神様 3
ともさんが往診の時、僕に運転させたのは、後にも先にもこのとき限りだった。
「貧乏人の神様です」
そう言ってともさんを拝んだ篠田ご夫妻の予期せぬ精神攻撃が、よほどの心理的ダメージとなったのだろう。
実はともさんには風変わりなコンプレックスがあった。
人に誉められたりするとひどく罪悪感を覚えるというのがそれだった。
ともさんはどうもご自分が恥ずべき偽善者である。
いつの頃からか心に堅くそう思いこんだらしかった。
僕みたいな人間にしてみれば、偽善の何処が悪いことなのか。
とんと理解に苦しむところだ。
このことについては、ともさん自身もおかしなことだと気付いている。
人にとっての善意や悪意は常に相対的なものである。
そんな当たり前の事実は十二分に承知しているようだった。
酒を飲みながらよく話題にしたし、下手な自己分析も何度か聞かされた。
ともさんもそれなりに経験を積んで修練も重ねた。
薄っぺらい笑顔が張り付いたお愛想や社交辞令には何とか耐性を獲得した。
だがしかし、ともさんは素朴で底意のない感謝の気持ちには弱かった。
端から見ていても、例えばクライアントから受ける通り一遍の『ありがとうございました』にはにこやかに対応できる。
けれども、心のこもった感謝の言葉を頂戴して丁寧な会釈をされようものならもう駄目だ。
とたんに表情が硬くなってぶっきらぼうな素振りを見せる。
それが実は小心でシャイなともさんの常だった。
この日の状況は、ともさんが普段から気にしている診療料金のことをからめて起きたものだった。
それでよりいっそうの動揺があったのだろう。
・・・あったのだろうが、しかし、大袈裟深刻に考えずともだよ。
「照れちゃうな」と頭を掻いたり。
「おべんちゃら臭いな」と鼻白んだり。
ササっと右から左へ受け流す。
それが分別を弁えた大人っていうものだよね。
診療料金が安いと言われたのなら『チッ、もっとふっかけるんだった』と思えばよいのだし。
「薄利多売なもんで」とまぜっかえすのもありだな。
神様ですなんて拝まれたって『おだてにゃのらないよー』って心の中で笑ってればすむ話と違うかな。
ましてそれがなにあろう、心からの賛辞であればだよ。
僕だったら自己満足の甘い陶酔にだって浸れるだろうに。
とまあ、こんなことが起きる度。
僕はポンコツともさんにはいつも呆れていたものだ。
「拝まれちゃったのはさすがに初めてですか」
僕は弁当殻を袋に入れながらニヤリと品のない片笑みを浮かべて見た。
「神様ってのはけちな了見が棒立ちになる一言でさぁ。
ともさんここ一番の見せ場って処でセリフ忘れた役者みたいでしたぜ。
たまの往診の時、いつも帰りしなにかます玄関先でのともさんの一言。
あれは為になる警句を交えて軽妙洒脱。
飼い主さんも思わずニコニコで『千両役者もかくや!』ってとこでげすな。
いつもなら。
ところがどっこい、お足を頂く段で篠田の爺さんのあの一言。
機先を征する絶妙な間と言い。
鼻面でぴしゃりとはじけた神様と言う台詞と言い。
あの爺とんだ食わせ者かもしれませんぜ」
軽口をたたいてもともさんはまったく表情を変えなかった。
『おいおい、あんまりマジにならないでくれよ~。
ナイーブもたいがいにしないとビョーキだぜ』
僕は心の中で肩をすくませた。
もちろん篠田さんは食わせ者の爺などではなく、優しく良識のある老紳士だった。
それは僕にもよく分かっていた。
『貧乏人の神様』と言うのは、感謝の気持ちが高じて飛び出した少し大げさな一言だったろう。
その一言が、ここまでともさんを打ちのめしたことを知ったのならどうだろう。
篠田さんはともさん以上に傷ついたかもしれない。
冬至から日が経ち春分が近くなる。
すると、遠くの山並みに掛かる黄昏の光さえ見つめれば少しまぶしく感じた。
「診療費。
そんなに安くないと思うがな。
ああ言う言われ様は心外だな」
また始まったと思いながら、これもお給金の内と僕は黙して耳を傾けた。
「どこの病院と比較してああいうこと言うんだろう」
ともさんの声はいよいよ本格的に暗かった。
「それで俺のことを神様だなんて」
ともさんの暗い表情は照れ隠しなどではなかった。
憂愁とはこのことに違いない。
誰もがそれを納得するだろうという有様で、ともさんは深い溜息を吐いた。
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