東京大空襲<起> 2

 ともさんの話しに出たビックとは、今年十歳になる雄のシェパードのことだった。

若い頃は立ち姿の美しい犬だった。

ビックは日本で繁殖されたシェパードにひと頃まで良く見られた、股関節に変形を来す半ば遺伝的な病気を患っていた。

ビックはシェパードとしては比較的長生きだったろう。

結果として患部の障害は進行し、ここ一二年は巧く歩くことが出来ないで居た。

加えてこのところたちの悪い皮膚炎にも悩まされていたのだ。

 ビックは長らく埼玉のご実家で、ともさんのご両親と一緒に暮らしていた。

最近になって股関節の病状が急速に悪化してほぼ寝たきりの状態になった。

いわゆる起立不能と称される病態だ。

ビックは番犬としてその職責を良く果たしていた。

穏かで人懐っこい性格もあり近隣の皆さんから愛された犬だった。

そんなビックも寄る年波と持病には勝てなかった。

人への友愛に生きたビックはご近所の子供達に惜しまれつつ、この度とも動物病院で隠退生活を送る運びとなったのだった。

万事高飛車なスキッパーもビックには優しかった。

終日ラグの上で丸くなっているビックのことを、何かと気にかけているのが分かった。

それが高じてか。

ことあるごとに僕を呼びつけて、あれをしろこれをしろと煩くお世話を言いつけるのだった。

 ビックはともさんが大学浪人をしていた頃にともさんの家に来た。

ともさんは自宅から大学に通ったので、躾や訓練を含め、まさにともさんが手塩に掛けて育てた犬だった。

ともさんは訓練士としても有能だったのかもしれない。

ビックはまごうことなき名犬なのだ。

 ビックは賢く穏やかな性質の中に、天性の思慮深さと愛情を秘めていた。

番犬として一流だったが子供に優しく、およそ対人トラブルとは無縁の犬だった。

まだビックが元気だった頃、僕はともさんの実家におじゃましてへべれけになってしまったことがある。

冬の寒い日だった。

存分に酔っぱらった僕は夜中にのどが渇いて目を覚ました。

体の上には毛布が一枚掛かっていたが、それにしては不自然なくらい体中がぽかぽかと暖かかった。

どうやら酩酊した僕は、ビックに抱きついて眠っていたらしかった。

僕が抱き付いていたことで体勢が不自然になり体が痛かったのだろう。

ビックはぼんやり座り込んだ僕の顔を優しく一舐めすると、前足を延ばし背中を大きく反らせて伸びをした。

そうして深いため息を付いて部屋の隅に水を飲みに行った。

寝入った僕を起こさないようにじっとしていたのだろう。

ビックはそういう犬だった。

『良い機会なので、近いうちにビックの爪の垢を煎じてスキッパーに飲ませよう』

その頃の僕はかなり真剣に考えていたものだ。

 ビックはこちらに来た時点ですでに寝たきりだった。

もう自分で歩いて外を散歩することは出来ない。

けれどもビックは子犬の頃から散歩がとても好きな犬だった。

そんなビックが不憫だったのだろう。

ともさんはあろう事か、ビックを背負って散歩する決意をした。

その様な訳で夜な夜なビックをおんぶして歩くともさんが、会社帰りのお父さん達に目撃される仕儀とあいなった。

当然このことは、ご近所のかまびすしいご婦人方の耳目注目を集めたろう。

ご婦人方が楽しむ噂話には、おあつらえ向きなネタに違いなかった。

 ビックは若い頃体重が四十キロ以上有る体格の良いシェパードだった。

年を取りあまつさえ病を得てひと頃より随分小さくなったような気がする。

だがしかし、クマみたいな大男がオオカミみたいな大犬をおんぶして、何やら話しかけながら真夜中の住宅街を徘徊しているのだ。

おまけに先触れのジャックラッセルテリアが、辺りを威嚇しつつふたりを先導している。

夜陰の中とて人目を惹かぬ訳がない。

 「加納先生。加納先生。

ねえちょっと。

お宅のとも先生、大丈夫?

終電で帰るうちの主人が、みずき通りで大きな犬を背負って歩いているとも先生を何度か見かけたって言ってたわよ。

スキッパーちゃんも一緒に居てまるで護衛のSPみたいだったって」

病院の前で箒を使っている時に似たようなご指摘を何度か受けた。

これはまずいと思ったものだ。

ゴミの収集所や近所のコンビニで機会を見つけては、火種になりそうなおばさまがたに根回しをしておいたがむべなるかな。

事情を知らない人が街灯に浮かび上がるともさん御一行に遭遇すれば、魂消るのは必定だ。

警察に通報されないのが不思議なくらいな、面妖で奇怪な二匹と一人だろう。

百鬼夜行は言い過ぎにしても相当不気味な一座であることは間違いない。

 今時は余程親孝行な息子でも、栄養過多の母親を背負いきれないことが当たり前の時世だぜ。

僕みたいな薄情な人間の目から見ればだよ。

ビック可愛さのあまり矢も楯もたまらず取ったともさんのなりふりはね。

最早美談というより怪談のように思えたもんだ。

 ともさんはともさんなりに、人目に立つことを嫌って真夜中を選んで散歩をしていたみたいではある。

けれども、それがかえってご町内の好奇心をかき立てもした。

最初は気味悪がっていた皆様も、しばらくすると生温かい目で見て下さるようになった。

僕や事情を知るるいさんが水面下で受け皿作りに励んだことが幸いしたのだろう。

うすうすながらも事の次第が周知されるに従って、ともさん一行は見て見ない振りをする。

そんな、どちらかと言えば好意的と言えなくもない近隣世論が固まったようだった。

 ともさんが悪い人じゃないことは確かだし、それはご町内の皆さんも知っている。

普段から奇行癖のある変人という評判が立っていた訳でもない。

どちらかと言えば礼儀正しくて人当りも良い動物病院の院長先生だ。

『ちょっと不気味だけれども前衛的な愛犬家なんだね』

その程度の認識でことが治まったのは僥倖だった。

豊かで平和な街にだって、一人くらい人畜無害な異端者がいないとお茶飲み話にも事欠くことになる。

さすれば、ともさんの浮世離れしたビック愛にだって有難いことにちゃんと居場所ができる。

そう言う事だった。

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