東京大空襲<起> 1

 とある休診日の夕方のことだった。

友人との約束が突然キャンセルになった。

中途半端な時刻にポカっと空いた時間を僕はどうにも持て余した。

そこで実家からくすねてきたウィスキーでともさんと一杯やろうかと、病院を訪ねたのだった。

ウイスキーはラフロイグという初めて見る銘柄だった。

スコットランドのアイラ島で作られている地酒らしかった。

 診察室の照明は消えていたが、奥に灯かりが見えた。

そこでそのまま鍵を開けて表から病院に入った。

「ともさーん。

いますかー?」

「おー。

こっちだこっち」

病院のバックヤードに作られた運動場の方から、機嫌の良さそうなともさんの声が聞こえた。

「あーっ。

どうしたんですか」

 運動場は三坪ほどのコンクリートの打ちっ放しになっている。

屋外ではあるものの合成樹脂で出来た波板の屋根が設えてある。

雨天でも入院している犬を遊ばせることができるようになっていた。

運動場の周囲は鉄格子で囲まれ、目隠しの為の半透明の板が張ってあった。

そこは以前僕がスカンクのマリちゃんに、生涯忘れ得ぬ『状況、ガス!』を一発食らった現場でもあった。

ともさんは、僕的に酸鼻の現場となった運動場のど真ん中で、首まですっぽりとドラム缶に嵌まっていた。

 「缶詰ごっこですか?」

「面白いこというねー。

・・・馬鹿言え。

見りゃ分かるだろう。

ドラム缶風呂に入っているのさ」

ともさんは気持ちの良さそうな湯加減を暗示する白い湯気の中。

満面の笑みを浮かべた赤ら顔を僕に向けて、さも得意そうに威張ってみせた。

頭の上にはどういう訳か、ヨレヨレになった旧日本海軍の戦闘帽が載っていた。

「すると、ラバウル航空隊ごっこですか」

「面白いこというねー。

これで椰子の木でも有れば“気分はもう戦争”ってか」

ここ数日寒の緩みがあったとはいえまだ春分の前だった。

揚げ雲雀が名乗り出でたり、蝸牛が枝を這うにはもうしばらく時が必要だったろう。

露天風呂をしゃれ込むには少々気温が低過ぎるような気がした。

 「でっ、どうしたんですこのドラム缶。

まさか風呂桶代わりにって訳じゃないでしょう」

「パイよ。

つまんない奴だね。

ロマンだよロマン」

「零戦黒雲隊の石原裕次郎に憧れた世代とも思えませんが」

「バカヤロ。

ありゃお袋の世代だよ。

痩せても枯れても蛇口ひねりゃお湯の出る世代だぜこっちは。

親父だって戦争に間に合わなかったんだ。

大本営の参謀や高文通った役人共の尻拭いをさせられた挙げ句にだぜ。

ほとぼりが覚めりゃA級戦犯が首相に納まっちまう。

親父よりちょっと上の世代は、そんなゲスな国の為に死ななきゃならなかったんだぜ。

国に残した家族だって食うや食わずで空襲やら艦砲射撃で殺されちまうしな。

沖縄や広島、長崎、満州のことなんてそれこそ沙汰の限りだぜ。

前線にいた方がまだましってくらいだよ?

・・・とことんツキに見放されたお父さんやお兄さん達には、浪漫どころか悲哀しか感じないよ」

「酔ってるんですか。

それをロマンって言うんじゃ、かなりきてますね」

「ビールを少しばかりね。

陽が落ちりゃ軍艦旗の向こうに南十字星が見えてくるような気がしてね」

 

 ともさんは百人一首やあろう事か教育勅語まで諳んじることができた。

近現代史にも強かったが、選挙では自●党にも共○党にも投票したことはなかったはずだ。

酔っぱらうと“空の神兵”を結構美声で歌ったが“インターナショナル”も大好きだった。

隆達小唄と称して君が代を変な節回しで口ずさみもした。

学生の頃セツルメントに入って子供達から寅さんと慕われていたのは有名な話だった。

けれども学友会の政治姿勢にはかなり批判的だった。

ともさんの本棚では“新約聖書”が埃をかぶっている。

その横には“歎異抄”や“出家とその弟子”が無造作に突っ込んである。

となれば宗教観も推して知るべしだ。

良く良く見ると“日本二千六百年史”や“共産党宣言”、“方法序説”に“1984”も同じエリアで共生していた。

睨んだところ、ともさんは人に語るべきイズムなど持っていないに違いなかった。 

憶測ではあるが読書傾向から察するにだ。

ともさんは縦に切っても横に裂いても、ノンポリで無神論者だろう。

ともさんは何でもありだが何でもない。

ごく一般的な日本人の属性を備えているらしかった。

 こうしてざっと、ともさんをともさんたらしめている人となりのエキスを洗い直してみた。

どうやら突然右翼的趣向の懐古趣味に目覚めたというわけではなさそうだった。

僕は少しく安堵したものの不安を完全には拭い切れなかった。

何事もニュートラルな構えが一番である。

信念とか正義とか信仰だとかを持ち出して来ると、人間、ロクなことがない。

僕はマスターには、いつまでも思想信条的にいい加減な人間であり続けて欲しかった。

それはパダワンの切なる願いだった。

 

 「パイよ。難しい顔して何を考え込んでいるんだ」

「いや、いきなりドラム缶風呂でしょ。

それに頭の帽子。

それ大日本帝国海軍の戦闘帽じゃないですか。

どうしちゃったのかなって思って」

「ほら、鎌倉街道沿いに新しいホームセンターが出来たろ。

早速覗いて見たらこいつが置いてあったというわけさ。

ビックの薬浴に使えそうだなと思ってな。

帽子はもらいもんだよ。

パイよ。別に深い意味があるわけじゃ~ない」

上機嫌のともさんは両手でつるんと顔を拭った。

「“戦争が廊下の奥に立っていた”って言う俳句があるじゃないですか。

なんかそれを思い出しちゃって」

「渡辺白泉かい。

パイよ。

それ教えたの俺だよ。

忘れちまったのか」

ともさんはニヤリと片頬を歪めると海軍式の敬礼をしてみせた。

『そういやそうだったな』

心配がすとんと腹の底に落ちた気がして、なんだかいきなり安心してしまった。

 さっきから、スキッパーがワンワンと煩かったのだが、いよいよ喧しく吠え立てて来た。

彼もまたドラム缶風呂の横に置かれたベビーバスにお湯を張ってもらって、露天風呂を楽しんでいたのだ。

スキッパーは最初、やけに偉そうな顔つきで、フフンと言わんばかりにこっちをディスってきた。

それがなんだか癪に触ったので、僕は少々大人げないと思ったが完無視していた。

僕が無関心を装ったことで、スキッパーもついには怒り出したと言う訳だった。

『パイのくせしてスキッパー様を無視するとは上等じゃねーか』ということだったろう。

「おっ。

スキッパーも露天風呂だね。

羨ましいよ」

ひとくさり、お世辞を使ったらスキッパーは満足そうに尻尾を振ってお湯を跳ね飛ばした。 

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