叔父からそう聞いていた。
そのこともあって、この戦争では神様やマリア様は余り当てにならないような気がしている。
リラや静の女学校はこの病院と同じ修道会が経営しているものだったし、二人とも生まれた時からのクリスチャンだった。
だから公平に考えれば簡単に見えてくることがある。
人を殺すことが目的の戦争の只中で、自分の安全のためだけにいくら祈ったところで、神様は決してお聞き届けにはならないだろう。
リラの信仰が正しいものであったならそのことに間違いはない。
リラにはそう思える。
リラの心の中でイエスは憂い顔の優し気な青年だった。
敵だろうが味方だろうが、信仰の篤い人々が戦争に勝つことを念じて祈りを捧げたりしたらどうだろう。
リラの信ずるイエスであれば、泣き出さんばかりの悲しげな顔つきになることは容易に想像できた。
『敬神と隣人愛』
『自分を愛するように隣り人を愛せよ』
イエスの教えを守るのは難しかしい。
だがその意に添えればと心から願うのは、リラのまごうことなき本心だった。
そしておそらくは今こうして敵国の空にやって来て、人殺しという任務を果たそうとしているアメリカのクリスチャン兵士達も、イエスに捧げる真心は同じだろう。
ふとリラはそう思う。
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