神様 6

 「診療費を安いと言われるのがそんなに嫌ならですよ。

ここはどんと値上げしてふんぞり返ってみたらどうです。

そうすりゃ他所の先生方から嫌みを言われることもなくなるんじゃないですか?

あわよく増収とも成れば経理担当としても、胃薬の消費量が減るってもんですが」

そんな感じで御注進に及んだことも一度成らずあるのだ。

しかしともさんはそんな時、考えの浅い弟子に道を説く導師のようになる。

ともさんは高潔な志を指し示して、偉そうな説教を垂れるのであった。

「パイよ、考えてもみなさい。

我々の仕事はサービス業だよ。

サービスを売っているんだよ。

クライアントの方々に安くて質の良いサービスを提供する。

これこそ洋の東西古今の別なく、物とお金のやりとりに通底する真理だよ。

勝てて加えて、パイよ。

お金を支払う側が有り難うございますと言って頭を下げる。

力及ばず患畜が亡くなったって、それでもありがとうございましたと言われてしまう。

我々はそんな仕事をしているのだよ。

考え違いをしちゃーいけないね。

飼い主さん有っての我々なのだよ?

それにな、何をどうしようとモノの値段は市場が決める。

十年二十年先の未来を見据えるのだ。

パイよ」

フーテンの寅さんみたいな風貌で歯切れ良くとともさんは語る。

『啖呵売かよ!』と心の中で突っ込みを入れながら「仰る通りです」と僕は平伏する。

 見かけによらずチキンなくせに、正義と原則にうるさいともさんだった。

ともさんは掛かったコストに程々の利益というやり方を、当面変えるつもりはないようだった。

『結局は確信犯なのだからもっと堂々と信念を貫き遊ばせ』

そう言って背中をどやしつけたいところだったが、それは見かけ通りにチキンな僕には振るえない蛮勇だった。

 

 あれから何年たっただろうか。

ニーチェが殺し損ねて生き残った、たった一柱の神様だった。

一柱でも滅法元気が良かったのは経済学担当の神様だったんだけどね。

その神様もバブルの破裂や金融危機を経て最近はすっかり往時の勢いがない。

日本も先進国だなんて威張っていたが、それも今は昔の話になっちまった。

物作りの特技も後進の国々にどんどん追い抜かれて、最早周回遅れと言うのだから若い連中には申し訳ない。

年寄りが下手を打ったせいで、日本は高転びに転んで今や貧乏な元成金長者という体たらくだ。

デフレが進んで物価が上がらない。

結果的には昭和の頃と比べても、診療料金はさほど大きく変わっていないだろう。

ところが、みんなの収入も上がるどころか下がっている始末だから、家計としてはどうだろう。

市場原理云々と言ったって、現状はともさんが思いを馳せた十年二十年先の未来ではない。

当人に確認したことはないが否定はしないだろう。


 スキッパーがトイレタイムを済ませた後、車中ではだらだらと取り留めない世間ばなしが続いた。

なんとなくその場を立ち去りがたい気分がふたりの中にあったかも知れない。

そうこうするうち更に太陽が傾いだ。

天使の梯子もいつの間にか黄昏に溶け込んだ。

世界は夕焼けの赤に染まり始めていた。

「・・・帰りましょう。

リキの血液検査が残ってました」

「そうだったな。

飯は後にすれば良かったな。

おまけに昼寝までしちまって取り留めの無い時間を過ごしちまった。

・・・すまなかったな」

僕はなんだか切なくなってしまった。

 スキッパーが僕お腹に両方の前足でドンと合図を入れた。

それからともさんに向かって尻尾を振りながら一声吠えた。


 何も悪いことをしていない。

それなのに、誰かに対して、何かに対して、後ろめたいような地味な気持ちが胸にたまった。

結局のところ信念ってやつを守り通すのは酷く難しい。

難しいので、信念のためには鉄の意志かデリカシーの欠落を必要とするらしかった。

 芥川龍之介はレーニンを評してこう言った。

「誰よりも民衆を愛した君は、誰よりも民衆を軽蔑した君だ」

(朝日新聞 1997-11-07 素粒子より)

ともさんも僕も、レーニンのようなはた迷惑で傲慢な人間であり続けるにはだよ。

胆力ってやつが決定的に欠けているようだった。




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